近代について考えている。
近代は個人の時代である。ひとりひとりが独立している。それによって個人は自由を得た。
それに対して前近代は個人にあまり自由はなかった。そのためにあらゆる作業は指導者の命令による集団作業になった。これは一方では個人の能力を生かせないのでデメリットもある。しかし一方では集団による作業は発想の幅が広がるし、効率的である。メリットもあったはずだ。
例えば歌舞伎の脚本は共同作業で作られていた。一応作者の名前がつくが、それは作家グループのリーダーであった。脚本会社みたいなものだ。
我々は、小説は個人の力で書くものと思い込んでいるが、それは近代の常識である。近代特有の現象なのだ。
しかしこの近代の個人作業はやはり効率が悪い。効率が悪いどころか、一人よがりになってしまい、しかもすぐに壁にぶつかり、作者は精神的に追い詰められる。
近代の国語教育では、作者の意図を考えることが重要である。そして個人の作業を高く評価しようとする。しかし、もはや近代小説は限界に来ていると考えれば、その教育方針はは根底から覆される。
自由な共同作業、それが脱近代なのではないかという仮説を、今考えている。まだ思い付きでしかなく、メモ的な文章になっていて申し訳ないが、とにかく書いておく。
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