先日「遂に錫鉛釉緑彩陶の窯跡発見か!」とのテーマで、バンコク大学発刊「Southeast Asian Ceramics Museum News Letter Feb-May 2016」の記事を紹介した。概要はアンダマン海に面したモウラミャインに近い、Kaw Bein(カウ・バイン)と云う田舎町の郊外3kmに在るKaw Don(カウ・ドン)村で、錫鉛釉緑彩陶の窯跡が発見されたというものである。
とうとう発見されたかという感慨もある。そこは一時ペグー王国の都であったマルタバンとは、一衣帯水の地でモン(Mon:別にモン(Hmong・苗)と呼ぶ民族がいるが、これとは異なる)族の本拠地である。
(上2点はバンコク大学付属東南アジア陶磁博物館の展示。下の1点はランプーン国博の展示である。)
この錫鉛釉緑彩陶が出現したのは、タノントンチャイ山中の墳墓跡からであった。墳墓跡の発掘騒ぎの後半段階で、タマサート大学のSumitr Pitiphat 教授が緊急の調査を行い、その結果を「Ceramics from the Thai-Burma Border」との書名にて出版されている。
それによると、それらの墳墓群から出土する遺物は、13-16世紀の年代を示すが、どのような民族の墳墓であるのか、盗掘で失われたものが多く、特定できなかったと云う。そこにはランナー、スコータイ、シーサッチャナーライ、中国陶磁とともに、件の錫鉛釉緑彩陶が含まれていたのである。その墳墓跡からは、それらの陶磁器と共に、青銅器や鉄剣、更には金の装身具、ランナーで用いられたサドル状の銀貨も出土した。埋葬された民族も中国と同じように、あの世でも金に困らぬよう銀貨を副葬したのであろうか。
写真は、その副葬品ではないものの、サドル状の銀貨で、当該ブロガーのコレクションの一つ(二つ)である。これと同じものが副葬されていたと、上掲書籍に掲載されている。
この発掘現場を見たいと思い、タイ人の友人に頼みオムコイ山中の発掘現場に向かうことにした、時は2010年である。チェンマイから200km。オムコイの家並から更に南下し深南部のバン・メーテン村に到着した。チェンマイから4時間の行程である。
そこにはメーテン川が流れている。その対岸を見ると1000mを遥かに越える峰々が屹立している。これらの峰は隣のターク(Tak)県との県境をなしている。先ずバン・メーテンの元締め宅に寄る。聞くと現在の発掘現場は、ミャンマーとの国境付近で、往復するのに2日間を要すと云う。近いところを尋ねると、数年前の発掘現場なら行けそうである。それはバン・メーテン村の裏に聳える山中で15km先であるとのこと。
(元締め氏)
5分も走ったであろうか、写真のゲートをくぐる、これはモン族(苗・Hmong)の村と外部を区別する結界である。そこから先が最大の難所で雨季にできた車の轍が深く、その轍からはずれると崖下へ転落である。おまけに山の稜線を走るものだから、両側は崖である。ようやく到着した。現地は尾根なのだが、比較的広い場所で、写真の左手のように、道からは1m程高くなっている。ここに数カ所の埋め戻された盗掘穴があった。
(Hmong族集落の結界を通過して現場へ行く)
(左手の一段高い場所が発掘現場で数カ所の盗掘穴があった)
幸いと云うか、当時の写真が残されていた。その写真のように発掘したのである。
下の写真は、別の墳墓跡から出土した陶磁で、ひとつはサンカンペーンの小壺と件の錫鉛釉緑彩盤である。もうひとつ食い足りなく購入を控えたが、発掘現場の経歴がはっきりしていることから購入しておけば良かった後悔している。
マルタバン近郊の窯場からコーカレイ、ミャワディーを経由し、よくもバン・メーテンの1400mもの山中に運びあげたものと感心する。現代の人間には考えられない行である。
<続く>
とうとう発見されたかという感慨もある。そこは一時ペグー王国の都であったマルタバンとは、一衣帯水の地でモン(Mon:別にモン(Hmong・苗)と呼ぶ民族がいるが、これとは異なる)族の本拠地である。
(上2点はバンコク大学付属東南アジア陶磁博物館の展示。下の1点はランプーン国博の展示である。)
この錫鉛釉緑彩陶が出現したのは、タノントンチャイ山中の墳墓跡からであった。墳墓跡の発掘騒ぎの後半段階で、タマサート大学のSumitr Pitiphat 教授が緊急の調査を行い、その結果を「Ceramics from the Thai-Burma Border」との書名にて出版されている。
それによると、それらの墳墓群から出土する遺物は、13-16世紀の年代を示すが、どのような民族の墳墓であるのか、盗掘で失われたものが多く、特定できなかったと云う。そこにはランナー、スコータイ、シーサッチャナーライ、中国陶磁とともに、件の錫鉛釉緑彩陶が含まれていたのである。その墳墓跡からは、それらの陶磁器と共に、青銅器や鉄剣、更には金の装身具、ランナーで用いられたサドル状の銀貨も出土した。埋葬された民族も中国と同じように、あの世でも金に困らぬよう銀貨を副葬したのであろうか。
写真は、その副葬品ではないものの、サドル状の銀貨で、当該ブロガーのコレクションの一つ(二つ)である。これと同じものが副葬されていたと、上掲書籍に掲載されている。
この発掘現場を見たいと思い、タイ人の友人に頼みオムコイ山中の発掘現場に向かうことにした、時は2010年である。チェンマイから200km。オムコイの家並から更に南下し深南部のバン・メーテン村に到着した。チェンマイから4時間の行程である。
そこにはメーテン川が流れている。その対岸を見ると1000mを遥かに越える峰々が屹立している。これらの峰は隣のターク(Tak)県との県境をなしている。先ずバン・メーテンの元締め宅に寄る。聞くと現在の発掘現場は、ミャンマーとの国境付近で、往復するのに2日間を要すと云う。近いところを尋ねると、数年前の発掘現場なら行けそうである。それはバン・メーテン村の裏に聳える山中で15km先であるとのこと。
(元締め氏)
5分も走ったであろうか、写真のゲートをくぐる、これはモン族(苗・Hmong)の村と外部を区別する結界である。そこから先が最大の難所で雨季にできた車の轍が深く、その轍からはずれると崖下へ転落である。おまけに山の稜線を走るものだから、両側は崖である。ようやく到着した。現地は尾根なのだが、比較的広い場所で、写真の左手のように、道からは1m程高くなっている。ここに数カ所の埋め戻された盗掘穴があった。
(Hmong族集落の結界を通過して現場へ行く)
(左手の一段高い場所が発掘現場で数カ所の盗掘穴があった)
幸いと云うか、当時の写真が残されていた。その写真のように発掘したのである。
下の写真は、別の墳墓跡から出土した陶磁で、ひとつはサンカンペーンの小壺と件の錫鉛釉緑彩盤である。もうひとつ食い足りなく購入を控えたが、発掘現場の経歴がはっきりしていることから購入しておけば良かった後悔している。
マルタバン近郊の窯場からコーカレイ、ミャワディーを経由し、よくもバン・メーテンの1400mもの山中に運びあげたものと感心する。現代の人間には考えられない行である。
<続く>
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