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亀井玆矩が慶長十四年(1610年)、シャム(アユタヤ)国王のとりなしによりパタニー王国に朱印船を派遣した当時は、シャム(アユタヤ)とパタニーの間には不穏な空気が流れていた。この頃、パタニー王国は女王が続き、1584年から1649年迄の4女王の時期に黄金期を迎えた。4女王は、同じイスラム王国であるバハン王国やジョホール王国に援軍を求めシャム(アユタヤ)王国と反目している。特にラジャ・ウング女王(1624-1635年)の反目の時に、パタニー軍と交戦したのがアユタヤから派遣された山田長政であった。そのような時に亀井玆矩は朱印船を派遣したことになる。歴史は面白い、その頃からタイと山陰を結ぶ接点があったのである。
今日のパタニーはタイ深南部3県(パタニー、ヤラー、ナラティワート)の一つで、会話はタイ語というよりマレー語主体である。パタニーは半島に囲まれ、まさに天然の良港である。中世これほどのロケーションは多くなく、重宝されて繁栄したのであろう。
(出典:グーグルアース 奥にパタニー湾を囲む半島を見る)
朱印船貿易の頃は、イスラム王国であったことは先に触れた。今日、400年前のイスラム・モスクが現役で使われている。クルッセ・モスクと呼び、林道乾が1578年に建てたものである。
(クルッセ・モスク 出典:グーグルアース)
林道乾はパタニーの女性と結婚し、イスラム教に改宗して永住した明代の中国人である。そのクルッセ・モスクは写真のように廃墟のようにも見えるが、現役である。今日の礼拝の中心は、写真のクラーン・モスクで、タイ南部で最も美しいと云われている。
(クラーン・モスク 出典:グーグルアース)
次はパタニー王国の旧宮殿と壁にタイ字で記されている(グーグルアースより)。中に建物が残るのかどうか、訪れていないので、様子はわからないが、当時の様子を留めるものは多くはないようである。
玆矩や初代藩主・政矩当時の建造物は、今日の津和野に多くは残されていない。写真は多胡家老家の表門であるが、思いつくのはこの程度しか残存していないと思われる。
今日の津和野は斜陽である。町役場の面々が玆矩ほどの意欲をもっておれば、タイとの朱印船貿易は、一つの町おこしの材料として活用するであろう。渡航したシャム、今日のタイの経済発展は目覚ましい。タイからの訪日観光客は2017年で130万人と予測されている。このうち島根県を訪れるのは0.1%以下と云われている。
チェンマイは銀細工で著名である。旧ランナー王国の地・シャン州ボードウィンに大きな銀鉱山が存在する歴史的背景に依るものだが、石見国には世界遺産の銀山が存在する。津和野とパタニー、石見銀山とチェンマイを広域で結ぶ連携で、タイ人観光客を呼び込めないのか?役所の役人よ、知恵を働かせて欲しい。
<了>