夏目漱石の『明暗』を読みました。小説としておもしろいのかと言われると肯定することはできませんが、文学史的にはとても重要な「小説」です。
『明暗』は漱石の最後の作品です。未完のまま終わっています。ですからなんの結論も出ないし、この小説の意図もわからないままです。それでもこの小説が評価されているのは、この小説が漱石にとっては、初めて視点が複数の人物に当たられているからです。
この小説は3人称小説です。ですから複数の人物に視点があたられていても当然と思う方もいるかもしれません。しかし多くの場合、3人称小説であっても特定の一人の人物にしか焦点が当てられていないことが多いのです。漱石の作品でもそうです。どの小説も主人公と思われる一人の人物に焦点が当てられていて、その人物の心理しか描かれなかったのです。
ところが明暗では最初は主人公の津田由雄に焦点があたられていたのですが、次には妻のお延に焦点が当てられ、お延の心理が描かれているのです。この手法は当時の日本では画期的だったのではないでしょうか。小説家にとって焦点を変更するというのは勇気のいることであるし、女性に焦点を当てるという点でもこれまでにあまりなかったものだったはずです。
漱石は『こころ』で、ふたりの人物の手記という形で複数人物の視点を描く方法を実践しました。しかしこれは「小説」という意味では奇をてらった方法であったとも言えます。『明暗』ではこれを「普通」の「小説」の中で実践しようとしたと言えます。これが成功したのか、失敗したのかは未完だったのでなんとも言えません。しかしこの実践が日本の小説を育てたのは明らかです。記念碑的な作品だと思います。
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