世界の街角

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錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その1

2016-06-19 14:48:14 | ミャンマー陶磁
先日「遂に錫鉛釉緑彩陶の窯跡発見か!」とのテーマで、バンコク大学発刊「Southeast Asian Ceramics Museum News Letter Feb-May 2016」の記事を紹介した。概要はアンダマン海に面したモウラミャインに近い、Kaw Bein(カウ・バイン)と云う田舎町の郊外3kmに在るKaw Don(カウ・ドン)村で、錫鉛釉緑彩陶の窯跡が発見されたというものである。
とうとう発見されたかという感慨もある。そこは一時ペグー王国の都であったマルタバンとは、一衣帯水の地でモン(Mon:別にモン(Hmong・苗)と呼ぶ民族がいるが、これとは異なる)族の本拠地である。


(上2点はバンコク大学付属東南アジア陶磁博物館の展示。下の1点はランプーン国博の展示である。)
この錫鉛釉緑彩陶が出現したのは、タノントンチャイ山中の墳墓跡からであった。墳墓跡の発掘騒ぎの後半段階で、タマサート大学のSumitr Pitiphat 教授が緊急の調査を行い、その結果を「Ceramics from the Thai-Burma Border」との書名にて出版されている。
それによると、それらの墳墓群から出土する遺物は、13-16世紀の年代を示すが、どのような民族の墳墓であるのか、盗掘で失われたものが多く、特定できなかったと云う。そこにはランナー、スコータイ、シーサッチャナーライ、中国陶磁とともに、件の錫鉛釉緑彩陶が含まれていたのである。その墳墓跡からは、それらの陶磁器と共に、青銅器や鉄剣、更には金の装身具、ランナーで用いられたサドル状の銀貨も出土した。埋葬された民族も中国と同じように、あの世でも金に困らぬよう銀貨を副葬したのであろうか。
写真は、その副葬品ではないものの、サドル状の銀貨で、当該ブロガーのコレクションの一つ(二つ)である。これと同じものが副葬されていたと、上掲書籍に掲載されている。
この発掘現場を見たいと思い、タイ人の友人に頼みオムコイ山中の発掘現場に向かうことにした、時は2010年である。チェンマイから200km。オムコイの家並から更に南下し深南部のバン・メーテン村に到着した。チェンマイから4時間の行程である。
そこにはメーテン川が流れている。その対岸を見ると1000mを遥かに越える峰々が屹立している。これらの峰は隣のターク(Tak)県との県境をなしている。先ずバン・メーテンの元締め宅に寄る。聞くと現在の発掘現場は、ミャンマーとの国境付近で、往復するのに2日間を要すと云う。近いところを尋ねると、数年前の発掘現場なら行けそうである。それはバン・メーテン村の裏に聳える山中で15km先であるとのこと。
                 (元締め氏)
5分も走ったであろうか、写真のゲートをくぐる、これはモン族(苗・Hmong)の村と外部を区別する結界である。そこから先が最大の難所で雨季にできた車の轍が深く、その轍からはずれると崖下へ転落である。おまけに山の稜線を走るものだから、両側は崖である。ようやく到着した。現地は尾根なのだが、比較的広い場所で、写真の左手のように、道からは1m程高くなっている。ここに数カ所の埋め戻された盗掘穴があった。
          (Hmong族集落の結界を通過して現場へ行く)
      (左手の一段高い場所が発掘現場で数カ所の盗掘穴があった)
幸いと云うか、当時の写真が残されていた。その写真のように発掘したのである。

下の写真は、別の墳墓跡から出土した陶磁で、ひとつはサンカンペーンの小壺と件の錫鉛釉緑彩盤である。もうひとつ食い足りなく購入を控えたが、発掘現場の経歴がはっきりしていることから購入しておけば良かった後悔している。

マルタバン近郊の窯場からコーカレイ、ミャワディーを経由し、よくもバン・メーテンの1400mもの山中に運びあげたものと感心する。現代の人間には考えられない行である。


                             <続く>



北タイ名刹巡礼#3:ワット・チェンマン

2016-06-17 09:54:08 | 北タイの寺院
<Wat Chiang Man:ワット・チェンマン>

旧市街北東部に位置している。1297年、ランナー朝初代・メンライ王(在位1261-1311年)がチェンマイ建都の際に建立した寺院で、かつては宮殿でもあった。
正面の礼拝堂は、太いチーク材の柱で、典型的な北タイの建築スタイルである。ここには、1996年4月のチェンマイ建都700周年を記念して、金箔のステンシルでメンライ王の生涯が壁画として描かれている。
北側の小さな礼拝堂には、18世紀にスリランカからもたらされた、雨乞いの力が宿っていると信じられている仏立像の浮彫板Phra Sila Buddha(プラ・シラ・ブッダ)と、ハリプンチャイの女王・チャーマティーウィーが所有していたと伝わる水晶製で降魔印を結ぶPhra Sae Tang Khamani(プラ・セタンカマニ)が祀られているが、前仏があり写真のように、それを正面から見ることはできない。
礼拝堂の裏にある仏塔は、基部を15頭の象に囲まれた、方形基壇に小さな釣鐘型身舎が載っている。これはChedi Chang Lomと呼び、15世紀に建立され、チェンマイでは古い塔で19世紀に修復を受けた、スコータイ様式の仏塔と云われている。この仏塔は写真のように歴史を感じる古色に彩られ、身舎の金箔とのコントラストが素晴らしく、チェンマイでも1、2を争うものと思われる。




























































遂に錫鉛釉緑彩陶の窯跡発見か!

2016-06-16 10:15:41 | ミャンマー陶磁
過日、バンコク大学発刊「Southeast Asian Ceramics Museum News Letter Feb-May 2016」を見ていると、重要な記事が掲載されていた。関心事が高いと思われるので紹介したい。
紹介したい記事は2点で、1点目は日本の研究機関に関する記事で、2016.5.4の朝日新聞デジタルニュースを引用したものである。
それは”ミャンマーの古代サイトは中東貿易の手掛かりを提供している”・・・と題し、以下のような記事であった。
国立奈良文化財研究所(奈文研)、京都大学の研究者は最近、発掘調査のためヤンゴン大学考古学部門の専門家と政府文化省考古局と一緒に調査チームを結成した。京都大学チームは、京都大学教授で京大アセアンセンター所長である柴山守氏が団長である。2016年2月3-6日にアンダマン海に面すモン州のモーラミャインで窯跡を発掘した。それは15-16世紀の青磁の大規模な生産センターであったと考えられる・・・としている。以下、奈文研提供とする写真が3点掲げられている。
                (出土した青磁片)
              (高台底に窯印を持つ青磁片)
              (多くの粘土塊が出土した)
以上が1点目の記事であるが、中東貿易との関連には何ら言及していない。中東の遺跡からミャンマー陶磁が出土するが、そんなことまで言及する必要がないと・・・レポーター氏は感じたのであろうか?
このPJTを通じて、ミャンマーと日本人の若手を育成するという。大変結構なことである。ミャンマーと云えば、欧米人特に次に紹介するオーストラリアの独壇場であったが、これからは日本人の若手に活躍して欲しい。

2点目の記事は”モン及びカイン州の陶磁器生産サイトのサーマリーレポート”と題する記事で、Smithonian's Freer and Sackler Galleries April 9.2016から引用している。
錫鉛釉緑彩盤の焼成地であるカイン(別名:カレン)州のKaw Don村と他に11カ所の焼成地を最初に調査したのは、ミャンマー文化省のSan Win氏とスミソニアン協会のDr.Don.Heinである。
1980年代初期、タイとミャンマー国境そいのターク・オムコイと呼ばれる埋葬地で
錫鉛釉緑彩盤が発見された。Dr.Don.Heinのサーマリーレポートによると、それらはおそらくKaw Don村で生産されたであろうとしている。
それはKaw Bein(カウ・バイン)と云う田舎町の郊外3kmに在るKaw Don村で焼成された。そこには2mから4mの高さで10の窯跡の塚があった。当時の調査チームはKaw Don村を訪問した時に、そこは青磁と錫鉛釉緑彩陶の生産拠点であると認識した。
彼の2度目の訪問では、錫鉛釉緑彩陶に加えて、緑の単色釉と外側面が緑釉で内面が白(錫鉛釉)、更には焼成具が出土した。
Dr.Heinは、彼の地に於ける生産複合体が、彼が最初に考えていたより、広範に生産活動を行っていたであろうと考えている。それは、マルタバン壺や緑釉屋根瓦や他の製品を焼成する特殊な窯が含まれていたからである。
このトピックに関する彼の記事は進行中であり、今年にはオンラインで公開予定である・・・と記している。

これは衝撃の記事である。先の奈文研と京大のチームに発掘して欲しかったという思いもある。
従来、ペグー(バゴー)の寺院のパゴダ(チェディー)の基壇に緑釉の塼が多数認められること。更には1989年サイアム・ソサエティ・ニュースレターに、同じDr.Don.Heinによるペグーの発掘調査報告があり、そこにはペグーの東部キャイカロンポン・パゴダの近くで青磁片、緑釉や褐釉片、白い釉薬片(錫鉛釉)が出土したことから、ペグーないしはペグー近辺に錫鉛釉緑彩陶の窯があったであろうと考えられていた。今回の報告は、それを覆すものであり、マルタバン壺と同じような場所で焼成されていたとの報告である。
以下は、そのペグーとKaw Bein及びKaw Don村との位置関係を示すものである。

従来上述のようにペグー産と云われていたが、随分離れた場所である。しかしペグーに比べて製品の搬出は極めて都合のよい場所である。船便の良いところで、マルタバン壺同様マルタバンから輸出されていたことが、想定される。
窯形状はどうであろうか?続報が期待される。































北タイ名刹巡礼#2:ワット・チェディールアン

2016-06-15 06:43:57 | 北タイの寺院
<Wat Chedi LuaNG:ワット・チェディールアン>

旧市街の中央部に位置し、ワット・プラシンと並んで格式の高い寺院とされている。14世紀末7代・セーンムアンマー王(在位:1385-1401年)が父のクーナー王を祀るため仏塔の建立を始めたのが創建である。その仏塔は15世紀半ばティローカラート王(在位:1441-1487年)の時代にラテライトで強化して完成した。
高さは84mでランナーでは最大で、ナーガ(龍)の手摺りのついた階段のある、象に囲まれた基壇に載るもので、1468年東の壁龕にPhra Kaeo Horakot(プラケオホーラコット)というエメラルド仏が納められていたが、1545年の地震で上部30mが崩壊し、仏像はルアンプラバーンから招聘されたセータティラート王(1546-1547年)がルアンプラバーンに帰国する際、一緒に持ちだされたと云われている。

1990年代、日本とユネスコの援助で修復を受け、創建開始600年を記念して、かつてエメラルド仏があった壁龕に、黒翡翠のPhra Yok仏が奉納された。
礼拝堂は新しく、1928年に建立されたものであるが、14世紀に造像された18臂の仏立像Phra Chao Attarot仏(プラチャオアタロット)が祀られている。更には涅槃仏像が祀られた堂があるが、この像はコンクリート製で周囲と比較し浮いているように見える。
またこの寺院は、チェンマイの街の柱(Sao Inthakin:インドラの柱)が置かれている。これは十字型モンドップに納められた高さ50cm程の石の柱で、本来この寺院の北にあるWat Sadeu Muangに置かれていたものが、19世紀のカウィラ王によるチェンマイの再建時、ここに移されたものである。




北タイ名刹巡礼#1:ワット・プラシン チェンマイ

2016-06-13 07:03:49 | 北タイの寺院
<Wat Phurashing:ワット・プラシン>

旧市街西部にランナー朝5代・パーユー王(在位:1336-1355年)が父王・カムフーを祀るため仏塔(Chedi・チェディー)を建立したことに始まるとされ、チェンマイを代表する寺院として多くのガイドブックに紹介されている。

ここワット・プラシンは当初ワット・リーチェンプラと称していたが、1467年9代・ティローカラート王(在位:1441-1487年)の時、スリランカからプラシン仏(獅子仏)が寺院に祀られ、ワット・プラシンと改称された。
写真では分かりにくいが、パーユー王が建立した仏塔は拡張され、象に囲まれた基壇に3層の円形基台、釣鐘状の身舎が載るものとなった。1925年その基壇から王家の遺灰を納めていたと考えられる金・銀・青銅の壺が発見されたという。

Viharn Laikham(ライカム礼拝堂)は、19世紀に大規模な改修を受けたが、14世紀半ばの建立で木造であり、東向きの正面扉は、金漆の装飾があり、3段2層構造の屋根は、ランナー様式の代表例である。ここにはプラシン仏が祀られているが、1922年に頭部が盗難にあい、そのレプリカである。ここの内壁には有名な壁画がある。それは本生話(ジャータカ)で、19世紀の修復時に復興ランナー朝のタンマランカー王(在位:1816-1822年)の命により描かれたと云われている。この壁画は、古いものの残存が少ないタイにあっては、200年前の風俗が描かれ貴重である。

正面に建つViharn Luang(ルアン礼拝堂)は14世紀に建立されたが、1925年高僧Khru Ba Srivichai(クルーバシーウィチャイ)の大修復の時に再建されたもので、80年程である。ここには1805年、西双版納から来た僧が、カーウィラ王(在位:1782-1816年)を摸した仏像として贈った青銅製(金箔貼り)の仏坐像Phra Chao Thong Thip(プラチャオトンティプ)が祀られている。
Ho Trai(経蔵)は1447年の建立で、1867年と1920年修復され、基壇に木造の堂が建つ。現プミポン国王によると、北タイで最も美しいフォルムをしているとの評価である。
寺院の奥まったところに、涅槃仏を祀る細長い堂がある。そこの涅槃仏はコンクリート製で金色のペンキかと思われる塗料で塗ってある。こんなもの無い方がましだと思うが如何であろうか。
このワット・プラシンには、チェンマイへ来る都度訪れている。木造のライカム礼拝堂の佇まいが良く、堂内の壁画には当時の風俗が細かく描きこまれ、見ていると何か楽しくなる。ランナー王家とのつながりをもつ格式の高い寺院である。




                              <続く>