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抱腹絶倒!?
とまではいわないが、いまの日本の「常識」というのをぶった切った本だ。
「人は真理についてしりたいのではない。
自分を慰めてくれる虚実にまみれたいのである。」
という最近私が思っていたことを実感させられた本でもある。
この本の中から特に面白かったものを取り上げたい。
まずは、9ページからの「世界の中心は自分」という小見出しから始まるもの。
著者は、大学での教師もしているということもあり、今の学生、もしくは若者に対して、
「自分と何らかの関係があるかぎりにおいては講義で教員が語ることにも関心は持つが、いったん『あ、これは自分には無関係だ』と思えば、後は一切の興味を失ってしまう。」(11項)
というように分析をしている。
正直これは、ぼくもまわりの学生とかを見てて感じることではあるが、おそらくこれを見て自分のこととして、共感をする若者というのはそう多くないのではないだろうか。なぜなら、それは決して心地よい分析ではないだろうから。
精神分析を生業とする著者だけあって、さすがに各トピックについて鋭く分析をしている。
もう一つは、48ページからの「自分らしい仕事をしよう」という小見出しで始まるもの。
著者は、このいまの就職業界というか、世間に渦巻く、「自分を探して、自分らしい」仕事を見つけようという大合唱に対して、
「『自分らしさを見つけよう』といわれる際の『自分』とは、時として現実離れしたりそうの自分に傾きがちだ。だとしたら、『自分らしい仕事』というのも、実際には自分に会わなかったり見つかりようも無かったりする現実離れした仕事である可能性も大きくなる。相すれば、景気などの要因とは関係無く、ますますフリーターやニートが増えるのも当然だ。」(52項)
というように鋭く分析する。
しかしである、どうしてこれほどの分析を行える人が、「人間のいわば自分への理想への想像に対して、実際はそれはただ自分がそれを信じるか否かの差でしかない」という、もっともらしい姿を説かないのかはきわめて不思議である。
つまり、「自分らしさ」「自分らしい仕事」などというのは表現自体がグロテスクに間違っているといえる。
なぜなら、それはあくまでも、「自分がこうありたい」という希望でしかないからだ。単純な日本語の綾を使うことによって、あたかも人間という存在に「神」的な存在から告げ知らされたような理想像が予め備わっているような幻想を抱かせるのは良くない。
この理想像が予め備わっているという幻想を抱かせること自体が「自分探し」などという不気味な行動に駆り立てることにつながっていくのだろう。
「身体よ悲鳴をあげよ!」
サルトルが今に生きているとそういいそうだ。