とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「羅生門」⑧〔「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」〕

2019-02-16 09:21:03 | 国語
 「羅生門」において「作者」と名乗る「語り手」の介入が目立つ場面をもう一つあげる。これも有名な場面なので覚えている人も多いであろう。引用する

 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死にをするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、飢え死にを選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。

 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。


 この記述に違和感を覚える読者も多いのではないだろうか。この後下人は老婆に詰め寄ることになるわけだが、その理由は「合理的」なものではない。下人は老婆の行動に憎悪を感じる明確な理由はない。下人の勝手な思い込みなのである。「作者」と名乗る「語り手」は無理矢理理屈付け、それを納得させようとするのだ。

 この部分から「羅生門」という小説が破綻していると考えることもできよう。物語の展開に無理があり、その無理をうまく処理できていないからだ。まじめな作者だったら、もっとうまい理屈を作り上げる。しかし芥川は「下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった」という理屈にならないようないい加減な理屈でここを済ませてしまっているのである。これを許せない読者もいるであろう。

 しかし一方ではこのいい加減さが、下人の幼さを強調する役割も果たしている。さらに「作者」と呼ばれる「語り手」の胡散臭さも強調されている。その意味で印象に残るおもしろい記述に感じるのである。
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