ペナンは、まさに多民族国家マレーシアの縮図であり、彼らが奉ずる宗教も多様である。
先ずモスクである。写真はKapitan Keling Mosqueでペナンでは最も格式高い。イスラムはマレーシアの国教である。







下3枚の写真はタイ式仏教寺院で、当該ブロガーには見慣れたヤックが迎えてくれる。



他民族・多宗教国家・マレーシア。現在までは人種・宗教抗争は発生していない。世界中の多くの人々は、マレーシアを見習うべきであろう。
<続く>
過日、京都府立図書館にて長谷部楽爾著「インドシナ半島の陶磁・山田義雄コレクション」をみた。当該コレクションは町田市立博物館に収められているらしい。当該博物館では、どうも常設展示されていないようである・・・残念。
当該著作当時は、パヤオとサンカンペーン陶磁は同じものとして扱われ、区別はできていなかったようである。
写真の劃花草文盤はパヤオの最大の特徴である。今日、サンカンペーンとパヤオの判別は可能である。
問題は次の、印花双魚文盤である。書籍はサンカンペーンと紹介している。その魚文は初見で、過去鉄絵・印花文合わせて数百点を見ているが、この手の文様は経験がない。先ず写真を御覧いただこう。
サンカンペーン青磁印花双魚文盤と紹介されているが、解像度が低く文様が不鮮明である。拡大すると多少輪郭が分かるが、不鮮明な部分も多々残っている。
先ず鰭の数であるが、背側は1箇所で腹側ははっきりしない。背側の鰭が1箇所の印花文は、パヤオとナーンの特徴である。
文様を拡大しても不鮮明であるが、文様の特徴として後3点を確認することができる。
1点目は、筋状の尻鰭が上下に分かれている点である。これもパヤオとナーンの特徴である。以下、上から2つがパヤオ、3つ目の魚文がナーンの文様である。このような尻鰭の文様はサンカンペーンでは見ない。
2点目は、魚体に骨のような文様を垣間見る。このような文様はパヤオ魚文の特徴である。
3点目が最大の特徴であるが、魚体の周囲に小さな○文が配置されている点である。この手の文様を見た経験があることを思い出した。
それは、チェンマイ大学陶磁資料室である。それが下の写真であるが、波状の劃花文の周囲を小さな○文が囲んでいる。この○文の使われ方の趣旨は双方同じものと思われる。
陶磁資料室の学生に尋ねると、陶片資料番号からサンカンペーンという。手にとって見ると、口縁に釉薬が掛かっている点、胎土や高台の形状や様子から、どことなくサンカンペーンとは異なるようで、個人的には焼成地が特定できていない。チェンマイ国博敷地内のタイ芸術局第8支所の担当者に質問すると、パヤオかナーンではないかとの指摘であった。
この山田義雄コレクションの印花双魚文盤の胎土と高台の様子をみれば、サンカンペーンかそうではないのかの概要がつかめそうである。今日一番見てみたい謎の陶磁である。
岩本千綱氏は安政五年(1858年)土佐に生まれた。その彼が山本介氏とともに、明治二十九年十二月二十日バンコクを発し、翌三十年四月九日ハノイに到着した旅行記を「三国探検実記」として著した。実に111日間の旅行記である。
当時の街道(現在もそうであるが)は、中世の街道と大きな差異はない。その街道は安南からルアンプラバーンのランサーン王国を経由し、八百息婦(ランナー王国:息は正式には女偏に息)への道でもあり、これらのルートを介して安南陶磁や陶芸技術が伝播したと思われる。
岩本千綱氏の旅を遡る大越国の黎聖宗(レ・タイントン)は、チャンパ征服に続いて1479年(洪徳10年)8月、諸将に命じて18万人の軍勢が国境の西側に接する哀牢、盆蛮(盆忙)、老撾に五方面から侵攻した。当時ルアンプラバーンに都を置く、ランサーン王国とランナーへの侵攻である。
ここで注目すべきは、中世に北ベトナムからランサーンやランナーへ至るのに、五のルートがあったことである。その中の一つは第一次インドシナ戦争でベトナムとフランスが戦い、フランスが敗北したディエンビエンフーの戦い。そのディエンビエンフーを南下するルート、更にはタインホアから国道15号で西行し、ラオスのサムヌアに抜けるルートも主要ルートである。
更にはベトナム・ゲアン省のルートも存在する。ゲアン(乂安)省ビン市(榮市)からカー川沿いに、チュアンソン山脈を左にみて国道7号を遡り、ラオスのポンサワンを経由して、ランサーンの都ルアンプラバーンに至るルートで、上写真の白抜きルートである。このカー川はラオスのシェンクワーン県を源に国境を越へ、ゲアン省を流れバクボ(北部)湾に注いでいる。
それらの中から岩本千綱氏は、ノンカイからラオスに入りビエンチャン、ルアンプラバーン、ムアンサイを経由しディエンビエンフーへ至る、黄色ルートでラオスを縦断したとの記録である。
黎聖宗は五方面から侵攻したとされ、それなりのルートが存在し、交易や往来が存在していたことになる。
謎の石壺で有名なジャール平原には、流し掛け銅緑彩陶磁が存在する、時期は16世紀頃であろうと云われている。その窯跡発見の報には接していないが、その発見が待たれる。大越国やランナーで見る横焔式単室窯であれば、ランナーへの陶磁技術の伝播ルートは、安南ルートであることが証明されることになるのだが・・・。