なぜだろうー現役時代に生徒を前にしていた時、一度古文書の研究会に誘われて勉強したことがある。
その時には社会科の教員として「必要性」は感じていたものの、その勉強に楽しさを感じなかった
どこかにやらされている、他人に見られている=カッコウつけている自分を意識していた
退職して田舎に引っ込んで、出会った「古文書講座」、地元の85歳の先達が指導してくれるこの講座が面白い。
昨日は明治3年の民部省発通達(写)「外国人雇用について」と、大改革であった「減税の通達書ー村々小前共江」いう文書を解読した。
候文で独特の言い回しがあって、初めは行書書きで書かれていて読めるのだが、次第に筆が走ってくると草書になって読みにくくなってくる。
しかし、声を出して読んでみて正解したときの喜びが大きく、力が入ってくるもちろん予習をしていった。
予習は次回やる文書を解読するだけでなく、明治3年、いや肥後の近代黎明期の概説を読んでいないと昔勉強したこともすでに忘却の彼方・・・
この時代の肥後の状況は開明的思想家に恵まれていた。横井小楠の弟子達が政治の表舞台に踊り出る。徳富蘇峰、蘆花の親父である一敬、竹崎茶堂、嘉悦氏房、安場保和・・・この実学党と対立する学派に林桜園以下太田黒伴雄など神風連に繋がる人々もいた。
古老の先生はアラカンたちの生徒に声を出させて読ませる。声を揃えて読むという小学校以来の授業だ。意味は最後にちょびっとだけさらーっと流す。しっかり予習しておかないとついていけない。
これが教育の原初的取り組みで、単純だが案外いい
質問は85歳の先生、大きな声で3回繰り返さないと聞こえないのでエネルギーが必要
でも楽しいから苦にならないのが不思議だ。
2週間に一度、再来週が待ち遠しい