とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

バンカース ソリティア コビット

2018-09-07 19:06:17 | お題
 お題に参加します。

 ボードゲームの定義が明確でないのでインターネットで調べてみた。囲碁や将棋なども入るとすれば、ボードゲームの王様は囲碁だと思う。このゲームは本当にすばらしいゲームだ。基本的なルールは単純でありながら、奥が深いゲームは他にはない。学校の授業に入れてもいいほどのすぐれたゲームだと思う。日本の将棋もすごい。取った駒を自分の駒として使用できるというルールが見事である。

 ただし、いわゆる「ボードゲームと」言うと、小さいころにやったいくつものゲームが一つの箱に入っている奴が、私はまず思い浮かべる。それはダイヤモンドゲームとか、チェッカーとかたくさんのゲームが入っていたのだが、その中で印象に残っているのが2つある。コビットというゲームとソリテアというゲームである。コビットは今はやり方も忘れてしまったが、幼いころ一番好きだったと記憶している。ソリテアは意味は「一人遊び」のことであるようだ。だからトランプでも「ソリテア」というゲームは何種類かある。しかしボードゲームのソリテアは「ペグ・ソリテア」とも呼ばれているもので、これはかなり大きくなってからも遊んでいた。

 ボードゲームの一大ブームとなったのはもちろん「人生ゲーム」である。これも遊んだが、私が一番好きだったのは「バンカース」である。これは「モノポリー」の日本版ゲームのようだが、「モノポリー」は実はしたことがない。「バンカース」はおもしろかった。何時間も遊べた。

 しかし、ボードゲームの最大の弱点は飽きるということである。囲碁などは複雑だからあきないが、いわゆる「ボードゲーム」は必ずあきる。これがコンピューターゲームと違うことだ。実はコンピューターゲームがいけないのは飽きないということなのではないかと思っている。子どもがいくらゲームにはまっても、昔は飽きるからなんとか生活を立て直すことができた。現在は飽きないから中毒になる。子どもたちが遊びに飽きない。人によってはいいことのように聞こえるかもしれないが、これは本当に怖いことである。
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『彼岸過迄』② 「風呂の後」

2018-09-06 18:31:18 | 夏目漱石
 『彼岸過迄』の最初の章は「風呂の後」と題されている。この章が何なのかよくわからない。そこで少し考えてみる。

 「田川敬太郎」の同じ下宿に森本という男が住んでいる。仕事はあるように見えるが、昼間から風呂屋にいるような男だからどうもうさん臭い。この男、過去にたくさんの冒険をしている。言ってみれば自由人である。その自由さに敬太郎は憧れる。しかし森本は突然姿を消す。しかも下宿代を滞納したままである。はたして森本はどこへ行ったのか。

この章と、それ以降がどうつながっているのかが明確ではない。森本のその後はわからないままである。確かに森本が残した洋杖が次の章に用いられてはいる。しかし、これはとってつけたようなもので大きな要素とは思えない。「風呂の後」という章はなくても問題はなさそうなのである。

とは言え、俳句の取り合わせと同じように、まるで関係なさそうな要素も合わされば意味が生まれる。この章はこれがあるからこそ意味があると思って読むのが読書である。もちろん作者だって何かを意図していたはずである。

 9章に興味深い会話がある。
 敬太朗が森本に言う。
「だって、僕は学校を出たには出たが、未だに位置などはないんですぜ。貴方は位置位置ってしきりに云うが。――実際位置の奔走にも厭き厭きしていまった。」
 それに対して森本が答える。
「貴方のは位置がなくってある。僕のは位置があってない。それだけが違うのです。」

 漱石作品に登場するのは「近代知識人」たる「男」である。一般的に「近代知識人」とは「位置のある」人物である。しかし漱石作品に登場する多くは「位置があってない」人物なのである。

 森本は自身が活動していき自然を相手に冒険をするが、敬太朗は自身は観察者として人間を冒険する。位置があるので大きく動くことができないのだ。森本との対比によって「近代知識人」が浮かび上がる。現代人も同じだ。「位置がなくってもある」人だらけだ。これは今に通ずるテーマである。

 人間を冒険する敬太朗は探偵になる。探偵として敬太朗がどういう役割を果たすか。次回以降に書いていきたい。
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書評『彼岸過迄』(夏目漱石)

2018-09-03 07:29:33 | 読書
 夏目漱石の『彼岸過迄』を読んだ。以前1度読んでいるはずであるが、読み返してみて全く覚えていなかった。適当に読んで読んだふりになっていただけだったのだ。ただし覚えられない理由もある。この小説大きな筋がはっきりとしないのである。作者自身が序文で次のように書いている。

「かれてから自分は個々の短編を重ねた末に、その個々の短編が相合して一長編を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持っていた。」

 そしてそれをこの『彼岸過迄』で実践するというのである。

 これが成功しているのかどうか。前半と後半の内容が分離しているという意味では失敗である。一般の新聞小説の読者にしてみれば、この小説はどういうストーリーだったのか把握できなく、面白みを感じにくいであろう。しかし、前半の実験的な方法が後半に引き継がれ、須永と千代子の関係の話に迫る方法はとても興味深いものである。

 わかりにくい説明になっているので、以下具体的に説明していきたい。

 『彼岸過迄』は前半と後半の主人公がいつの間にか変化をしている(ように見える)。前半の「主人公」は「田川敬太郎」である。しかし、敬太郎は主人公のふりをして登場するのであるが、実際には単なる狂言回しの役しか演じない。実際の主人公は「須永市蔵」という人物である。しかし須永は最初は登場しない。途中から敬太郎の友人として登場するのだ。読者は須永が脇役のひとりとして登場したように感じて読み進めながら、実際にはいつの間にか主人公になっているのだ。読者はこの展開に違和感を感じずにはいられない。

 この小説における敬太郎の役割は「意志ある観察者」である。

 以下続きます。
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1年前シリーズ 日野照正さんのビンタと日本の教育事情

2018-09-02 18:20:52 | 1年前シリーズ
 1年前に次のような文章を書いていた。

 日野皓正さんが中学生をビンタしたことが話題になっている。私はそれほどのこととは思わなかったのだが、やはりマスコミは大騒ぎして、例のごとくみんなが「持論を展開」している。

 教育の現場にいる人間にとって「体罰」はいけないというのはもはや十分わかっている。そしてさらに「ことばの暴力」もいけないとなってきた。厳しく教え諭すことは認められてても、生徒の心を傷つけるようなことを言ってはいけないという。ここまでくるともはやなんにも言えなくなる。生徒によっては些細な言葉でも傷ついてしまうからだ。教師も生活がかかっているし、やはり日々のストレスの中厳しいことを言わないほうが楽なのは当然である。自主規制と忖度が働き、生徒に対して決して厳しく言わなくなり、学校はレジャーランドのようになってしまう。

 家庭に教育力がある場合はそれでも問題はないものと思われる。学校は勉強をする場であり、人間形成は家庭に任せておけばいいならば、それでかまわない。しかし、日本では学校に人間形成まで任せている。そのような中で、こんなに甘やかされてしまって本当に大丈夫なのか。自己主張はするが、それに見合う努力をしない人間ばかりになってしまうのではないか。日本の現状の教育状況は未来に大きなつけを残そうとしているのではなかろうか。

 今回の日野さんの件は、大切なことを考えさせる契機となっている。建前で終わらず、もっとよく考えてみるべきことだ。単純なバッシングでおわるようなことだけはやめてほしい。


 現在、スポーツ界でパワハラが問題になっている。私はスポーツにおいてはほめてのばすことは大いに賛成である。しかし厳しいことを言うことも大切だと思っている。もちろん昔のような体罰や人格を否定するような言動は現在はやってはいけない。しかし同じ失敗を繰り返したり、やってはいけないことをした生徒に厳しいことを言うのは当たり前のことである。

 大切なのは指導者がその子の為になるという確信をもって指導することである。自分や組織のために子どもを指導してしまえば、どんな言動でも間違いである。言葉遣いが丁寧でも「パワハラ」である。

 もちろんその子のためになるのか、自分のためなのかというのはそんなに簡単に見分けられるものではない。だから教育はむずかしいのだ。
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「観客様はみな鰯」

2018-09-01 07:27:41 | 国語
 中原中也の「サーカス」という詩を授業で扱った。おそらく多くの人が知っている詩である。
 「幾時代かがありまして
    茶色い戦争ありました」
で始まる詩である。

 その詩の後半に、
 「観客様はみな鰯
    咽喉がなります牡蠣殻と
  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」
という部分がある。

 生徒に鰯というのはどういう魚かと聞いた。ほとんどの生徒が「見たことがない。」と答える。この結果から想像はつくが、一応「鰯を食べたことがあるか。」と聞くと、もちろんほとんどの生徒は「食べたことがない。」と答える。魚離れがこんなに進んでいるのかと淋しくなる。

 ところが、不思議なことに生徒たちは鰯が群れをなして行動する魚だということは知っているのである。これはテレビ番組で知ったためであるのは明らかだ。実物がどのくらいの大きさで、どういう形をしているのかはよくわからないが、群れて行動する魚だということを知っている。つまり生徒たちにとって鰯はバーチャルな存在になってしまったのだ。まだサンマは食べるものとして認識しているのに比べて、鰯はあきらかにその存在価値が変化しているのはあきらかだ。

 近年水族館でも鰯を展示しているところが多い。日本人と鰯の関係はどうなっていくのであろう。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、港町で生まれ育ち鰯好きの私としては、自らの存在意義を問われているような気がしてならない。
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