真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

やさしいライオン 4

2006年12月14日 13時43分28秒 | やさしいライオン
制作は一人でとても大変でしたが、作画の目処がつき、仕上の手配も、背景も仕上がりの終わりが近づき、いよいよ、撮影だしとなった。本来なら、演出のやなせ先生に、演出助手が付くのであるが、全体を把握している君がやってくれということで、2スタの1階の部屋が撮影出しの部屋となり、前もってセルと背景をあわせ、セルの位置を背景にある程度あわせておく作業をしておき、やなせ先生に最終的なチェックを受け、1スタの撮影に運んで、撮影をしてもらった。
 驚いたことに、やなせ先生は、アニメのことについてかなりの知識がおありであった。「千夜一夜物語」だけの経験ではなく、すでにまえに、アニメを経験していることを、あとの会話で、知ることができた。
その一つに「やさしいライオン」のタイトルの下に、やなせ たかしという名前を消し込みで入れます、といわれた。撮影ではないので、まだその技法を知らなかったが。セルに、なまえの文字を書いておき、秒数を決めて、フィルムを逆回しで撮影していく、という技法であった。撮影には、やなせ先生が立会い、セルの文字を、おしりのほうから削っていくのであった。少し削っては撮影し、また削っては、の繰り返し。さいごの「や」の文字に来て、変なことに気が付いた。「や」の書き順が違うのである、「先生それでは、つのあとの左のたてぼう(縦棒)が先になってしまい、書き順が違ってしまいますが」と口出しをしてしまった。にっこりと振り返って、やなせ先生は「いいのです、わたしは、わざと「や」の字を、このように書いております。名前をひらがなで書いているので、特徴をつけるためです。ずーと昔から、意識して、そうしているんですよ」と、おっしゃいました。
 また作画の人たちも自分の担当したカットが心配でした。月に雲がかかり、その雲が左右に開いて月にアップするシーンでは、赤堀さん金山さんらが、やなせ先生に付きっ切りで、奥行きを出すため、多段マルチで撮影することになり、その準備で、背景さんに指示し、書き直してもらったり、マルチの場合、撮影すると下のガラスに上のセルが写ってしまうので、裏にブラックで彩色しておいたり、撮影では、何段ものマルチを組んで、絵のサイズが、おかしくないか何度も確認したり、開いていくタイミングを試し、頭の中で、その絵を想像して、タイミングを直したりなど、1日がかりの作業となってしまう。やっと深夜に撮影が終わり、どうなったか気になるところなので、すぐに即日ラッシュとスタンプを押して、東洋現像所へと、持って行く。銀行のカウンターみたいな東洋現像所には宿直の係りに人が、今は広い部屋に一人しか居らず、「虫プロです、即日ラッシュでお願いします」と渡して帰ってくる。スタジオにはすでに誰も居らず、一人制作質で、出金伝票の整理やスケジュール表の確認、などなど、制作の仕事をして、今日の撮影分のセルと背景を合わせ準備、夜が明けた7時過ぎ久しぶりに椅子を並べねる。9時出勤してきた人の気配で目を覚まし。嗽手水で顔を荒い1スタまでタイムカードを押しに行って、9時半出勤してきた、スタッフに挨拶、打ち合わせ。これももうすぐ終わり。東洋現像所に、何時頃現像が仕上がるかの確認電話を入れ、その時間に合わせて取りに行く(普通3時ごろには上がっていた)編集さんに、ロールに巻き取ってもらい、スタッフに連絡して、1スタ3階で試写をする。「思ったより、奥行きが出ないね」「全体的に暗い」など意見が出て、それを細かくメモしておき、やなせ先生の指示とスタッフの打ち合わせで修正作業に入る。これをリテーク作業といった。この月のアップする作業は、やなせ先生もスタッフも、満足するカットに出来あがらなかったが、スケジュールの関係で、それ以上修正できなかった。なおせなかったといえば、上口さんが苦労したブルブルが走るカット、走る足を音楽に合わせるため、タイムシートにタイミングをしるしして、お手伝いをした。さいごにフェードアウトするが、音楽が、ゆっくりとなる。その音楽に足を合わせるよう指示したので、走っている足が、フェードアウトの時にゆっくりとなってしまった。見ていて気になるので、上口さんと、撮影しなおせば直るんだから、なおそうね、といっていたが、これもスケジュールから、結局なおせなかった。
そのご、撮影が終了して音が先に出来ていたので、完成試写がすぐに?できたのであった。


12月なんとか、「やさしいライオン」は完成した。そして芸術祭に向け動き出した。
個人的なことを書くと、昭和45年になった、遅い春が来ていた、折角の正月休みが取れたのに、淋しい気分になっていた。こんな気分は、初めての経験であった。2日どうにもならない、気持ちで、電話をいている、3日、ドライブをした。5日待ち遠しかった会社での仕事が始まる。仕事が終わって、かばさか峠へ、ドライブしている。6日仕事が終わると早速大野峠方面へ 佐々門君、なべこさん、福山さん、とドライブしている。翌7日は佐々門君の誕生日、日が変わる、ラジオの時報を合図に、「ハッピーバスデー・トゥーユー」を歌う、二瀬ダムへと向かう、そして定時には会社へ戻って仕事をしている。
またこの頃、虫プロのエレキーバンドは、ベースの白畠さんが会社を辞めていたので、わたしがベースを担当していた。12日、リードボーカルの木口君が、新しくボーカル用のアンプを購入したので、ボーカル専門で行きたいと言い出した。そこで、サイドギターとして使用していたギターとアンプと古いマイクを、売りたい、というので、それらを買い取った。どうも仕事が終わると毎日遊んでいたようである。14日仕事が終わるとMkoさんとドライブに行っている、茂原から御宿、勝浦、館山 白浜 のこぎり山、そして城ヶ島、翌日、朝7時彼女を送っている。など、毎日であった。
1月26日プリンス高輪ホテルにて「やなせたかし先生の講演会」が行われた。手塚先生から、行くように命じられたが、どんなことをしたのか、あまり覚えていない。観客が、女子大生がたくさん来ていたのと、「やさしいライオン」の16mmフィルムを、わたしが映写機で上映した、ことぐらい、さいごに、やなせ先生から、車代ですと、封筒を頂いた。「これは、仕事として着ていますから」と辞退したが、是非にと言われ、頂いて、その日は自宅へ直帰して、風の中を見た。2万円が入っていた。その頃のわたしの給料は、70時間打ち切りの残業をして、一回の(月2回の給料支払いであった)給料は、まだ2万を超えていなかった。翌日朝一番で、社長室へ行き、手塚先生に、昨日の報告をして、「車代として、これを頂きましたが、仕事としていきましたので、これは、会社にお渡しいたします」そると先生は、ニコニコして「あなたが頂いたものです頂いておきなさい」と言ってくれた。すぐに、銀行へ行って、貯金したのは言うまでもない。
女子大生がたくさん来ている、そんな場所へいったせいなのか、おしゃれに気を使うようになっていた。ワイシャツもワイシャツ専門店で、襟にピンが通っているタイプを、何枚か買っている。今まで、学生服のズボンをはいていたのもやめて、駅前の懇意のお店で、ツケで買っていた。ブレザーや、マントまで、気に入ればまとめて買った。これは、ここに値引き交渉してまとめて、再度値引き交渉する。そのうえ付けにしてもらうのだから、お店もたまったものではない。2月1日 池袋の西武百貨店の中にあった、眼鏡屋さんへ、コンタクトレンズを作ってもらい訓練で3時間入れている。コンタクトにすれば、カッコいい、サングラスがかけられるから、と思ったことを恥ずかしくも覚えている。2日は5時間、3日は7時間、6日のスキー大会には、カコいいサングラスをかけていく予定であった。
しかし3日坊主でそれも挫折している。現在に至るもコンタクトレンズを使用したという、記憶がないからだ。今まで、仕事だけに夢中となっていたが、「やさしいライオン」あたりから、異性に目覚めたというか、女性ときれいな景色を見に行き、お話をするのが、楽しくなり、不特定多数の方と、今で言うデートを重ねている。これがまた、とっかえ、ひっかえ、夜も寝ないで、次から次えと、よくもまぁと思うほど、ご活発に、していらっしゃるとは、このころの日記を読み直すと、赤面の思いである。でも遊んでばかりいたわけではなく、仕事も精力的にこなして行った。
2月17日「やさしいライオン」で毎日映画コンクール第8回大藤信郎賞受賞を頂いた。苦労の甲斐が報われた思いである。「展覧会の絵」では、お手伝いした、というだけの思い出、タイトルには、名前は載ってはいないが、今回は、制作を一人でやった、河童さんにはまったく手を煩わせず、泣き言一つ言わないで作り上げた。そのうえ、演出助手までやって全面的に、作り上げた、という充実感あふれる作品、それが大藤信郎賞を受賞できたのであった。どれほどうれしかったかは、言い表せない。でも次の18日には山本暎一さんと日本テレビへ行って20世紀の打ち合わせに行っている、
2月23日には「やなせ たかしを励ます会」で舞台監督を担当している。3月21日から、東宝系で封切り上映されることが決まり、「やさしいライオン」のための動きが激しくなる3月1日やさしいライオンのラッシュを東洋現像所へ届け翌 2日「やさしいライオン」の編集を東洋現像所でしている。 3日も「やさしいライオン」で東洋現像所へ詰めて居り 4日 「やさしいライオン」の初号取りラッシュ試写を東洋現像所ないで行っている。
ネガフィルムから、ネガを起こして、上映用のプリントを、複数焼いてもらい21日の全国封切りに向けての準備が整った。
この頃、虫プロのトレッシングマシンの数の足りなさを、痛感させられる出来事があった。ほかにお金を使う趣味もなかったので、給料はまず銀行へ入れて、必要な分だけ降ろしていた。漠然と出はあったが、将来喫茶店みたいなのを開くのがみんなの会話の中の夢であった、しかし目標の頭金まで、貯めると頭金の金額が上がってしまうという、いたちごっこで、少しの貯金が出来ていた。
そこでいっそうのこと個人で、トレッシングマシンを買ってしまおうと考えた。その注文した、トレスマシンが4月9日 城西デュプロから納入された。(なに考えていたんだろう)
4月18日には「東京の山賊」がNHKで放送され 5月4日「やさしいライオン」で第12回児童福祉文化奨励賞を受賞した。
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