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縄文人の起源は東南アジアからの渡来民だった

2018-09-16 06:55:16 | 古代と中世

2018/9/1付けの日本経済新聞に縄文人の起源、遺伝子で探る 東南アジアから渡来』なる記事が掲載されていた。これは金沢大学が平成30年7月9日付けでニュース・リリースした、『最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明』との、長ったらしい題名のレポートを転載したものである。金沢大学の原文は学者らしい専門用語の羅列で読むのもくたびれるが、そこは新聞屋らしく一般人に分かりやすく解説している。そこで主要部分の概要を以下掲載する。

縄文の遺跡で見つかった人骨の中の遺伝子を調べ、東南アジアの古代人に近いことが最近の研究で分かった。これまで色々な仮説が唱えられてきたが、科学的に議論できる証拠が乏しかった。遺伝情報を基に、古代人が移動した道筋を解き明かす研究が幕を開けた。愛知県の渥美半島にある伊川津貝塚は、日本を代表する縄文遺跡である。2010年にここで出土した、約2500年前の成人女性の頭骨に残る遺伝子を注意深く採取し、全遺伝子の解読に成功したのは、金沢大学や北里大学、国立歴史民俗博物館を中心とするグループである。比較した相手は現在のアジアの人々や8000~2000年前の東南アジアの古代人ら80を超える集団である。金沢大学の覚張特任助教らは遺伝情報の類似性などに着目し、6つのグループに分けた。その結果、伊川津貝塚の女性の遺伝子は、約8000年前のラオスの遺跡や約4000年前のマレーシアの遺跡で見つかった古代人の遺伝子に近く、同じグループに分類されることが判明した。

その頃の東南アジアには狩猟採集民が住み「ホアビン文化」と呼ばれる文化圏を作っていたと考えられている。その集団の一部が移動し日本列島にたどり着いた。東南アジア地域から渡来した集団が縄文人の起源とする説が最近唱えられているが、それを裏付ける結果になった。“・・・以上である。ここでホアビン文化であるが、それは東南アジアの中石器または新石器時代初期の文化と云われている。1920年代にフランスの考古学者M.コラニがハノイの西方であるホアビン省の洞窟遺跡で発見した石器類によって命名された。礫器、握斧、スクレーパー、短石斧があり、土器は出土していない。

魏志倭人伝記載の内容から、倭人(弥生人)は稲作を伴い、揚子江下流ないしは東南海から渡海してきたと云われているが、上述の噺では1世紀や2世紀のことではなく、中石器時代や新石器時代初期の噺まで遡る。

魏志倭人伝より古い時代を記す書に『論衡』がある。そこに・・・

周時天下大平倭人来鬯草・・・異虚篇第一八

成王時越裳献雉倭人鬯草・・・恢国篇第五八

周時天下太平越裳献白雉倭人鬯草食白雉服鬯草不能除凶・・・儒増篇第二六

と記されている。周・成王の時とは、前1020年頃で縄文時代晩期に相当する。論衡によれば、この当時から中国では、日本列島などの住人を倭人と認識していたであろう。白雉を食し暢草を服用したが、凶を除く効能はないと記している。しかし暢草は酒に浸す薬草と思われていた。この草は江南から南に生えるウコンと云われている。また越と並べて書かれていることから、撰者王充は倭人を呉越地方と関係があると認識していたと思われる。しかし、それよりも重要なことは、後漢書・南蛮西南夷伝には交阯(こうち・ベトナム)の南に越裳国があると記述されている。

以上で皆さんお分かりかと存ずるが、金沢大学の今回の研究報告は、中国古代文献の記載内容を裏付ける結果となった。

以下、噺はこじつけながら、大きく飛躍する。ボーガンとは西洋で云う弓矢である。これを日本ではどのように呼ぶのか、石弓とは異なる、中国では弩(ど)と呼ぶ。この弩が我が田舎・出雲市の姫原西遺跡から出土した。それは弥生時代末期(3世紀前期)の遺跡で、全長91cmのライフル銃のような形をした臂(ひ)と呼ぶ弩の本体であった。

(チェンマイ山岳民族博物館:アカ族のボーガン)

(チェンマイ山岳民族博物館前庭の催事にて)

この弩と同じ弓矢を今日の北タイやインドシナの少数民族は用いている。これらの少数民族は、古代日本人が用いていたであろう民俗的な器物を今日でも用いている。この弩もその一つである。鳥越憲三郎氏は越人も東南アジアの民族も倭人だと云う。これには幾つかの事どもで異論を唱えざるを得ないが、縄文人の本貫がホアビン文化をもつ人々であれば、人類皆兄弟であろう。

<了>

 

 


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