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凶作に苦しむ農村を描く映画『山女』を見た。生きることが目的だった時代を神話的に描く意欲作だった。
舞台は東北地方の山村。気候が思わしくなく、住民は冷害に苦しめられている。村の伊兵衛は娘と息子の3人で暮していた。一家は曽祖父がかつて悪事を働いたために、村八分となっていた。唯一許された仕事は死体の処理の汚れ仕事だけだった。生活は苦しく伊兵衛は盗みを犯してしまう。父親をかばって娘の凛が罪をかぶる。村にいられなくなった凜は村を去る。おそらく山で死ぬつもりだったのであろう。しかしそこで山男と出会う。山男は野生の人間であった。凜は山男に安らぎを覚える。
そこにあるのは人間社会の相対化である。人間は社会を作らないと生きていくのは難しい。しかしその「社会」は理不尽を生み出す。差別が生まれるのだ。その「社会」の内部にいるつまはじき者には、理不尽を理解できない。そこで生きていくしかないのだ。しかしその「社会」を一歩外に出ると、その「社会」の理不尽に築くことになる。そして山男との生活に安らぎを覚える。だからこそ山で凜は美しくなったのだ。
「社会」につれもどされた凜にとって、もはやそこは牢獄でしかない。
人間の作り出す「システム」は、常に理不尽を作り出し見事にその理不尽を隠蔽する。それに抵抗する力を持ち得るときに、人間が人間として自立できる時だ。
『山女』は人間の根源を描く映画だった。
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