前回、脇道にそれたので戻す。
筆者は、第二段落で人間が世界に違和感を覚えるのは、言葉を手に入れたための宿命だと言い、だからこそ世界を学び、世界を自分に合うように作り替えなければならないと言う。そして、学ぶことには二段階あり、自然を学ぶことが第一段階、自然を学んだ人間がつくりだしたものを学ぶことが第二段階だと言う。そしてこの第二段階のために学校があると言う。私はここに疑問を覚える。筆者の主張はあまりに学校よりのように思えるのだ。
確かに本来的に学校は「読み、書き、そろばん」を学ぶためにあった。そして「読み、書き、そろばん」は人間の人類の発展のために人間が生み出したものだと言ってもいいだろう。その意味で筆者の言っていることは間違いとまでは言い切れない。
しかし、現代の教育はそうなっていない。あきらかに国家にとっての理想的な国民を作り出すためのものとなっている。国家的な教育統制はどんどん進んでいく。これでは、教育は子供たちに違和感を増長させるだけである。
現代の学校は筆者の言うような純粋なものではない。それなのに筆者は「学校」を理想化する論理を軽く言いすぎているのである。そこに私は強い違和感を覚えてしまう。
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