marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(274回目)十字架の神学 (M・ルター)

2017-02-27 21:16:04 | 日記
 ハイデルベルグ討論(1518年4月)で、自らの神学を「十字架の神学」と規定することによって、当時の神学を「栄光の神学」として、これと対決する姿勢を明らかにした。
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 ルターは状況の人である。状況の中で自らを形成していく、いな、状況の中で迫られ、形成されていく人である。宗教改革の発端の一時期の経過や、その中でのルターの発言をみるとそれがよくわかる。
 彼は決して自らの思索のみによって、すべてをはじめに語り尽くしてしまわない。むしろ、彼の思想形成は、そのときまでに聖書から示されたものを中心に踏まえながら直面させられている問題にぶつかっていき、ひとつひとつこれについて語っていくという形をとる。宗教改革の展開を見ても、その経過の中でやがて彼が革新に触れる問いとして迫っていく問題、すなわち、教会の権威や秘蹟の問題について、はじめからはっきりした問題意識をもっていたかどうか疑わしい。
 ルターは問う人である。問うと言っても、問い続けて、答えを拒絶し、あるいは、自ら答える努力を拒む人ではない。彼は問いつつ、答える人である。自ら問い、自らその問いに対する聖書からの答えを得ようとする。そうしているうちに、今ひとつ奥深いところにある問いに直面するという具合である。彼の思考様式は、聖書と問いと答えの三点をめぐりながら、らせん階段をおりていくように、深く底へと進むようなものである。
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 宗教改革の口火となったと普通考えられている、一連の問いの始めは95個条である。〔・・・・〕
 慣習上の事柄に対しての疑問でなく、神学の基本、教会の本質に触れるものであれば、どのような形で諸説の撤回を要求されても、容易にそれに従うわけにはいかないのは明らかである。人間的に見てそれが容易ならざることであるのはたしかだが、ルターはその容易ならざる道を選び取り、それぞれの場合に命を賭けて、決定的発言を重ねていく。引き返すことのできない道を、ルターは一歩一歩踏み出していくのである。
 そうした発言をささえるような形で、そのころいくつもの著作が公にされている。それらの著作のうち、一つは批判の書物である。カトリック教会の実態を突き、虚像をあらわにする攻撃の著作である。妥協のない形で、カトリック的誤謬を拒否する厳しい内容にならざるを得ない。
 しかし、攻撃と批判だけではない。加えて、ルターの神学思想を積極的に提示するたぐいの著作がある。それらの著作は、信仰の著作として、今日では次第にカトリック教会によって見直されてきている。そして、それだけに今日のキリスト教とキリスト者に対して問いかけるものを含んでいると言えよう。第三の種類の著作は、彼の宗教改革が個人の書斎内のことではないことを示す。彼ひとり立つが、ひとり立つことをよしとせず、自らが新しくされた福音に共に立ち、共に歩んでいこうという呼びかけをする。・・・