世界の街角

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違和感を覚える鳥越憲三郎氏の倭族論

2015-09-01 09:27:11 | 古代と中世
字面が多く恐縮である。7月下旬にチェンダオ等の少数民族村を訪れるにあたり、鳥越憲三郎氏の著作「古代中国と倭族」を再読した。違和感を覚える要点を抜粋する。
 弥生人(倭人)は稲作を伴って、長江下流域から渡来したといわれている。漢族の南下により、多くの民族が各地に移住し、稲作と高床式住居を生活の基盤とする独自の文化を継承してきた。
 氏は彼らを「倭族」と定義した。氏は苗族とその分派のヤオ族を倭族には含めていない。それは彼らの住居や習俗は、基本的に倭族のものと異質のためである
・・・としている(当該ブロガー注釈:苗族とヤオ族の住居は、古来土間式住居であると記述されているが、雲南の一部の苗族住居は高床式住居(http://blogs.yahoo.co.jp/jiayang440/19756211.html)である)。
 一方で倭族の一派として、アカ族(中国呼称:哈尼(ハニ)族)を取り上げ、彼らの住居や習俗が倭人のそれに繋がるという(当該ブロガー注釈:アカ族住居は古来高床式住居との説明である)。
 232ページには、以下のように記述されている。明朝・清朝に圧迫されて山岳地帯に難を逃れ、稲作農耕民となっている非倭族の苗族やヤオ族は、古来の土間式住居で土間にかまどを据え、屋内・屋外の区別なく土足で出入りする生活をつづけている。しかも彼らの村が倭族の間に混在するにもかかわらず、互いに伝統的な住居形式を固持している。住居形式ほど旧慣が守られているものはないのである(当該ブロガー注釈:苗族やヤオ族は旧慣を守って土間式住居を堅持しているとの説明である)。
 更に241ページには、次のように記述されている。日本の竪穴式住居でも炭化米が出土する。現在の考古学では弥生時代の竪穴式住居や貯蔵穴から、炭化米や弥生土器が検出されることで、弥生時代も縄文時代につづいて竪穴式住居であったと考えられている。しかし、それらは縄文人の子孫のもので、弥生人は掘立柱の高床式住居に住んでいたことを、筆者は力説して来た。倭人(弥生人)が長江下流から渡来したことは定説になっているが、中国の学者も、その地方は稲作と高床式住居を特徴とする文化圏であったと主張するようになった。その文化圏から渡来した稲作民族の倭人が、何の理由で竪穴式住居に変更しなければならいだろうか
 違和感を覚える点は他にもあるが、主要な点は以上である。そこで、一つづつみて行きたい。先ずハニ(アカ)族住居は古来高床式住居で、住居形式ほど旧慣が守られているものは無い・・・との説である。
 ハニ族の言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派イ語グループに属するハニ語を使用し、雲南省北部のナシ族やリス族及びイ族に近いと云われている。ハニ族の先民は古代の和夷で、和夷は古羌人が分かれたもので、4世紀から8世紀に雲南西南部移動した。雲南に南下する前は、遊牧の民だったとも云われている。唐代には南詔の支配を受け、元代に雲南行省の元江路軍民総管府となった。明代、ハニ族首領は土司に任命され、清代には一部で改土帰流が行われたが、各地の土司は存続し依然として統治者であった。しかし、清代の圧政により再び南下した支族がいた。それらはベトナム、ラオス、ミャンマーへと移動したのである。
 これによると、ハニ族の故郷はチベットということになり、氏の唱える長江下流域の倭族とは異なるのではないか? しかしこれについては、断言するほどの知識が当該ブロガーには無い・・・というのは、古代の羌族は西羌とも呼ばれ、中国北西部(チベット)に住んでいた。「後漢書」西羌伝では「羌の源流は三苗、姜氏の別種」とあるそうだ。三苗は長江中流域と云われており、鳥越氏のいう倭族の源郷に近い・・・のだが。
 しかし、決定的に異なるのは、住居形式である。雲南省元陽のハニ族は、石で家屋の基礎を作り、土壁を用いる土間式住居に住まう。当該ブロガーは元陽の土間式住居を見た経験はないが、ハノイの民俗学博物館に、雲南省と境を接するラオカイのハニ族の土間式住居が移転展示されているのを見た、下の写真がそれである。


 鳥越氏のハニ(アカ)族住居は古来高床式住居で、住居形式ほど旧慣が守られているものは無いとの断言の中での、土間式住居である。
 確かに、北タイのアカ族住居は高床式(www.kaze-travel.co.jp/indochina_kiji020.html)である。北タイのアカ族は、雲南に居住していたハニ族が、ラオスやミャンマーを経由して次第に南下したと云われており、それはここ50-100年ほどのことである。写真は北タイのアカ族高床式住居である。
 ここ50-100年ほどの事例をとりあげ、それより古様を示す元陽やラオカイの事例を無視するのには、何か恣意的な違和感がある。

 二つ目である。苗族とヤオ族の住居は、古来土間式住居であると記述されているが、雲南や北タイの一部の苗族住居は高床式住居(http://blogs.yahoo.co.jp/jiayang440/19756211.html)である。住居形式ほど旧慣が守られているものは無いと断言しておられるが、この齟齬をどのように説明されるのであろうか?・・・自説に有利なように良いとこどりをしている、との印象である。
 一つ目と二つ目の課題、つまり住居の形態は、風土の差異と周囲の環境により変化することを示していると考えられ、旧慣が堅守されているとの論述は当てはまらないのではないか?

 三つ目である。弥生時代の竪穴式住居や貯蔵穴から、炭化米や弥生土器が検出される。それらは縄文人の子孫で、弥生人は掘立柱の高床式住居に住んでいた・・・との説の根拠の説明がない。縄文人の子孫なら縄文式土器をなぜ使わないのか?縄文人の子孫が稲作をしたとの根拠はどこにあるのか?
 弥生時代の遺跡を見ても竪穴式住居はマイナーな存在ではなく、むしろ高床式住居が少ない。弥生時代、弥生人は少なく縄文人の子孫が多かったというのか?・・・自説に有利なように曲解されているのではないか?・・・当該ブロガーのように、ド素人が言うならまだしも、立派な学者の説としては納得し難い。

 しかしながら、書籍で指摘されている多くの観点については、納得できる点は多々あり、全てに違和感を覚えるものではなく、思索に富んだ書籍である。