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聖なる鳥ハムサ・その3

2017-07-14 06:37:00 | 東南アジア陶磁

<続く>

先にミャンマー陶磁の装飾文様にハムサが用いられている事例を具体的に紹介したが、以下の事例はタイ陶磁のものである。(I氏コレクション:シーサッチャナーライ陶磁にハムサ肖形のケンディーは多いが、当該ケンディーは逸品である)(ネット・オークション出品のシーサッチャナーライ・ケンディー。シーサッチャナーライのハムサ肖形ケンディーは青磁が多いが、写真のケンディーは鉄絵で文様を描いている)(これはサワンカローク陶磁博物館の展示品。キャップションによるとワンヌア窯と紹介している。ワンヌアの緑釉は過去に見聞した覚えがない。これはカロン・トゥンマン窯と思われる)

僅か3点の紹介に留まったが、タイの陶磁にもハムサ文様が用いられている点、ご理解頂けたと考えている。これらのタイ陶磁に用いられるハムサ文様もまた、モン(MON)族の仕業と思われる。スコータイやシーサッチャナーライはモン族の故地であり、当然と云えば当然であろう。

北タイにおいて、メンライ王がチェンマイにランナー王国を建国する以前は、ラワ族やハリプンチャイ王国を建国したモン(MON)の故地である。このハムサが軒飾りや、日本で云う鴟尾として北タイの寺院で見ることができる。これはモン族の仕業か、その影響を受けたものであろう。

(写真は、チェンマイのワット・ジェットヨートの布薩堂の切妻と軒先装飾である。この布薩堂は建立当時のものではないが、何らかの伝承なり下地が存在してのハムサである)

ランナー王国に隠れ影が薄いが、北タイでは他にナーン王国やプレー王国も存在した。プレーは年代記もなく、碑文も少ないことから不明な点も多い。12世紀頃にタイ族がこの地に都市国家(ムアン)を建国したが、ヨム川の上流にありスコータイ王国の影響を免れなかった。スコータイのラームカムヘーン王はこの地に進軍、また、リタイ王もプレーに進軍した。さらにランナー王国の影響下にもあり、ランナーのカムフー王は1340年、プレーに侵攻している。ただ、プレーはこの間にも領土拡大を目指しており、1397年から1398年にかけてプレーのテーラ王とオーンモーンがカーオ(ナン王国の前身)に侵入し占領している。

そのプレーにワット・ルワンなる寺院が存在する。829年の創建と云われているが、先に記述したように碑文が少なく定かではないものの、建立したのはハリプンチャイ王国下のハリプンチャイ人、すなわちモン(MON)族であろう。今日のワット・ルワンの伽藍は、建立当時のものではないが、本堂の鴟尾にはハムサが鎮座している。

(出典:グーグルアース)

ミャンマーのみならず、北タイでもハムサがポピュラーな存在である一端をご覧頂いた。このポピュラーな様子が陶磁器文様に反映され、北タイ陶磁にも多くのハムサ文様を見ることができる。その事例は上に紹介した通りである。仏教と共にヒンズーの土壌は古来からのものであり、多くの事柄に影響を与えたのである。

ヒンズーと云えば、ランナー朝やスコータイ朝以前は、アンコールで信仰された。ところがブラフマー神の乗り物であるハムサをクメール陶では、何故か見ないのである(もしやすると存在する可能性はあるものの寡聞にして見聞していない)。見るのは鳩だけである。

以上、3回にわたりハムサ雑感とでも云うべき事柄を縷々記述してきた。世の大家は北タイ陶磁について、中国云々と安直に噺を繋げるが、全てがそうではないことをご理解頂けたものと考えている。

 

                            <了>

 

 

 


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