骨董品的な価値だろう。アップル社の発展の礎は何といっても、アップルⅡの成功だった。
設計は、スティーブン・ウォズニアックが担当した。(ジョブズではありません。念のため。)
ガレージでの製造から始まった、アップル社を企業にまで押し上げてくれたのが、このアップルⅡだった。
個人で使用できるコンピュータとして、一躍人気を博した。これもたびたび述べるが、CPUとしてモステクノロジー社の6502を採用したところにウォズニアックのセンスの良さを感じます。
売り上げ、社員数ともに急速に伸びたのも、このアップルⅡの時期だった。
ついで、ゼロックスのALTOをみて、触発されたのが、スティーブン・ジョブズだった。カラービットマップディスプレー、ウィンドウ環境、マウスを備えた、オリジナルマシンを作ろう。そして多大な経費と人材を投入して出来たのが、Risaだった。魅力的なマシンに仕上がったが、いかんせん、価格が高すぎた。市場の反応もいまいちだった。「売れない製品は、企業ベースに乗らない。」のが市場原則。一旦は苦渋を飲んだが、商品コンセプトを練り直し、再挑戦で出来た商品が、かのマッキントッシュであった。(当初、Risaの失敗で、マッキントッシュの開発グループからジョブズ自身、シャットアウトされていた。しかし途中から強引に開発チームに参加し、お陰で、開発責任者がアップルを退社してしまう事態を招いた。)しかし、マッキントッシュ(愛称マック)を発売するや、アップル社の業績は急速に回復し、個人レベルばかりか、企業ベースでも、その使いやすさから、売り上げを伸ばした。好事魔多しという。経営を任せるために、ペプシコから引き抜いた、当時の社長である、ジョン・スカリーによって、スティーブン・ジョブズは、アップル社を解任されることとなった。
私が、アップル社を訪れたのは、ごたごたが収まり、アップル社が極東戦略を練り始めた時期だったと記憶する。担当マネージャー(中国系アメリカ人女性)から、「いよいよ日本法人を立ち上げる時期だが、責任者にはどんな人物がよいか、率直なご意見を頂きたい。」とし質問された。それに対して「広く産業界に顔が利く人物が必要だ。何といっても、豊富な人材を持つ、老舗企業の従業員の中から選ばれるが良かろう。日本のリーディングカンパニーである東芝からの採用を検討されてはどうか。」と答える私。その話が直接影響したかは定かではないが、初代アップル・ジャパンの社長は当時、東芝ヨーロッパ責任者のT氏であった。これも蛇足だが、サンマイクロシステムズ社が日本法人を設立した時の初代社長も同じく東芝出身のA氏であった。
なお、マックで人気のあったソフトは、何とマイクロソフト社の、ワードとエクセルだった。(一般にはPC用として有名だが、マックが先行していた。)また、出力器の分野ではキャノンの協力が無視できなく、世界最初のレーザープリンターである「レーザーライター」はマッキントッシュ用に開発されたもので、DTP(デスクトップパブリッシング)を実現したのです。
今から2,30年前のお話でした。