■先週、図書館(君津市立中央図書館)の新刊返却コーナーで見つけた
“アベベ・ビキラ”の書籍を紹介します。
★2019.01.17:動画追加
■「アベベ・ビキラ」 を読んで
・書籍名: アベベ・ビキラ 「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯
・著者 : ティム・ジューダ (ジャーナリスト・作家・英国BBC)
・訳者 : 秋山 勝
・発行所: 草思社
・発行 : 2011年8月31日
・定価 : 本体1,800円+税
・ページ: 237ページ
アベベ・ビキラ ファミリーネームのないエチオピアでは、アベベは名前、ビキラはお父
さんの名前で、「ビキラの息子アベベ」。
アベベという名前は「咲きほころぶ花」という意味。
●大地の子
幼少時代のアベベも羊に食べさせる草を求め、周囲の溶岩台地の岩山を裸足のまま
何キロも走り続けたり、歩き回ったりすることが日課になっていた。
13歳になって学校に通い出すとガンナを始める。ガンナは長距離ホッケーのような競技
で、ゴールは相手の村にあるため、得点に至るまでの距離は数キロにも及んだ。
※そういえば、「BORN TO RUN」の “ラジパリ” 競技と同じですね。
19歳のころ、首都アジス・アベバに移り住んだ。皇帝の身辺警護を任務とするエリート
部隊の親衛隊に入隊する。
アベベの才能を見出した人物がいた。スウェーデンから来ていた親衛隊のスポーツ
トレーナー、“オンニ・ニスカネン”だった。
「スルルタからアジス・アベバのあいだを毎日走って往復する姿を見て、マラソンに挑戦
させてみることを思いついた」(スルルタは20km以上離れた丘陵地にある町)
●北の国のコスモポリタン
オンニ・ヘルマン・ニスカネンはフィンランドに生まれ、一家はスウェーデンに引っ越す。
スポーツ好きな兄弟、ニスカネンはとくにクロスカントリーに秀でていた。
終戦とともに除隊、トレーナーとなったスポーツの指導に従事するため学校に通って
本格的な勉強を始めた。
卒業後、一本の電話が「エチオピアに行ってみる気はないか」
(スウェーデンとエチオピア両国にはすでに長い関係の歴史があった)
●ローマへの道
ニスカネンは自分の指導力は陸上とジャンプ競技で生かすことができると考えた。
この国の人たちにとって、走ることは唯一の移動手段である。
アベベの娘ツァガエの本には、ニスカネンがアベベのために用意した一週間の
標準的な練習メニューが紹介されている。
・月曜日 午後:30km(市内からスルルタ)
・火曜日 午前:10キロ(中速・競技場内)、午後:15キロ(中速・舗装路)
・水曜日 午前:アップヒルとダウンヒルでのリレー、午後:15キロ(高速・舗装路)
・木曜日 午前:競技場でトラック走とリレー、午後:30キロ(高速・舗装路)
・金曜日 午後:50キロ(前半・高速、後半・中高速)
・土曜日 レース(ハーフマラソン)
・日曜日 休み
アベベは日曜日にもエントット山やほかの場所で練習していた。
ニスカネン自身、練習は量より質が肝心だ。そしてリラックスして走ることも強調していた。
ニスカネンの指導法はスウェーデンの“自然派”と呼ばれるもので、人工的な道路でなく
大地のうえを自由にそして野性的にランニングすることである。
“持久力”と“スタミナ”の違い、マラソンは前半の30キロは“スタミナ”が求められる“プロ
ローグ“に相当する。長時間にわたって高速を持続する能力、レースにおいていかにスタ
ミナを消耗することなく、30キロ地点に到達するかがポイントだ。
残りの12キロは“モノローグ”の部分は“持久力”の区間で走り続けることを可能にする
能力。アベベの天才性は、たぐいまれな持久力にある。
1958年を考えると、ニスカネンがアベベとマモ(1956年メルボルン大会出場:800m,1500m)
の二人を将来の金メダリストと考えていた。
エチピアの最終選考レース、50名以上の選手が参加、アベベが一気に決めた。タイムは
2時間21分23秒(ザトペックの記録:2時間23分03秒)関係者が驚愕する結果だ。
2位には2時間30分26秒のワギラがつけていた。代表はこの2名が選ばれた。
●ローマの衝撃
練習はこの間も続き、アベベとワギラを連れてニスカネンはコースの下見にも出かけた。
マラソンシューズは、アベベとワギラは調子を確かめようと、シューズを履いて10キロ
を走ってみた。しかし、足が痛んでペースが落ちる。ニスカネンとも相談して結局履かずに
走ることが決まった。
レースは1960年9月10日土曜日の午後5時30分に始まった。
全69名のランナーのうち、優勝候補と目されていたのはロシア(ソ連)のポポフ(1958年
ヨーロッパ選手権優勝)、モロッコのラジ(クロスカントリー世界チャンピオン)もポポフに次ぐ
前評判だった。
レース前、ニスカネンは要注意の選手を二人に教えてうえで、ゼッケンを覚えておくように
アドバイスした。ソ連、モロッコのラジ、ニュージランドのマギーのほか、二、三名の選手が
いた。
だが、ゼッケン26番で出場するはずのラジは本番では185番で走っている。(二日前の
10,000mのゼッケン)
アッピヤ旧街道にさしかかった30キロ地点、アベベはじりじりと前に出始めた。
ゴールから2キロ地点に建つオペリスクが見えたらラストスパート、コンスタンティヌスの
凱旋門にゴールする。記録は2時間15分16秒世界最高記録。
アベベ・ワギラは7位だった。
鬼塚喜八郎は、驚いていた、裸足のランナーが世界記録を打ち破るのを目の当たりにして。
★長距離王国エチオピアの誕生
▼この書籍には、写真は数点しか掲載されていませんので、YouTubeやWebで写真を追加。
01:東京オリンピックのマラソンゴールシーン
02:スウェーデンのコーチ ニスカネン
03:練習中のアベベ
04:ローマオリンピック入場式 エチオピア代表団 金髪の人は ニスカネン
05:ローマ大会 マラソンスタート前
06:スタート前に談笑するポポフ選手
07:裸足のアベベ
08:ラジとのデットヒート
09:アベベがリード
10:アベベ ラストスパート
11:ゴール
12:ゴール後の整理体操
★動画
↓
★ローマ・オリンピック1960 マラソン
★
“アベベ・ビキラ”の書籍を紹介します。
★2019.01.17:動画追加
■「アベベ・ビキラ」 を読んで
・書籍名: アベベ・ビキラ 「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯
・著者 : ティム・ジューダ (ジャーナリスト・作家・英国BBC)
・訳者 : 秋山 勝
・発行所: 草思社
・発行 : 2011年8月31日
・定価 : 本体1,800円+税
・ページ: 237ページ
アベベ・ビキラ ファミリーネームのないエチオピアでは、アベベは名前、ビキラはお父
さんの名前で、「ビキラの息子アベベ」。
アベベという名前は「咲きほころぶ花」という意味。
●大地の子
幼少時代のアベベも羊に食べさせる草を求め、周囲の溶岩台地の岩山を裸足のまま
何キロも走り続けたり、歩き回ったりすることが日課になっていた。
13歳になって学校に通い出すとガンナを始める。ガンナは長距離ホッケーのような競技
で、ゴールは相手の村にあるため、得点に至るまでの距離は数キロにも及んだ。
※そういえば、「BORN TO RUN」の “ラジパリ” 競技と同じですね。
19歳のころ、首都アジス・アベバに移り住んだ。皇帝の身辺警護を任務とするエリート
部隊の親衛隊に入隊する。
アベベの才能を見出した人物がいた。スウェーデンから来ていた親衛隊のスポーツ
トレーナー、“オンニ・ニスカネン”だった。
「スルルタからアジス・アベバのあいだを毎日走って往復する姿を見て、マラソンに挑戦
させてみることを思いついた」(スルルタは20km以上離れた丘陵地にある町)
●北の国のコスモポリタン
オンニ・ヘルマン・ニスカネンはフィンランドに生まれ、一家はスウェーデンに引っ越す。
スポーツ好きな兄弟、ニスカネンはとくにクロスカントリーに秀でていた。
終戦とともに除隊、トレーナーとなったスポーツの指導に従事するため学校に通って
本格的な勉強を始めた。
卒業後、一本の電話が「エチオピアに行ってみる気はないか」
(スウェーデンとエチオピア両国にはすでに長い関係の歴史があった)
●ローマへの道
ニスカネンは自分の指導力は陸上とジャンプ競技で生かすことができると考えた。
この国の人たちにとって、走ることは唯一の移動手段である。
アベベの娘ツァガエの本には、ニスカネンがアベベのために用意した一週間の
標準的な練習メニューが紹介されている。
・月曜日 午後:30km(市内からスルルタ)
・火曜日 午前:10キロ(中速・競技場内)、午後:15キロ(中速・舗装路)
・水曜日 午前:アップヒルとダウンヒルでのリレー、午後:15キロ(高速・舗装路)
・木曜日 午前:競技場でトラック走とリレー、午後:30キロ(高速・舗装路)
・金曜日 午後:50キロ(前半・高速、後半・中高速)
・土曜日 レース(ハーフマラソン)
・日曜日 休み
アベベは日曜日にもエントット山やほかの場所で練習していた。
ニスカネン自身、練習は量より質が肝心だ。そしてリラックスして走ることも強調していた。
ニスカネンの指導法はスウェーデンの“自然派”と呼ばれるもので、人工的な道路でなく
大地のうえを自由にそして野性的にランニングすることである。
“持久力”と“スタミナ”の違い、マラソンは前半の30キロは“スタミナ”が求められる“プロ
ローグ“に相当する。長時間にわたって高速を持続する能力、レースにおいていかにスタ
ミナを消耗することなく、30キロ地点に到達するかがポイントだ。
残りの12キロは“モノローグ”の部分は“持久力”の区間で走り続けることを可能にする
能力。アベベの天才性は、たぐいまれな持久力にある。
1958年を考えると、ニスカネンがアベベとマモ(1956年メルボルン大会出場:800m,1500m)
の二人を将来の金メダリストと考えていた。
エチピアの最終選考レース、50名以上の選手が参加、アベベが一気に決めた。タイムは
2時間21分23秒(ザトペックの記録:2時間23分03秒)関係者が驚愕する結果だ。
2位には2時間30分26秒のワギラがつけていた。代表はこの2名が選ばれた。
●ローマの衝撃
練習はこの間も続き、アベベとワギラを連れてニスカネンはコースの下見にも出かけた。
マラソンシューズは、アベベとワギラは調子を確かめようと、シューズを履いて10キロ
を走ってみた。しかし、足が痛んでペースが落ちる。ニスカネンとも相談して結局履かずに
走ることが決まった。
レースは1960年9月10日土曜日の午後5時30分に始まった。
全69名のランナーのうち、優勝候補と目されていたのはロシア(ソ連)のポポフ(1958年
ヨーロッパ選手権優勝)、モロッコのラジ(クロスカントリー世界チャンピオン)もポポフに次ぐ
前評判だった。
レース前、ニスカネンは要注意の選手を二人に教えてうえで、ゼッケンを覚えておくように
アドバイスした。ソ連、モロッコのラジ、ニュージランドのマギーのほか、二、三名の選手が
いた。
だが、ゼッケン26番で出場するはずのラジは本番では185番で走っている。(二日前の
10,000mのゼッケン)
アッピヤ旧街道にさしかかった30キロ地点、アベベはじりじりと前に出始めた。
ゴールから2キロ地点に建つオペリスクが見えたらラストスパート、コンスタンティヌスの
凱旋門にゴールする。記録は2時間15分16秒世界最高記録。
アベベ・ワギラは7位だった。
鬼塚喜八郎は、驚いていた、裸足のランナーが世界記録を打ち破るのを目の当たりにして。
★長距離王国エチオピアの誕生
▼この書籍には、写真は数点しか掲載されていませんので、YouTubeやWebで写真を追加。
01:東京オリンピックのマラソンゴールシーン
02:スウェーデンのコーチ ニスカネン
03:練習中のアベベ
04:ローマオリンピック入場式 エチオピア代表団 金髪の人は ニスカネン
05:ローマ大会 マラソンスタート前
06:スタート前に談笑するポポフ選手
07:裸足のアベベ
08:ラジとのデットヒート
09:アベベがリード
10:アベベ ラストスパート
11:ゴール
12:ゴール後の整理体操
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