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出雲国風土記の世界(六)

2020-09-02 07:17:52 | 出雲國風土記

<続き>

今回は『出雲国風土記の世界』と題して、その六回目をお届けする。過去の記事はコチラを参考に願いたい。

以下、荒唐無稽な類の噺であることをお許し願いたい。その噺とは出雲国風土記ではなく、記紀神話に登場する須佐之男命に関する噺である。尚、記事の多くは谷川健一氏の著作である「青銅の足跡」から引用している。尚、本題に迫る前の前置きが長いこともお許し願いたい。

〇南方の海人族はミミと呼ばれていた

天照大御神の御子神である天忍穂耳尊(あめのおしほみみみこと)には、南方渡来の痕跡が認められると谷川健一氏は記す。それは、この神にミミの名がつけられていることである。では南方系の海人族にどうしてミまたはミミという名前がつけられているのであろうか。

その南方種族というのは、揚子江沿岸から海南島にいたる中国南部に棲む海人族であり、彼らは常時大きな耳輪をさげる風習をもっていた。その習俗は日本列島に渡来してからも持ち続けていたので、多くの人々の目を引き、ミまたはミミの名をもって呼ばれていた。・・・と記されている。

〇儋耳朱崖とは

『魏志・倭人伝』には、倭の習俗が儋耳朱崖(たんじしゅがい)、つまり海南島の習俗に似ているという一文が明記されている。金関丈夫氏によると、儋耳の儋は担と同じであり、耳を担(かつ)ぐことだという。海南島の少数民族の中には非常に大きな耳輪をさげている者があって、寝る時や労働するときに邪魔になる。そこで大きな耳輪を頭にのせる。これが儋耳だと云うのだ(これについては浅学非才な当該ブロガーには当否の判断ができない)。

この耳輪をさげる慣習が倭にあったのか? 15世紀末に朝鮮王朝・済州島の漂流漁民が、与那国島の風俗を伝えているという。それによると、耳たぶに穴をあけて青玉を貫いたものを二、三寸ばかり垂らす人がいたという。

〇南九州の耳族

谷川健一氏は耳輪をする南東の人々を耳族と記している。この耳族は中国南部からどのような経路をたどって、日本列島に到達したか判明しないが九州に上陸し、その西南沿岸部に棲みついた。それを物語る考古学上の遺物が、大隅半島の南端にちかい大根占町の山ノ口遺跡(弥生時代中期後半)で発見された軽石の岩偶である。

両耳の部分が外側へ突きでており、前から後ろへ小孔を穿っている。おそらく耳飾りを嵌めた状態を表現したのであろうか?

『漢書・地理志』には、儋耳というのは大きな耳の種族がいるからで、とくに王の耳は大きくて肩三寸までさがっていると記されているそうである。山ノ口遺跡の出土物のように、九州でも首長は権威をあらわすものとして、大きな耳輪をさげていたであろうか。傍証は存在する。『魏志・倭人伝』には投馬国の長官をミミ、副官をミミナリと呼んだと記されている。『肥前国風土記』には、五島列島に大耳、垂耳の二首長が棲んでいたと述べる。冒頭の天忍穂耳尊の名もそうである。

〇南方の耳族

ここで一旦戻る。南方の耳族とは、南中国に起源をもつ耳輪の習俗の名残りと考えられる。

そこで南方の耳輪に関する習俗であるが、中国南部から移動してきたといわれる北ベトナムの黒モン族、ラオスのランテン・ザオ族や北タイのカヨー・カレン(Kayaw Karen)は、確かに耳輪をしている。

ここでは北タイのカヨー・カレン族の事例を紹介する。女性はプラグ・リングとも呼ぶべき耳輪をしている。

(10歳ほどかと思われる少女も耳輪を嵌めている)

〇縄文時代に存在した耳族

では記紀が記すように、ミとかミミの名称をもつ倭人は存在したであろうか。先に示した山ノ口遺跡出土の岩偶もその一つであるが、耳輪は縄文時代の習俗に見ることができるとの『縄文時代における土製栓状耳飾の研究』なる論文が存在する。

ココに示すような耳飾りをつけた縄文人である。まさにカヨー・カレン族の耳飾りと同じである。

縄文人は東南アジアから渡来したとの研究結果も報告されており、何やら真実味を帯びている。

〇邪馬台国時代に耳をミミと発音したか?

ここで問題であるのは、邪馬台国の時代(弥生時代)に耳をミミと発音したのかと云う課題と、投馬国の弥弥と弥弥那利のミミとミミナリのミミを耳と解釈できるのか・・・という課題である。ここまでくると浅学非才の身にはお手上げである。

しかし、記紀が編纂された当時に耳はmi miと発音されており、現代日本語もmi miと発音する。すなわち身体語は時が経過しても不変であるとすれば、邪馬台国時代にも耳はmi miと発音していた可能性は考えられる。

〇須佐之男命は耳族の娘を娶った

本題に至るまでのイントロが長文に過ぎたようである。須佐之男命が婚姻したのは出雲の足名椎命(書記で須狭之八耳、古事記で須賀之八耳)の娘・稲田姫である。スサノオは高天原を追放されて新羅の蘇尸茂梨に天下った。

『魏志・東夷伝・弁辰条』には、「國出鐵 韓・倭皆従取之 諸市買皆用鐵 如中国用銭 又以供給二郡」つまりスサノオは鐵を産する朝鮮半島に天下り、倭国に戻って鳥髪峰に降りたのである。そのスサノオがなぜ耳と名の付く須賀之八耳の娘を娶ったのか。スサノヤツミミとかスガノヤツミミとの呼称は、金属精錬に由来する土地の豪族の表現であると思われる。

ミミのつく人々は、海人族でかつ金属技術をもつ集団であったことになる。スサノオは八岐大蛇を退治し、その尾から天叢雲剣をとりだした。やはり製鉄技術を持ち込んだのである。

 

北タイでカヨー・カレン族村で見学容易な場所は、チェンマイ郊外で象キャンプの手前にある、メーリムのバーン・トンルアンである。下に位置を紹介しておく。

 

<続く>


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