世界の街角

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ブン・ワット・パー古窯址(1)

2022-01-12 08:44:55 | 窯址・タイ

新春特集を中断して記事を掲載する。東南アジア古陶磁愛好家並びに、古窯址に興味をお持ちの方は必見である。今回と次回の2回にわたり紹介する。

昨年5月、『タイで最近窯址が発掘された』(ココ参照)と題して一文をUpdateした。それはバンコク大学付属東南アジア陶磁館のSNS情報であったが、最近になりタイ芸術局第6支所(在・スコータイ)が、2021年度の発掘報告をSNS情報として公開している。またBKK在住の知人K氏がシーサッチャナーライの帰途、そのノッパカオ窯とブン・ワット・パー窯を訪れられたとのこと。そこで得られた情報も併せて紹介する。

昨年5月には、ノッパカオ窯の発掘記事として、以下に掲げる写真を紹介した。見事に地層らしきものが写っていたので、地層かと考えていたが、それは発掘にあたり直射日光を避けるためのカンレイシャのような日よけの隙間で、太陽光のなせる業あった。

このノッパカオ窯の北側直近にブン・ワット・パー窯群(เตาบึงวัดป่า)が存在しており、その発掘調査報告が公開されている。ここでは、その発掘調査報告を中心に紹介する。

Tao Bueng Wat Pa (เตาบึงวัดป่า) この場所は、タイ芸術局第6支所(在・スコータイ)が2020年度から考古学研究を継続している一つの重要な遺跡と見なされている。ピチット県ポータレー郡ムー4地区のナン川から約600メートルの距離にある。それは2018年、スコータイ王朝時代に構築された陶器窯の痕跡が、ワット・パー湿地の浚渫中に新たに発見された窯群である。

(芸術局第6支所は、Google Earth上にピンを置いているのが発掘現場である。このうち昨年5月に紹介したのがノッパカオ窯址で、それ以外にブン・ワット・パー窯群として、1号窯から5号窯まで5基の窯址が存在しているという)

この窯群(ブン・ワット・パー)を発掘するにあたり、集落の人々によれば、古代に謎の都市が存在したとの伝承があり、それや土地霊いわゆるピーの祟りがあるのではないかと、お香やろうそくを持ってお参りしたと云い、その種の写真を第6支所は掲載している。

発掘調査の結果、窯壁にはシリカが溶けて染みとなっていた。無釉陶器と褐釉陶器の破片、瓶などが出土した。そして窯跡はスコータイ王朝時代の窯と結論付けられた。

ブン・ワット・パー古窯址の発掘のきっかけは、その古窯址の直近南側のノッパカオ窯(เตานพเก้าว์:タオノッパカオ)の窯址発見である。集落の人によると、ノッパカオ窯の北の隣接地にも窯址らしきものが認められるとのことで、2020年度―2021年度の発掘調査につながったものである。

(発掘されたノッパカオ窯址)

2020年度以降のフェーズ1・発掘調査では、古代の窯の証拠が見つかった。横型のクロスドラフトキルン(地下式横焔式単室窯)で、炉は粘土構築で窯壁は溶けたシリカで覆われている。窯の幅は2.90メートル、長さは9メートルで、南北軸に沿って整列していた。この窯は、タイ北部の重要な遺跡と見なされている。現在までピチット県では陶器の供給源が見当たらなかった。

(9m✖2.9mの地下タイプの横焔式単室窯)

考古学事業2021年度は、窯が発見された地域に在るスワン・ノッパカオ氏の土地で発掘調査を行っている。発掘ピットは4×7mで、窯内の土壌表面は雑草で覆われていた。この窯(ノッパカオ窯)は完璧な状態であった。

現場で窯址を現認したK氏によると、陶片は鉄分を含んだ陶土で成形し化粧土を塗りつけ、型押しや線刻を施したよく焼き締まった陶片とのことである。装飾の印花文はスパンブリーのバン バン プーン窯と酷似していると云う。

<次回に続く>


新春特集『遥かなる騎馬民族』(2)

2022-01-11 08:28:10 | 日本文化の源流

<続き>

〇大成洞古墳は騎馬民族の王墓

金海大成洞古墳は北方遊牧民族、すなわち北方騎馬民族系の墳墓であろう。これらの墳墓は、黄金の副葬品で知られるパジリク古墳(前3世紀前半:大型円墳で積石塚)など、モンゴル北部からシベリアにかけてみられるもので、それがなぜ朝鮮半島南部に突然出現したのか。金官伽耶国では遅くとも4世紀半ばには、高度の装備をもった騎馬軍団が存在したであろう。

(出典・大成洞古墳展示館)

金海大成洞古墳群は、その出土品から扶余系の騎馬民族の王朝『辰王朝』の陵墓であることが推定される。

(出典・Wikipedia)

出土品の中のオルドス型のケットル、これは北方ユーラシアの古代騎馬民族にとって、天神をはじめ神々を祀るときに犠牲を入れて煮て献納するための神聖な祭器、携帯用の一種の祭壇でもあり、王権のシンボルと考えられ、これが出土したと云うことは、大成洞古墳が王墓であり、しかもその王の出自が東北アジアの騎馬民族であったことを示唆している。

<続く>

 


新春特集『遥かなる騎馬民族』(1)

2022-01-10 08:48:50 | 日本文化の源流

〇騎馬民族国家・伽耶

13世紀成立の朝鮮史書『三国遺事・駕洛(から)国記』に「後漢の洪武帝の建武十八年、首露王が六伽耶の一つ大駕洛(また伽耶國と称す)を建てた」という記事が存在する。それによれば建国は、紀元後四十七年ということになる。13世紀成立の史書に紀元前後の記事であるので、信憑性に疑問がないわけではないが、ここでは史実としておく。

3世紀末の『魏志・烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)』は、韓の地には馬韓五十余國、辰韓および弁韓には各々十二ヶ国が会ったことを記すが、そこに伽耶の名はない。

414年の高句麗・好太王碑には、少なくとも類似の国名が記されていることから、伽耶の建国は4世紀頃と考えられている。5世紀には、南下してきた高句麗の騎馬軍団に対し倭国と連合して戦い、やがて6世紀に新羅に併合されて滅亡した。

4世紀の伽耶の遺跡から倭国産の巴形銅器が出土することから、古代日本と近い関係にあったと考えられる。金銅製宝冠、環頭太刀の出土から、4世紀末から5世紀にかけて伽耶の地には、宗教的権威者(シャーマン)が政治的最高権威者をかねた王国が存在していたと韓国の学者が指摘する。

(金海国立博物館にて)

(金海出土の環頭太刀 金海国立博物館にて)

金海大成洞遺跡の発掘調査成果が契機となって知り得たことは、北方系遊牧民族の習俗と文物、すなわち人と馬の殉葬、武器を折り曲げて墳墓に副葬する習俗、蒙古鉢形冑や桂甲といった騎馬用甲冑、馬冑、北方式銅鍑、青銅製虎形帯鉤などの文物を持った北方系木槨墓が3世紀末に金海地方に突然出現し、首長墓をはじめとするそれ以前の墳墓を意図的に破壊するといった現象が、金海において確認できる。この北方墓制・文物が登場する以前を狗耶韓国、以後を金官伽耶とする。しかし、留意しておくべきは、北方の木槨墓は地下構造に対し、金海のそれは墳丘上部に配置されている。この変化は高句麗・雲坪里でみることができるが、どのようにして発生したのかとの課題を持つ。

(大成洞古墳資料館展示の北方系木槨墓のジオラマ)

前述の3世紀末に金海に突然出現した騎馬習俗の支配集団は5世紀前葉に突然金海(伽耶)から消え去っている。大きな謎である。

<続く>

 


新春特集『遥かなる騎馬民族』連載開始にあたり

2022-01-09 08:00:57 | 日本文化の源流

江上波夫氏は騎馬民族が渡海し、倭地に王朝をたてたと以下のように述べておられる。東北アジア等の騎馬遊牧民族の国々、扶余、高句麗、百済の系統を引く王侯貴族が『任那(伽耶、加羅)』に遣って来た。この任那の都に辰王朝があり、そこから4世紀末ないし5世紀前半ごろに崇神天皇が騎馬民族軍団を率いて北部九州に遣って来た。そこで扶余、韓、倭連合の『日本国』をつくる。これが北部九州の筑紫の人々の勢力を加えて、応神天皇の時に東へ進み大阪平野へ進出して、ここで日本列島の統一をめざして国名を『倭国』とした。そして応神以降の倭の五王で征服を成し遂げ、雄略天皇の前後に大和朝廷が始まったとしている。

この江上説は、反論が多く考古学的に立証できないとされている。江上波夫氏は4世紀末ないし5世紀前半とされているが、崇神天皇は少し早く、4世紀頃であろうとされている。

しかしながら、江上波夫氏が述べる崇神天皇かどうかは別にして騎馬民族が遣って来なければ、騎馬に関する遺物が列島各地から出土するはずもなく、それらをみれば騎馬民族は遣って来たと考えざるを得ない。

それがどのような形であったであろうか。10代崇神天皇は、4世紀頃であろうとの見方が大方の見解である。次の11代垂仁天皇の時に天日槍(あめのひぼこ)が渡来したと日本書紀は記している。それは垂仁天皇3年3月条において、自ら新羅王子を名乗ったと云う。この天日槍集団を嚆矢として、波状的か散発的かは別にして、数次に及ぶ騎馬民族やその末裔が渡海してきたであろう。

それらの事どもをシリーズとして連載する予定である。尚、参考文献として

  • 江上波夫著『騎馬民族征服王朝』説
  • 『騎馬民族の道はるか』NHK出版
  • 当該ブロガー記載『騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか』シリーズ

・・・を用いている。

(スキタイ:戦士像・黄金の櫛 出典・『エルミタージュ美術館』岩波書店 1985)

甲冑を身に纏った騎馬戦士像が刻まれている。騎馬は「馬銜(はみ)」をつけてはいるが、この時代に鐙(あぶみ)は無かったようだ。騎馬民族の源流をたどれば、スキタイに行きつくであろう。

渡海してきた騎馬民族は、高句麗の影響が大きいことから、朝鮮半島基部がその本貫と思われる。

(高句麗の古都・集安博物館の騎馬人物像:出典・集安博物館HP)

騎馬人物の胴体は、身体動作がしやすい挂甲(けいこう)である。この挂甲も歩兵が身に着ける単甲と共に伝播したが、適当な写真がなかったので埴輪の挂甲人物像を掲げておく。

(出典・文化遺産オンライン)

将軍山古墳(埼玉県)から蛇行状鉄器が出土した。当初は使途不明であったが、騎馬軍団の旗指物を立てかけるものであることが、高句麗通溝12号墳の壁画からあきらかとなった。

(酒巻14号墳出土埴輪 出典・文化遺産オンライン)

それは、同じ埼玉県の酒巻14号墳出土の埴輪にも表現されていた。

(蛇行状鉄器 金海国立博物館にて)

伽耶でも蛇行状鉄器を見ることから、高句麗から南下し伽耶を経由し日本列島に至ったのである。

(出典・大成洞古墳展示館)

馬冑・馬甲や蒙古鉢形冑も高句麗から伽耶へと南下し、やがて日本へ渡海した。

(馬冑・和歌山大谷古墳出土 県HPより 合わせて馬甲の断片(小札)も出土しており、大成洞古墳展示館のように1セットであったことになる)

(奈良五条猫塚古墳出土蒙古鉢形冑・奈良国立博物館HPより)

6世紀になると、日本では武具で固めた騎馬人物や歩兵が一般的となる。それほどの影響をもたらしたのである。

(額田部臣軍団ジオラマ・県立古代出雲歴史博物館にて)

上述のようなことどもを、次回以降シリーズ連載の予定である。

<了>


蘇我氏はスサノオの末裔か?

2022-01-06 08:42:49 | 古代日本

新年早々に人畜無害とも云えないが、荒唐無稽な話で恐縮である。

蘇我氏の祖は、6世紀前半の蘇我稲目であるが、それ以前は種々取沙汰されているがよくわからない。神功皇后伝承に登場する武内宿祢を祖とするとも云うが推測の域を出ない。葛城氏に連なる説が有力とされるが、渡来人説も存在する。要するに分からないことからスサノオに結び付けてみた。『日本書紀』の蘇我氏の系譜に、高麗(こま)や韓子(からこ)といった渡来系の名が記されている。

『日本書紀』は、蘇我氏は大王家(天皇家)をないがしろにして専横を極めたと記す。中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を誅滅する乙巳(いっし)の変が記されている。つまり大王家に弓牽く大逆無道の徒との表現である。

スサノオに話を移す。スサノオは朝鮮半島と繋がる。『日本書紀』では、新羅に天降ったあと、御子の五十猛命(いそたけるのみこと)と共に出雲に渡り、八岐大蛇を退治した。スサノオがクシナダヒメと共に宮居を構えたのが須賀で、現在は須我神社が在る。

(スサノオ像:出雲市駅前通り)

(スサノオと之湯山主三名狭漏彦八島野命を祀る須我神社)

その主祭神は、スサノオと御子神の之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)で、一般的には八島土奴美神(やしまじぬみのかみ)と呼ばれている。一説によれば、これらの呼称はオオナムチ(オオクニヌシ)の別名とされている。この神は但馬一之宮の粟鹿(あわが)神社の書物『粟鹿大明神之記』には、『蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻奴そがのゆきやまぬしみなさむるひこやしましぬ)』と表記されているという。

(大国主命像:出雲大社境内)

『清・すが』が『蘇我・そが』となっている点に注目したい。また出雲大社の摂社で、スサノオを祀る『素鵞社』は、『そがのやしろ』と読まれている。また蘇我氏の神社である奈良県の『入鹿神社』には、入鹿と共にスサノオが祀られている。そう云えば、蘇我氏の勢力範囲には、なぜか多くの出雲神が鎮座している。

(スサノオを祀る素鵞社:出雲大社境内)

入鹿とスサノオを祀る入鹿神社:橿原市)

以上、やや荒唐無稽で根拠に薄い話しであるが、上述のことは妙に符号する。但し、証明不能の話である

証明不能と云えば、以下の異説も存在する。『出雲と蘇我王国』なる斎木雲州氏の著書が存在する。ことの発端は、司馬遼太郎氏の『歴史と小説・出雲のふしぎ』に登場するT氏が語った事柄からである。T氏とは産経新聞に勤務していた富當雄氏のことである。その子息が著者の斎木雲州氏である。そこには以下のように記されている。要点のみ掲載する。

出雲王国は、二王制であり主王と副王があった。主王の職名は『大名持』と呼ばれた。王家には、向家と神門臣家があった。そして主王は向家と神門臣家から交代で就任した。紀元前3世紀末に秦國から徐福(じょふく:スサノオ)の集団が、石見国の五十猛に上陸した。高照姫は大国主の姫で、徐福(スサノオ)に嫁ぎ五十猛命を生んだ。ここまでを要約すると、大名持=大国主=出雲王、大国主の娘が徐福すなわちスサノオに嫁いだ。出雲王家は向家と神門臣家であった・・・と云うことになる。

更に下記の如く記述が続く。北陸蘇我家は、向家から嫁や養子を迎えた親族であった。出雲王家にオホドノ御子が生まれ、成長したのち越前国造家の養子に迎えられ、蘇我刀自の婿君になった。蘇我国造オホド王は日本海交易で力をつけ、オホド王は出雲王家出身であり、関東の出雲系国造群の勢力が支援し、その勢力はヤマトの大王の勢力に匹敵した。

平群王朝の後期の大王は、重臣の大伴氏や物部氏に見限られ、大伴金村と巨勢臣男人が、越前三国に出向き、大王就任を申し込んだ・・・とある。

つまり、オホド王は出雲王家出身で越前蘇我家に婿入りした。出雲王家はスサノオに繋がる。ココにスサノオと、蘇我家、オホド王が繋がることになる。しかし、この説は異端とは云わないが異説の類である。しかし、異説にせよ繋がるのは、何かしらの因縁が背景にあったと考えてもよさそうだ。

(オホド王像:福井市足羽山 Wikipediaより)

(物部神社:島根県大田市)

しかし、出雲国と国境を接する石見国安濃郡川合村に物部神社が鎮座している。継体天皇8年に社殿が創建されたとある。この物部神社は、出雲の監視がその目的であったと云われている。出雲の監視と云えば、スサノオ、大国主、出雲王家すなわち蘇我氏を監視する意味はあるが、その創建が継体天皇によるとすれば、辻褄が合わない。継体天皇が蘇我氏につながり、ひいては出雲王家に繋がるのに、なぜ継体天皇の時代に、自分の出自とつながる出雲を監視するのか。

最後は、訳の分からない話となったが、蘇我氏はスサノオの末裔か?・・・とのテーマで証明不能の話をまとめてみた。歴史(私文書や口承伝承)は、多方面で伝えられ、互いに照合されたものではないことを物語っている。当該ブロガーによる好き放題の表現をするなら、歴史は各氏族に都合の良いように勝手に作られ、真相は闇状態で将来的にも解明不能であろう。

<了>