埼玉県川口市の地元の旅行代理店が企画した「日光御成道(にっこうおなりみち) 史跡めぐりの旅」に参加し、日光街道の茨城県古河市から栃木県日光市の鉢石宿(はついしじゅく)までの史跡を見学させていただきました。この旅の企画と協賛は、川口市観光物産協会です。
「日光御成道」は日光東照宮に祀られた徳川家康を参拝する際に使われた街道です。今回、日光御成道の各地に残っている史跡を解説していただいた、川口市郷土史会の方によると、「街道の痕跡が残っている場所・史跡と、ほとんど残っていない場所・史跡がある」と、ご説明いただきました。
この解説担当の方は、実際に歩いて日光御成道の各地に残っている史跡を確認されています。当然、かなりの日数を費やしています。このため、日光御成道について、博覧強記の方でした。
今回の「日光御成道 史跡めぐりの旅」は3回に分けて実施され、今回が第3回目です(毎回ごとに、2回実施しています)。徳川家の将軍たちは、初日に江戸城大手門から出発し、最初の日は、岩槻城(埼玉県岩槻市)に宿泊しました。二日目は古河城(こがじょう、茨城県古河市)に宿泊し、「3日目は宇都宮城(栃木県宇都宮市)に宿泊し、身支度を参詣装束に整えて日光廟に詣でていた」との解説を伺いました。これが、徳川家の祭祀行程の標準日程だったようです。
「日光御成道」のバスは、早朝にJR川口駅前を出発し、茨城県古河市にある古河歴史博物館に向かいました。古河歴史博物館は古河城の諏訪曲輪(くるわ)跡に建てられた歴史博物館です。江戸時代に古河藩の居城だった古河城は大正時代に渡良瀬川の改修工事で消え、河川敷きになったそうです。
古河歴史博物館の向かいにある鷹見泉石記念館です。

古河藩が重鎮の藩士たちのために用意した武家屋敷の一つです。

その住人の一人である鷹見泉石(たかみせんせき)が隠居後に住んだ家として有名です。鷹見泉石は古河藩の家老を務めただけでなく、蘭学者としても有名な方です。
史跡めぐりのバスは、日光御成道を一度少し外れて、下野薬師寺歴史館(栃木県下野市)に立ち寄った後に、8代将軍の徳川吉宗が享保13年(1728年)の行き帰りに昼食をとった慈眼寺(じげんじ、栃木県下野市)に向かいました。
慈眼寺は金剛乗院多宝山慈眼寺(こんごうじょういん たほうさん じげんじ)という真言宗のお寺です。徳川吉宗が昼食をとった経緯などをご説明していただいた住職の奥様によると、「慈眼寺住職は正月に江戸城に挨拶に行くと、十万石の大名との格式の扱いを受けるなどの庇護を受けた」そうです。
慈眼寺には江戸時代中期に建てられた鐘桜堂があります。鐘楼の背が高いのが特徴です。

千手観音が収められている観音堂です。

慈眼寺の境内は背の高い木々があり、歴史を感じさせました。
栃木県下野市の国道4号線は日光街道と部分的に重なったり、少しずれたりしているそうです。以前に小金井宿(こがねいじゅく)と呼ばれた所(現在、下野市小金井)には、「小金井一里塚」がほぼ原型で残っています。この辺は、江戸時代の一里塚が史跡として楽しめる歴史ある地域でした。100数10年前の江戸時代は身近なようで、身近ではないとも感じました。100数10年前の痕跡がすっかり消えている史跡が多いことにも驚きました。
「日光御成道」は日光東照宮に祀られた徳川家康を参拝する際に使われた街道です。今回、日光御成道の各地に残っている史跡を解説していただいた、川口市郷土史会の方によると、「街道の痕跡が残っている場所・史跡と、ほとんど残っていない場所・史跡がある」と、ご説明いただきました。
この解説担当の方は、実際に歩いて日光御成道の各地に残っている史跡を確認されています。当然、かなりの日数を費やしています。このため、日光御成道について、博覧強記の方でした。
今回の「日光御成道 史跡めぐりの旅」は3回に分けて実施され、今回が第3回目です(毎回ごとに、2回実施しています)。徳川家の将軍たちは、初日に江戸城大手門から出発し、最初の日は、岩槻城(埼玉県岩槻市)に宿泊しました。二日目は古河城(こがじょう、茨城県古河市)に宿泊し、「3日目は宇都宮城(栃木県宇都宮市)に宿泊し、身支度を参詣装束に整えて日光廟に詣でていた」との解説を伺いました。これが、徳川家の祭祀行程の標準日程だったようです。
「日光御成道」のバスは、早朝にJR川口駅前を出発し、茨城県古河市にある古河歴史博物館に向かいました。古河歴史博物館は古河城の諏訪曲輪(くるわ)跡に建てられた歴史博物館です。江戸時代に古河藩の居城だった古河城は大正時代に渡良瀬川の改修工事で消え、河川敷きになったそうです。
古河歴史博物館の向かいにある鷹見泉石記念館です。

古河藩が重鎮の藩士たちのために用意した武家屋敷の一つです。

その住人の一人である鷹見泉石(たかみせんせき)が隠居後に住んだ家として有名です。鷹見泉石は古河藩の家老を務めただけでなく、蘭学者としても有名な方です。
史跡めぐりのバスは、日光御成道を一度少し外れて、下野薬師寺歴史館(栃木県下野市)に立ち寄った後に、8代将軍の徳川吉宗が享保13年(1728年)の行き帰りに昼食をとった慈眼寺(じげんじ、栃木県下野市)に向かいました。
慈眼寺は金剛乗院多宝山慈眼寺(こんごうじょういん たほうさん じげんじ)という真言宗のお寺です。徳川吉宗が昼食をとった経緯などをご説明していただいた住職の奥様によると、「慈眼寺住職は正月に江戸城に挨拶に行くと、十万石の大名との格式の扱いを受けるなどの庇護を受けた」そうです。
慈眼寺には江戸時代中期に建てられた鐘桜堂があります。鐘楼の背が高いのが特徴です。

千手観音が収められている観音堂です。

慈眼寺の境内は背の高い木々があり、歴史を感じさせました。
栃木県下野市の国道4号線は日光街道と部分的に重なったり、少しずれたりしているそうです。以前に小金井宿(こがねいじゅく)と呼ばれた所(現在、下野市小金井)には、「小金井一里塚」がほぼ原型で残っています。この辺は、江戸時代の一里塚が史跡として楽しめる歴史ある地域でした。100数10年前の江戸時代は身近なようで、身近ではないとも感じました。100数10年前の痕跡がすっかり消えている史跡が多いことにも驚きました。