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さて、これから「実詞化=イポスターズ」という概念いついて詳しく見ていこうと思う。
この言葉は、もともとはギリシア語の<hypostase>のことであり、「下に身をおくこと、下に位置する(基礎となる)こと」(204頁,西谷修氏の解説より)で、「みずらの外に出ることを至高の自由とし、その栄光と悲惨を引き受ける」(213頁)とする「脱存主義」(同)(=サルトル、ハイデガーなどに見られる考え方をさしていると思われる=宗田)に対して、「逃れえないみずからの存在をその下に身をおき担いとって立つレヴィナスの主体」(=担在主義)(同)というレヴィナスの独自性をあらわす概念ということだ。
この実詞化=イポスターズという概念を理解するためにはまず、先にも述べたレヴィナスにおける人間存在のあり方というのに立ち戻らなければならない。
レヴィナスにおいては、人間存在は、「実存するもの」と「実存」というように捉えられている。つまり、実存ということ自体では、人間存在はいわば、実存感というか、実存の感覚を味わうことができない。
このことが、おそらく先に述べた存在の禍悪性とでもいうものと関連するのだろう。当たり前といえば、当たり前だが、それがプラトン『饗宴』以来の他へ求めるといった他への善き求婚とでもいうべき状態ではなく、存在そのものが悪性であるゆえに・・・というようになるのだろう。この点に関してはレヴィナスについて詳しく見ていかなければ明らかにはされないだろう。
さてさて、
レヴィナスは、この実詞化=イポスターズについて、
「動詞によって表現される行為が実詞によって示される存在となるその出来事を指し示していた、<実詞化=イポスターズ>という言葉を再び採用することにした。<イポスターズ>、実詞の出現、それはたんに新しい文法的カテゴリーの出現ということだけではない。それは、無名の<ある>の中断を、私的な領域の出現を、名詞の出現を意味している。<ある>の規定の上に存在者が立ち現れる。」(174頁)
というように述べている。
これまで、いくばくか人間存在というものに思いをめぐらしてきたものにとっては、あくまでもこれは、答えではなく、路でしかないが、えらく刺激的な事実のように思える。
これをただ概念として捉えるならともかく、これを日常という中に移し変えて考えるならば、先に述べた社会性の樹立の必然性という議論からも踏まえて、存在しようという意志(実生活における実詞化とでもいうべき状態)によって、私たちは、無名でなくなるということである。つまり、存在への意志ということを指し示そうとすることで、個別性が色濃く示されるのではないかということである。
さらに、この<イポスターズ=実詞態>とは「意識」(175頁)のことであり、実存者とは意識のことであるという。
ここにレヴィナスのいう実存者というのは、意識ということが発見されたわけであるが、彼が存在の禍悪性というのをもとに発しているように、ここから問題がまた生じることとなる。