■先週、図書館(君津市立中央図書館)の新刊返却コーナーで見つけた
“アベベ・ビキラ”の書籍を紹介します。続き
★2019.01.17:動画追加
■「アベベ・ビキラ」 を読んで
・書籍名: アベベ・ビキラ 「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯
・著者 : ティム・ジューダ (ジャーナリスト・作家・英国BBC)
・訳者 : 秋山 勝
・発行所: 草思社
・発行 : 2011年8月31日
・定価 : 本体1,800円+税
・ページ: 237ページ
●王者たちの帰還
オリンピック代表団を乗せた飛行機はエチオピア到着、その日空港には出迎えのため
に数千もの人たちが早朝から押しかけていた。
宮殿の緑の間でアベベは皇帝に謁見した。ハイレ・セラシエがエチオピアの星勲章をアベベ
の胸に飾る。
●栄光の日々
1961年6月15日、アベベ、ワミ、ニスカネン一行は、毎日マラソン出場のため大阪に
向かった。そこで、鬼塚喜八郎(後のアシックス創業者)。
鬼塚「すばらしい足をしている。猫のように軽やか
な足です。しかし、シューズを履けば記録はもっと伸ばせるでしょう。」
一枚に写真が残っている「手製のオニツカタイガーをアベベ足に合わせている」
優勝したアベベのタイムは2時間29分27秒。
アベベが盲腸となった東京オリンピンクに出発12日前、レース当日の35日前に当たって
いた。
●東京の奇跡
1964年9月29日エチオピアの代表団を乗せた飛行機が東京に到着した。
マモ・ウォルデ選手は1万メートルでは試合中に押され転倒、片方のふくらはぎに裂傷を
負っていた。完走はしたが、その後、歩くのがやっとで、マラソンは棄権かもしれない。
(4位に入賞、後年になってクラーク選手(3位)にスパイクされなければ優勝か、悪くても
2位になっていたと語っていた)
優勝候補は、1964年イギリスのベイジル・ヒートリーが世界記録2時間13分56秒、19
63年ボストンマラソンでアベベを破っているイギリスのブライアン・キルビー。
1964年10月21日スタートの号砲直後、アベベは最後尾を走っている。
10キロ地点ではクラークとホーガン、そしてアベベが並ぶ、15キロ地点で独走。
2メートル先の路上の一点に視線を凝らし、アベベは“見事なほど”呼吸を乱していない。
スタジアムに入ると歓声が沸き起こる。心もち両腕をあげてアベベはゴールに飛び込んで
いた。2度目の金メダルは2時間12分11秒の世界新記録、オリンピック史上はじめての
マラソンの二連覇だった。
今度は円谷がヒートリーを引き連れてスタジアムに入ってきていた。ゴールを目の前にした
そのとき、ヒートリーはスパートをかけ、円谷を抜いて銀メダルをもぎ取る。
●メキシコの失速
名声にすっかり毒されていた。ニスカネンもアベベとマモの二人に酒を控えるように注意
を与えていた。
アベベにも心配がなかったわけでない。実際、不安にかられてしかたがない問題があった。
マモ・ウォルデのことが頭に浮かぶと、アベベはとたんに落ち着きを失っていた。
自分のすぐうしろにマモが迫り、手にした王冠はいつ剥奪されてもおかしくはない。
アベベ自身、このころ1年に及ぶ脚や膝の故障を抱えていた。
東京オリンピックが終わると、アベベはニスカネンの言うことなど聞かなくなっていたはず
だ。それほどアベベは自身満々だった。ニスカネンもマモの指導をしているほうが楽しそう
で、マモなら素直に聞いてくれる。
1968年10月、マモの調子は上々だった。1万メートル決勝で銀メダルを取った。
(ケニヤのナフタリ・テムが優勝)
10月20日マラソンスタート、ニスカネンは15キロ地点でアベベのスピードが落ち始め、
脚が痛むのだとわかったので棄権するように忠告した。だが、アベベはレースから下りた
のはさらに何キロが走ってからのことだ。
マモ(36歳)は25キロ地点でケニヤのテムと先頭集団にいて、そして先頭に踊り出ると
ほかの選手を徐々に引き離し、金メダルを確実なものにしていった。
●それぞれの墓碑銘
1969年3月23日アベベを乗せたフォルクスワーゲンは転倒してアベベはそのまま車に
閉じ込められていた。事故から数日して、負傷は第7頸椎の脱臼と公表した。
アベベはもう二度と歩くことはできなかった。
イギリスに転院されたが、打てる手は打ち尽くされ、これ以上の治療は望みようなかった。
帰国した空港で暖かい歓迎が待っていた。
1970年7月、アベベ車いす競技大会に参加アーチェリーと卓球に出場した。
1972年8月24日ミュンヘンオリンピックに来賓として招かれた。
マラソンに出場したマモ(40歳)は銅メダル(自己ベスト)を獲得した。
オリンピックから1年後の1973年10月25日にアベベは亡くなった。
輝かしい栄光に満ちた前半生と、悲劇的な躓きの果てに車椅子に身を預けるほかない
後半生。あまりに劇的なその生涯。
マモも悲劇の運命が待ち構えている。
★長距離王国エチオピアの誕生
写真
01:東京オリンピック フルスタート前(67名のランナー)
02:黙々と走るアベベ
03:プーマーのシューズを履いている
04:肩越しスタジアムの聖火が見える
05:栄光のゴール
06:円谷2位、イギリスのヒートリー4位
07:逃げる円谷、ヒートリー3位に追い上げる
08:競技場に入るヒートリーが直ぐ後に続く
09:トラックで追いつき、追い抜かれる
10:円谷3位でゴール
11:マラソン表彰式
12:アベベ、マモと練習・レース出場
13:メキシコオリンピック マモ 1万メートル 銀メダル
14:マラソン マモ 金メダル
15:マラソン表彰式
16,17:車椅子のアベベ
18:ミュンヘンオリンピック・マラソンスタート前
左側フランク・ショーター
19:スタート前、車椅子のアベベ
20:マモ・3位ゴール
左側1位のフランク・ショーター
★動画追加
↓
★東京 オリンピック 1964 マラソン
★
“アベベ・ビキラ”の書籍を紹介します。続き
★2019.01.17:動画追加
■「アベベ・ビキラ」 を読んで
・書籍名: アベベ・ビキラ 「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯
・著者 : ティム・ジューダ (ジャーナリスト・作家・英国BBC)
・訳者 : 秋山 勝
・発行所: 草思社
・発行 : 2011年8月31日
・定価 : 本体1,800円+税
・ページ: 237ページ
●王者たちの帰還
オリンピック代表団を乗せた飛行機はエチオピア到着、その日空港には出迎えのため
に数千もの人たちが早朝から押しかけていた。
宮殿の緑の間でアベベは皇帝に謁見した。ハイレ・セラシエがエチオピアの星勲章をアベベ
の胸に飾る。
●栄光の日々
1961年6月15日、アベベ、ワミ、ニスカネン一行は、毎日マラソン出場のため大阪に
向かった。そこで、鬼塚喜八郎(後のアシックス創業者)。
鬼塚「すばらしい足をしている。猫のように軽やか
な足です。しかし、シューズを履けば記録はもっと伸ばせるでしょう。」
一枚に写真が残っている「手製のオニツカタイガーをアベベ足に合わせている」
優勝したアベベのタイムは2時間29分27秒。
アベベが盲腸となった東京オリンピンクに出発12日前、レース当日の35日前に当たって
いた。
●東京の奇跡
1964年9月29日エチオピアの代表団を乗せた飛行機が東京に到着した。
マモ・ウォルデ選手は1万メートルでは試合中に押され転倒、片方のふくらはぎに裂傷を
負っていた。完走はしたが、その後、歩くのがやっとで、マラソンは棄権かもしれない。
(4位に入賞、後年になってクラーク選手(3位)にスパイクされなければ優勝か、悪くても
2位になっていたと語っていた)
優勝候補は、1964年イギリスのベイジル・ヒートリーが世界記録2時間13分56秒、19
63年ボストンマラソンでアベベを破っているイギリスのブライアン・キルビー。
1964年10月21日スタートの号砲直後、アベベは最後尾を走っている。
10キロ地点ではクラークとホーガン、そしてアベベが並ぶ、15キロ地点で独走。
2メートル先の路上の一点に視線を凝らし、アベベは“見事なほど”呼吸を乱していない。
スタジアムに入ると歓声が沸き起こる。心もち両腕をあげてアベベはゴールに飛び込んで
いた。2度目の金メダルは2時間12分11秒の世界新記録、オリンピック史上はじめての
マラソンの二連覇だった。
今度は円谷がヒートリーを引き連れてスタジアムに入ってきていた。ゴールを目の前にした
そのとき、ヒートリーはスパートをかけ、円谷を抜いて銀メダルをもぎ取る。
●メキシコの失速
名声にすっかり毒されていた。ニスカネンもアベベとマモの二人に酒を控えるように注意
を与えていた。
アベベにも心配がなかったわけでない。実際、不安にかられてしかたがない問題があった。
マモ・ウォルデのことが頭に浮かぶと、アベベはとたんに落ち着きを失っていた。
自分のすぐうしろにマモが迫り、手にした王冠はいつ剥奪されてもおかしくはない。
アベベ自身、このころ1年に及ぶ脚や膝の故障を抱えていた。
東京オリンピックが終わると、アベベはニスカネンの言うことなど聞かなくなっていたはず
だ。それほどアベベは自身満々だった。ニスカネンもマモの指導をしているほうが楽しそう
で、マモなら素直に聞いてくれる。
1968年10月、マモの調子は上々だった。1万メートル決勝で銀メダルを取った。
(ケニヤのナフタリ・テムが優勝)
10月20日マラソンスタート、ニスカネンは15キロ地点でアベベのスピードが落ち始め、
脚が痛むのだとわかったので棄権するように忠告した。だが、アベベはレースから下りた
のはさらに何キロが走ってからのことだ。
マモ(36歳)は25キロ地点でケニヤのテムと先頭集団にいて、そして先頭に踊り出ると
ほかの選手を徐々に引き離し、金メダルを確実なものにしていった。
●それぞれの墓碑銘
1969年3月23日アベベを乗せたフォルクスワーゲンは転倒してアベベはそのまま車に
閉じ込められていた。事故から数日して、負傷は第7頸椎の脱臼と公表した。
アベベはもう二度と歩くことはできなかった。
イギリスに転院されたが、打てる手は打ち尽くされ、これ以上の治療は望みようなかった。
帰国した空港で暖かい歓迎が待っていた。
1970年7月、アベベ車いす競技大会に参加アーチェリーと卓球に出場した。
1972年8月24日ミュンヘンオリンピックに来賓として招かれた。
マラソンに出場したマモ(40歳)は銅メダル(自己ベスト)を獲得した。
オリンピックから1年後の1973年10月25日にアベベは亡くなった。
輝かしい栄光に満ちた前半生と、悲劇的な躓きの果てに車椅子に身を預けるほかない
後半生。あまりに劇的なその生涯。
マモも悲劇の運命が待ち構えている。
★長距離王国エチオピアの誕生
写真
01:東京オリンピック フルスタート前(67名のランナー)
02:黙々と走るアベベ
03:プーマーのシューズを履いている
04:肩越しスタジアムの聖火が見える
05:栄光のゴール
06:円谷2位、イギリスのヒートリー4位
07:逃げる円谷、ヒートリー3位に追い上げる
08:競技場に入るヒートリーが直ぐ後に続く
09:トラックで追いつき、追い抜かれる
10:円谷3位でゴール
11:マラソン表彰式
12:アベベ、マモと練習・レース出場
13:メキシコオリンピック マモ 1万メートル 銀メダル
14:マラソン マモ 金メダル
15:マラソン表彰式
16,17:車椅子のアベベ
18:ミュンヘンオリンピック・マラソンスタート前
左側フランク・ショーター
19:スタート前、車椅子のアベベ
20:マモ・3位ゴール
左側1位のフランク・ショーター
★動画追加
↓
★東京 オリンピック 1964 マラソン
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