存在は不確定なものとして対自存在から即自存在へと問いかけられうるもの。
不確実なもの、つまりは、存在しないという存在への問いかけというのが、
あなたの問いかけでしたね。
個人的には、あなたの考えに一投を問いかける命題を思い浮かべれたと思ったのですが、やはりあなたの問いに終始してしまい、悔しく思っております。
人間存在の不幸。
それは、おそらく即自-対自という概念を超えて、
その中途半端な優秀さゆえに、
自分の人生、かかわりうる人々との対他的空間的広がりにおいて、
すべて存在しているという恐怖
すべて存在しているという恐怖への自己投企への試みから、
グロテスクなズレが出て、この耐え忍びがたい
対自存在という無意味な試みが生まれる。
それゆえ、
悩みをいただくということなのでしょう。
対自の即自という存在しない存在の希望と絶望からの投企。
無力さ。
それゆえ、身がもだえる嘔吐を催す。
どうでしょう。
サルトルさん、
あなたが生きておられたら、どうご回答なさいますでしょうか?
サルトルさん自身も、私という対自という存在からすると、
即自的存在であり、
生存してようが、死んでおられようが、さして大きな差はないんですよね?
サルトル的即自の残片をお持ちの即自的サルトルさん、
どうお考えになられますか?
不確実なもの、つまりは、存在しないという存在への問いかけというのが、
あなたの問いかけでしたね。
個人的には、あなたの考えに一投を問いかける命題を思い浮かべれたと思ったのですが、やはりあなたの問いに終始してしまい、悔しく思っております。
人間存在の不幸。
それは、おそらく即自-対自という概念を超えて、
その中途半端な優秀さゆえに、
自分の人生、かかわりうる人々との対他的空間的広がりにおいて、
すべて存在しているという恐怖
すべて存在しているという恐怖への自己投企への試みから、
グロテスクなズレが出て、この耐え忍びがたい
対自存在という無意味な試みが生まれる。
それゆえ、
悩みをいただくということなのでしょう。
対自の即自という存在しない存在の希望と絶望からの投企。
無力さ。
それゆえ、身がもだえる嘔吐を催す。
どうでしょう。
サルトルさん、
あなたが生きておられたら、どうご回答なさいますでしょうか?
サルトルさん自身も、私という対自という存在からすると、
即自的存在であり、
生存してようが、死んでおられようが、さして大きな差はないんですよね?
サルトル的即自の残片をお持ちの即自的サルトルさん、
どうお考えになられますか?