世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

稲作儀礼とトライ・カムプリアン

2016-06-11 10:12:51 | タイ王国
北タイはピー(精霊)とクワン(魂)の世界である。あらゆるものにピーやクワンは宿る、稲に宿るクワン(稲魂)もその一つである。
以下「岩田慶治著・日本文化のふるさと・角川選書」を参考に記していきたい。この本は20年前に読んだものの、中身はすっかり忘れていたが、最近読み返して感じたことである。
タイ・ヤーイ(シャン)族の稲作儀礼が紹介され、稲穂が成長すると稲田の端にケーン・ピーと称する小祠を建てるとのことである。ケーン・ピーに招かれるのは、稲の守護神であり、それは女性のピーであると云う。そのケーン・ピーの周囲には、色々なターレオを掲げて悪霊の侵入を防いでいるが、幟状のそれは百足の形、魚の形をしたものである。岩田慶治氏によれば、陸棲動物の代表ムカデと水棲動物の代表魚がともに稲のピーの守護にあたっていると云う(当該ブロガーは実見経験はない)。その図を拝借して掲げておく。
横道に反れるがターレオを説明しておきたい。ターレオは邪悪ピーの侵入を防ぐものである。竹をさいて、籠の眼状に編み上げたもので、鬼の眼とでも呼べばよかろうか。従前にも紹介したように、アカ族は結界である集落入口に建てる鳥居のような構造物、つまり左右の柱の上に横木を渡し、その上に鳥の象形物やターレオを掲げている。
ここでは上の図にあるように田圃で用いるターレオを紹介しておく。これはチェンマイ民族博物館に展示されているターレオである。
左右に垂れる鎖状のものが、上図のムカデであろうか? 上写真最下段の6文字のタイ字はターレオと書いてある。その説明ではタカの眼と紹介している・・・?、悪霊の侵入を防ぐとはしているが・・・。
以上はタイ・ヤーイ族の稲作儀礼の一部である。岩田慶治氏は他にもクメール族の稲作儀礼を紹介している。その中で、稲籾を米倉に収納する儀礼を記したい。
その儀礼では高坏に種々の供物を供えるが、そこには一皿のご飯にトライ・カムプリアンという小魚の串刺しが突き立てられている。当該ブロガーからみると、これは何ぞや!
話は飛んで恐縮である。大林太良氏はその著作で、「稲魂は大変感じやすく、傷つきやすく、傷つくとすぐに逃亡してしまうと説いている」。これは、ベンガルから東南アジア各地に分布する、稲魂逃亡説話であり(従って逃げないような方策を儀礼に反映させなければならない)、その対極として稲魂自来説話も存在する。
以下「岩田慶治著:日本文化のふるさと」P208からクメール族のトライ・カムプリアンについて紹介する。「大昔には、稲が実っても稲刈りなどしなくてよかった。モミが自分から空を飛んで、バラバラと米倉に降ってきたからである(当該ブロガー注:稲魂自来説話)。ところがある日、米倉の隣の若夫婦が、不快な音をたてて稲のカミを驚かせ、かつ不謹慎な言葉を口にしたと云う。稲のカミは立腹し、山中の狭い穴に逃げ込んだ。そのカミがいなくなると、クニ中の人々が飢えに苦しむことになった(当該ブロガー注:稲魂逃亡説話)。民は相談し、稲のカミを連れ戻そうとするが、成功しなかった。そして最後に選ばれたのが、トライ・カムプリアンという小魚であった。小魚は苦心の末、穴に入り込み稲のカミを連れ戻した。其の時以来この小魚の体は、平たくなってしまった。」
この稲魂を発見するトライ・カムプリアンという小魚は、クメール族のみならず東南アジアに広がっていると、岩田慶治氏は指摘している。
また氏はトライ・カムプリアンを実見したように記述されているが、それがどのような魚であるのか?
タイの淡水魚図鑑や転載自由なブログ「ランナー・タイの魚」をみると、上写真のパ・サラークとも思えるが、どうもイメージが異なるようである。実在のトライ・カムプリアンを是非見てみたいものである。
さてここまで書き進めると、従前から当該ブログを御覧の方々は、お気付きであろうと思われる。
北タイ陶磁の魚文である。パヤオやサンカンペーンのそれは、細身の魚が双魚で描かれている事例が多い。これは鯉科の魚をベースとしているであろうこと、魚の卵は多産で家門繁栄の象徴であるとの見方は、既に別タイトルで紹介した通である。
パヤオやサンカンペーンは、細身の魚で在ると共に双魚である。その双魚も陰陽に配置されている事例が多い。これは北タイの独自性というよりも中国の影響を感じざるを得ない。
ところが、シーサッチャナーライやスコータイは、双魚よりも単魚文が多く、かつ幅広の薄い魚体である。実際そのような魚をタイの淡水魚図鑑で調べたが、居るにはいるものの、どーもしっくりいかなかった。
タイ族南下前のスコータイの中世は、クメール族やクイ族の世界であった。稲は彼らの食生活上欠かすことのできないものであり、その稲のカミを将来するのが、トライ・カムプリアンだったのである。
これで完全解決とは云わないが、スコータイとランナー世界の魚文の相違が、何となくではあるが、理解できるようになってきた。トライ・カムプリアンなる小魚をクメールで探すとことにしたい。

またまた蛇足で恐縮である。スサノオノミコトは、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。その後天照大神が機屋で機織りをしていると、スサノオノミコトは皮を剥いだ馬を落し入れ、驚いた機織女の梭が陰部に刺さり死んだ。そこで天岩戸に隠れるのであるが、これはトライ・カムプリアンの説話と話が同じである。この類似性をどのように考えればよいのであろうか?




竹筒による調理法

2016-06-10 05:54:37 | タイ王国

前置きが長く容赦願いたい。北タイの山岳少数民族については、それなりの思い入れというか興味がある。最近その山岳民族の履物と農耕儀礼や調理法はどうであろうかと、調べ始めたり種々想像したりしていた。・・・と云うのも、日本古代のそれらと何らかの繋がりがあろうと考えるからである。
過日、6月7日付け”の~んびりタイランド2”氏のブログを覗くと、カオラム(カオラーム)のタイトルで掲載されていた。あまりにもタイミングがよい。
カオラームは、最近ではココナッツミルクで炊いたりしたデザートであるが、本来は一種の携行食である。手頃の太さの青竹を用意し、30cm程度の長さに切る。片方の節を残しておき、この中に糯米を注ぎ入れ、適当に栓をしてから、炭火や焚火にて焼き上げる。
北タイでは、チェンマイからチェンライに北上する国道沿いで見かけるし、ワロロッ(ト)の市場でも販売している。しかし、実際に作っている現場は知らなかったが、”の~んびりタイランド2”には、その一部始終が紹介されている。
この竹筒を利用した調理方法は、金属器普及の前に出現したものであろうが、いつまで遡るのであろうか?北タイにも古代の遺跡から土器が出土する。この土器を用いた調理法とカオラームは、どちらが先か?・・・なーんて、ことを空想している。
更には糯(モチ)米が早いのか、粳(ウルチ)米が早いのか?・・・と空想は広がる。カオラームは糯米である。
ラオスや北タイでは、洗米した糯米をハイヌンカオという筒形の甑(こしき:木製)に入れ、モンヌンという金属製の蒸し器の上にのせ火にかける。チェンマイの民族博物館で見たような気がするが、手元の写真にそれは写っていない。
               (チェンマイ民族博物館)
ところがハノイの国立民族学博物館の黒タイ族の移設住居には、筒形の甑と蒸し器が展示されている。下の写真がそうである。
写真中央に写っているのがそうであるが、ピンボケで不鮮明である。よって別の写真を御覧いただこう。
右端に蓋つきの甑、隣に金属製の蒸し器を見ることができる。糯米を蒸した強飯(こわいい)が日常食であるのか、それとも炊いた粳米が日常食であろうか?・・・現代はともかく、中世ではどうであったのか?それとカオラームとの前後関係は?並存していたのか?・・・と空想は広がる。
卑弥呼の時代、弥生時代はどうであったろうか。いわゆる魏志倭人伝には、「食飲用へん(邊に竹冠)豆手食」とある。つまり、高坏に盛った蒸した米を手でつまんで食べたとなる。
高坏に盛った蒸した米とは、”おこわ”で糯米である。魏志倭人伝によると、邪馬台国では糯米が食されていたことになる。
弥生時代には稲の栽培が始まった。鳥取市青谷上寺地遺跡からは木製スプーンが出土し、同じ弥生時代に煮炊きに使われた甕型土器に残る炭化物から、穀物は水を加えて炊いていたであろう。木製スプーンが合わせて出土したとなると、米や雑穀を炊いて雑炊のよにして、スプーンで食べていたとも考えられる。
また日本各地の弥生時代の遺跡から甑が出土しており、魏志倭人伝記載の蒸す調理法が存在していたことを裏付けている。弥生時代の日本でも、糯米が先か粳米が先かの課題が残っている(あるいは既に解決済みの課題であろうか?さすれば、知らないのは当該ブロガーということになる)。
東南アジアの山岳少数民族と弥生時代の倭人の食と調理法には繋がりがありそうである。どーでも良いが、竹筒を使った調理法は最も古様を示しているのではなかろうか?東南アジアの古代遺跡から竹筒は出土していないのか?・・・ご存知の方は教示願いたい。
ついでにどうでもよい話題を一つ。上から3番目の写真の、金属製蒸し器のモンヌン、これは二重口縁壺つまりハニージャーの形状にほかならない。
つまり近世にモンヌンは金属製になったが、中世はハニージャーを流用していたのではないかと思われる。曰く蜂蜜保管壺や漬物壺の用途のみではなく、蒸し器の役割もになっていたのであろう。








世界の街角#12:ペナン#4

2016-06-09 07:33:36 | 世界の街角

<続き>


ペナンと云えば孫文(孫中山)。中国、台湾では国父と呼ばれる。彼は革命資金調達のため世界を駆け巡った。中国人要人として世界を回ったのは、孫文が初めてであろう。その孫文が、1911年の辛亥革命前に4カ月間ペナンに滞在した。

 

 

その孫文は、E&O Hotel(イースタン&オリエンタル・ホテル)にも足跡を残している。

 

ホテルの裏手はアンダマン海。英国統治時代にキャノンを設置した。景色は良く当時の感慨にふけってみるのもよいであろう。

アフタヌーン・ティーに派手さはない。外の景色を眺めながらのひと時は至福の時間であった。







                           <ペナン:了>


世界の街角#11:ペナン#3

2016-06-08 07:14:58 | 世界の街角
<続き>

プラナカンとは16世紀頃マラッカ王国に来た中国人移民が、マレーシア人女性と結婚して生まれた人々。男性はババ、女性はニョニャと呼び、その総称がプラナカン。そのプラナカンが建てた住居が観光地となっている。
先ずチョンファッツイ・マンション(別名:ブルー・マンション)で外壁の青い色は風水によると云う。

次はプラナカン・マンションで、富豪・鄭景貴(チュンケンキー)が19世紀末に建てられた住居。外壁はペパーミントグリーンに塗られ、内装は華洋折衷で英国様式と中華がまざりあっている。内部は鄭氏が収集した美術工芸品が展示されており、隣の公立博物館より優れている。




                                <続く>












世界の街角#10:ペナン#2

2016-06-07 07:22:48 | 世界の街角
<続き> 

多民族国家マレーシアの縮図・ペナンの宗教施設は未だ続く。中世16世紀以降中国人の移民が相次ぐ。それらの中で財をなしたものが、宗祠廟を建てる。Khoo Kongsi(邸公司)は、其の中の一つで1835年福建から来た、邸氏一族が建立したものである。
建物は金ぴかである。江蘇や福建など南部の建物は白黒のモノトーンが多いが、如何にも鮮やかである。


腰壁には麒麟や虎の彫刻が刻まれている。虎は子を千尋の谷に突き落とすという。まさにその場面が刻まれている。中国南部の道教寺院である道観は媽祖廟か天后宮であるが、天后宮を見ることができた。多分媽祖廟もあるかと思うが、未だ見ていない。


                             <続く>