とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

これからの国語教育のひとつの方針(書評『外国語を身につけるための日本語レッスン』)

2016-03-22 09:02:10 | 高校国語改革
 三森ゆりかさんの『外国語を身につけるための日本語レッスン』を読んだ。

 内容は4章に分かれている。

 第1章は外国語と日本語の違い、そして「国語教育」の違いについて。特に日本語は主語や目的語の省略が多く、外国語に翻訳する際うまくできないことが多い。それは日本語の特徴なので善悪の問題ではないが、それがためにあいまいなものをあいまいなままにする傾向ある。

 確かに小説などの文学作品の場合、それはひとつの表現となっているわけなので問題にするわけにはいかないが、普段の会話などではあいまいなものをあいまいにして議論がかみ合わず、それを許している現状がある。会議でも意見はつねにかみ合わず、だれもが自論を言うか、ただ黙って聞いているかだけだ。そしていわゆる「空気」による支配によってなんとなく決定していく。国会の議論のかみ合わなさは世界に恥をさらしているようなものだ。日本は民主主義の建前でいながら、独裁者のやりたい放題なのではないだろうか。これは日本語の特徴に安住してしまい、本来行うべき言語技術の学習をおろそかにしてきたせいなのではないだろうか。

 日本の国語教育は「文学教育」が主流であった。文学作品を鑑賞することが主だったのである。言語表現を批判的に読解し、それに対して自分の意見を持ち、そしてその意見を的確に表現するという「言語技術」の教育はあまり行われてこなかった。これからのグローバルな時代に対応するためには「言語技術」の指導が重要になってくることは明らかであり、研究、実践が急がれる。

 第二章は「翻訳できる日本語へ」。主語、目的語などをあいまいにしないで、外国の人とコミュニケーションができるような日本語の文をつくる訓練の必要性とその方法が紹介されている。

 第三章は「『対話』の技術」。

 第四章は「『説明』の技術」。

 いずれも、言語表現の技術の必要性とその方法の紹介である。外国の国語教育では当たり前のように行われていたことが、日本ではほとんど行われていなかった。それを日本で実践するための入門編と言ったところである。
日本の国語教育のすべてが悪いとは思わない。しかし、あまりに伝統に安住しすぎてやるべき改革をしてこなかったのは明らかである。欧米諸国に比べれば「言語技術」能力という意味では数十年は遅れているのではないだろうか。

 今後の改革の方向性をわかりやすく示してくれる良書である。
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映画評『完全なるチェックメイト』

2016-03-21 18:03:07 | 映画
 ボビーフィッシャーというアメリカのチェスの名人の物語。

 ボビーフィッシャーは自分の母親がソ連のスパイと付き合っていたり、どうもその出生に関してもはっきりしないところがあった。しかし小さいころからチェスの才能が発揮され、どんどん強くなっていった。その当時のチェスのチャンピオンはソ連のスパスキー。ふたりは国の威信をかけての勝負が始まる。しかし、ふたりにとってそれは重圧であった。ふたりとも精神に異常をきたしながら勝負は進んでいく。最終的にフィッシャーが勝つことになるのだが、もはや彼の心はボロボロであった。

 ボビーフィッシャーの生涯についてはNHKでドキュメンター番組が放送されていたので知っている人も多いかもしれない。ドラマチックな人生であった。

 特に冷戦のころはあらゆるものが国を威信をかけての勝負であった。オリンピックもそうであった。金メダルをとるためにソ連はなんでもやっていた。おそらく最近のドーピングの問題もその名残なのであろう。

 その国の威信をかけての勝負にたった一人の人物が矢面に立たされる。これは異常な世界だ。この重圧はものすごいものであったに違いない。「国家」は人間の精神を究極にまで追い詰め、そこで必死に戦いを挑ませる。「国家」という巨大な幻想と戦わなければならないフィッシャーとスパスキー。ふたりは最後にお互いを認め合ったように思えた。究極まで追い詰められながら、必死に戦い、そして逆に人間の心を取り戻すふたりの姿に、私は感動させられた。

 チェスはもうコンピューターに勝つことはできない。今度はコンピューター同士が戦うことになるのだろうか。囲碁でアルファ碁が名人に勝ったのももしかしたらアメリカのものすごいパフォーマンスだったのかもしれない。

 「国家」という得体のしれない巨大な力はわたしたちを知らないうちに縛り続ける。その中で精神が自由になるためには何が必要なのか。とても大きなテーマを考えさせられた。
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書評『ニッポンの文学』(佐々木敦著)

2016-03-20 02:25:58 | 読書
 私は大学で国文学を勉強しました。近代文学といえば鴎外、漱石を中心として成立したものとして学んできたわけですが、正直言って「文学」って何かよくわからないまま終わってしまったような気がします。

 この『ニッポンの文学』という本は1970年ごろから今にいたる日本の文学状況を、従来の「文学」という得体の知れないカテゴリーにとらわれず概観した本です。

 従来の「文学」の指針となっていたはずの芥川賞の検証、アメリカ文学からの影響、従来は「文学」とは遠い存在であったミステリーやSFを取り上げ位置づけようとするなど、おもしろい視点が次々と紹介されます。

 そもそも「文学」というのは一部の人たちによって勝手にカテゴライズされたものであり、それにこだわりすぎていたのは明らかです。そして「文学」という共同幻想が日本の小説の価値を決定させてきたのです。明らかにこれは不幸なことでした。この本を読んでやっと「文学」から解放される時代になったんだなという気持ちになってきました。

 筆者はたくさんの小説、評論を読んでおり、それを評価しながら現代という時代を相対化していきます。今私たちが生きている時代はどういう時代なのかを考えるきっかけともなります。とても感心させられます。また勉強にもなります。

 私にとってこれまで名前などは知っているものの全然読んだことがなかった本、名前も知らなかった本などがここでその価値を評価されています。この本で紹介されているたくさんの本を読んでみたくなりました。
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コンピューターが人間に勝った!

2016-03-19 03:44:20 | ニュース
 「アルファ碁」というコンピューターソフトが、今最強と言われている囲碁棋士に勝ったそうです。囲碁に関してはまだ人間のほうが強いのではないかと思っていましたが、こんなに早くコンピューターが勝ってしまったので正直驚いています。

 しかし、本当の驚きは、このソフトが自分で考える能力を持っているということです。自分で考えることができるということは、もはやコンピューターが人間と同じなのではないか、いや、この膨大な記憶力と計算速度の速さによって人間を超えてしまうのではないかと考えられることです。SFの世界でよく描かれる、コンピューターが人間を支配する事態が現実のものになるのではないかとやっぱり考えてしまいます。

 この件に関しては認知科学や認知心理学の研究が進んでいるようなので、もっと勉強していきたいと考えています。とてもおもしろいテーマです。そして機会があればまた書きたいと思います。

 さてここでは現在いくつかの点において直感的に考えたことを書き残しておきます。

 ひとつはもうプロ棋士はいなくなるのではないか、そして囲碁は衰退するのではないかという心配です。

 囲碁は人間が何千年もかけて作り上げてきたゲームです。そして人間が新手を見つけ出し、その人間の努力が定石となってきたものです。プロ棋士たちは自分で勝つ方法を発見してきたのです。

 しかしコンピューターが人間に勝つようになると、人間は勝つためには自分で考えるよりコンピューターに新手を考えさせるようになってしまいます。人間同士の勝負でも、コンピューターとの練習であみだした方法だけが試されるようになってしまうでしょう。こうなってしまったら、囲碁は自分が楽しむだけのものといしてはいいかもしれませんが、プロ競技としては成立しません。今後囲碁は衰退してしまうのではないかという心配していまします。はたしてどうなっていくでしょう。

 もうひとつは、コンピューターはもう人間の道具であるというレベルを超えたのだろうということです。少し前までは「コンピューターを管理するのは人間だ。」で済まされてきたと思いますが、そんなに簡単な問題ではないように思えてきたのです。

 おそらくこれからの人間の人生観はコンピューターによって大きく変わってきます。この変化をよく見つめることが人間の人間たる所以を見つけることにつながるのではないかと思えるのです。

 コンピューターの支配はいやですけど、人間が人間であることを見つめ、新たな人間学が生まれてくるのではないかという期待があります。
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なぜ「現代文」の教科書に出てくる文章が難しいのか2(センター試験)

2016-03-17 18:47:18 | 高校国語改革
前に最近の高校の国語の「現代文」の文章が難しすぎるというブログを書かせていただきました。そしてそれはセンター試験のせいだと書きました。その続きです。

 センター試験はすべてが選択問題なので普通の文章で出題するとどうしても簡単になりすぎてしまいます。本来センター試験は、個別試験を受けるための資格試験的な性格であったはずです。だから簡単であっても問題がないはずなのです。しかし現実にはそうはなりませんでした。毎年のように難しくなっていく。なぜそういうことになってしまったのでしょうか。

 ひとつにはあまりに簡単になってしまうと、東大や京大のような難関校を受験するような生徒はほとんどが満点をとってしまい、しぼりきれない状況に陥ってしまうという事情があったのではないかと推測されます。たしかに個別試験で差がつけばいいのではありますが、センター試験でもある程度差がついていないと、本当に力のある生徒が足切りにあったり、逆にそれほどの力がない生徒も合格しやすくなる。それでは東大や京大のプライドがゆるされないのです。

 また、やはり高校の教師側の教科エゴが働いていた部分もあるのではないかと推測しています。自分の教科が簡単ならば生徒は勉強しなくなる。難しい教科であるほうが存在価値があるという意識があり、他の教科よりも難しいことを望んでいたのではないかとも思えるのです。

 さて、そこで現代文の問題を難しくする必要が生じました。どういう手を使ったのか。繰り返しになる部分もありますが説明します。

 選択式の問題で現代文の試験を難しくするのはかなり大変だと思います。センター試験の現代文の平均点をさげるために問題製作者が考えたことはおそらく次の二つだと思います。

  ① 選択肢を難しくする。
  ② 問題文を長く、難しいものする。

 ①については選択肢を長くして、大部分は正解でありながら、ごく一部だけ本文の内容と合致しない部分をつくることによって、受験生を惑わせようとするのです。間違い探しのような選択肢をつくるのです。ほとんどいいのにごく一部だけがちょっと違う。そんな選択肢をつくることによって正答率を下げるのです。かなり意地悪な選択肢もあります。それ以上に予備校やベネッセの模擬試験の問題は大変な状況です。そこまでやるかというような選択肢をよく見かけます。国語教師だってほとんど解けないときもあるくらいです。

 ②についてが、この文章の取り上げるテーマなのですが、最近の国語の現代文の試験で扱っている文章が、現代思想、あるいは現代哲学の文章のような、大学というよりも、大学院で、しかも思想的な勉強を専門に扱う人が読むようなものになっているのです。はっきり言ってしまえば、高校生や大学生が読むべき文章のはるか上の文章なのです。

 おそらく極端な場合、受験生はほとんど内容を理解できないまま読み進みます。しかし、選択肢を選べばいいだけなので、内容がわからなくても解答ができるのです。選択肢の間違い探しをしているような状況で試験が行われているのです。それなりに理解できる箇所もあるのですが、文章の本質的な部分は理解できないまま読み進めているのは間違いありません。

 センター試験がこれだけ難しくなってくると、教科書もそれに対応できる内容のものを掲載するようになります。「現代文」の教科書に載る文章も難しくならざるを得ません。

 こうして国語の教科書にたくさんの難しい文章が出現したのです。

 (続きます。)
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