以下、関千里氏の著作「東南アジアの古美術」を参考に噺を展開したい。下ビルマにおける古代・モン(MON)族は、約2,000年前からイラワジ川とサルウィン川に挟まれた広い地域に居住していた。東インドから東漸して来たと思われている。その古代インド人から見た東の東南アジアは、スワンナプームと呼ばれており、モン族が居住するその地も、そのようであったと考えられている。
その下ビルマにはモン族の古代都市国家・タトーンがある。タトーンには当時の建造物は無いものの、街区は方形であり往時の様子をうかがい知ることができる。近隣では青銅製の仏陀像などが、少数出土しているようだが、今後の発掘調査に期待したい。(グーグルアースで見る現在のタトーン市街。この市街区画が歴史的にタトーン王国まで遡れるのか?・・・見識を持たないが、そのようであったろうとのイメージを結ぶことはできる)
その後のモン族の活躍は、スリランカの史書にも登場するようだが、11世紀中頃、パガン王国(1044-1299)のアノーラタ王(1014-1077)に占領され、パガン王国の領土に組み込まれた。再びモン族が息を吹きかえすのは、13世紀末になってからである。国王・ビンニャウーにより、ハムサワディー・ペグー朝と命名され、ペグーに遷都したのは1369年のことであった。
ペグー朝と命名される以前のペグーの歴史は不明な点が多いと云うが、ハムサ(別名・ハンサ ビルマではヒンダとも)伝承が残る。雌雄二羽のハムサがヒンダゴンの丘に降り立った。周囲は0mのデルタ地帯であったが、豊穣な大地となっていく・・・これは、ペグーの国土創生神話の類であろう。ハムサは古代インドのヒンズー教に於けるブラフマー神の乗り物で、白鳥や鵞鳥にあてられている。(グーグルアース掲載写真を借用した。ヒンダゴンの丘に建つヒンダゴン・パヤーからシュエモード・パヤーを望む写真である。この丘に雌雄二羽のハムサが降り立ったと云われている)
このハムサがミャンマーやタイの陶磁器文様に頻出する。先ずミャンマーの陶磁器文様の一部を以下に紹介する。
(ネット・オークション出品:緑釉磚)
(ネット・オークション出品:錫鉛釉緑彩碗)
(サワンカローク陶磁博物館)
今回は、ミャンマー陶磁のハムサ文様の事例まで掲載した。以降、タイ陶磁のハムサ文様まで紹介したいと考えている。
<続く>
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