吉村 豊さんのことはそれでも対岸の火事のことのように思われた、まだ21歳だったと言うことで衝撃は受けたが虫プロでは、前にも書いたように、おめでたい話ばかりであった。
仲間がどんどん、やめて淋しかったが、それは、独立するためであるように見えたし、虫プロの経営が悪化して、昇給もボーナスも、期待できなかったが、虫プロには、「手塚治虫が控えている」と言うような、安心感みたいなものが漂っていた。
内海君の相手の女性、笠井くんをあまり知らないと思っていたら昨年6月の募集で入社してきたらしかった。
一目ぼれした内海君が猛烈にアタックしたのだろう。
そんな彼女が「K子さんと今晩アパートに来て」と言ってきた。アパートと言うからには、内海君のアパートだ、彼のアパートへは、何度か行っていた。
男やもめではないが、「一人男にゃウジが湧く」ほどではないが、あまりきれいではなかったことを思いうかでた。
少し残業となったが10時ごろK子とアパートに行った。
ビックリしたのは、部屋の様子が前見たときとまったく違っていた。ピンクのカーテン食器棚、など等、それにきちんと片付いたダイニング、畳には絨毯が敷かれ、虫プロが少し前に放出したのを買い取った、きれいにした動画机が置いてあった。
折りたたみのちゃぶ台にテーブルクロスが敷かれ、その上に彼女が作ったのだろう、手料理が並べてあった。
ジュースを注いでくれたが、なかなか要領を得ない、お茶を飲むばかりで話の内容がつながらない、やっとの思い出「俺たち結婚したいんだ」と話をした。そして「世話をやいてほしい」と2人が頭を下げて頼んできた。
手塚先生が深夜、若いスタッフを呼んで、会話をするのが好きだったのは、お母さんの血筋のためのようで、手塚先生のお母さんも、3時休みの休憩に遊びに来ないかと、社内電話をくれた。お茶にお菓子、お母さんのピアノ伴奏で歌をうたったりするのであった。
仲人を、手塚先生にお願いしようとしたが、内海君が、恐れ多いと、辞退した、そのお母さんの集まりで、「今度内海君が覚悟を決め、結婚する決心をした」と言う報告をした。隣が、お父さん北風さんの、部屋ですぐにお父さんを呼んで、「私たちで、仲人させてもらわない」と言った。お父さんはめがねの奥の目を喜びにかえ、2つ返事で仲人をしてくれることに決まった。
「やさしいライオン」の修正作業と次の「日本誕生」をかけもちで忙しい日を送っていた。内海君は「あしたのジョー」班へ移り、スタジオが豊島園スタジオになったので、簡単に合うことが出来なくなった、仕上班は、第二スタジオにあり、「やさしいライオン」からほかには金山さんが移っていった。
やさしいライオンのとき使用していた第二スタジオ1階の制作室が、そのまま「日本誕生」の製作室として使用していた。
そんなある日「今度虫プロのプロデューサーとなった永井昌嗣さん」と言う方を役員から紹介された。東京ムービーで制作していた「ムーミン」を、3クール目から虫プロで制作することになり、そのプロデューサーを担当する永井昌嗣さんだと言う、制作事務として、可愛い女性が2人ついていた。
(こちらは制作事務もつけてもらえなかったのでうらやましかった)
「永井昌嗣さん」この人が虫プロに居たということを知っているのはごくわずかの人だと思う、岩崎正美さんがアシスタントプロデューサーとしてムーミンに配属され、その後プロデューサーに昇格している。
そのご永井さんはタツノコのプロデューサーとして知られている。
1階の制作室手前4分の1程度をムーミンの制作室に使わせて欲しいと言うことで、スタッフは、外注でやるらしく、ムーミー班の部屋は、そこだけとなった。
その後ムーミー班が忙しくなると、部屋を半分取られ、仕舞いには、逆転して、すみに追いやられることになるが、女性がいると言うことで、ムーミー班の制作室に居るほうが多くなったり、サイホンの珈琲をご馳走したり、ムーミンのぬいぐるみが、何体か配られて、スタッフで貰っていたのを見て「ほしい」と指をくわえて見ていた、「ムーミン」のことはあらためて語ろう。
2月6日から8日スキー大会があり弟を誘って参加した。池袋から貸し切りバスで志賀高原の丸池であった。あらかじめ狭山スキー場の初心者コースに通って練習しておいたが、自信過剰か、なれたころリフトで登って上級者コースに挑戦、こぶに捕まって、数十メートル飛ばさせ気がついたら目の前に自分の足首があった、捻挫という言葉さえ知らなかった。悪気は無いのだろうが、いい加減なことを言うものがいて、「すぐ温泉につかって暖めてもんだほうが良い」と言ってくれた。真に受けてその通りしたが、夜腫上って痛んだ、次の日からは、スキーは出来ずホテル住まい、みんなが楽しんで滑るのを横目で見ていた、と言うのは表向きで、実際には横浜から来たと言う、スキーの出来ない女子高校生と、ロビーにおいてあったピアノで演奏し、歌をうたったりして、結構楽しんでいた。
その罰が当たったのか、その後しばらくビッコを引いていたし、足首をかばうため膝を痛めて、長いこと苦しむ原因だったとは、まだ気がつかなかった。
2月13日には虫プロのボーリング大会が有った。阿佐ヶ谷駅から青梅街道へ突き当たったところに、阿佐ヶ谷ボーリング場が出来ていて、会員になると時間借りができた。その成果で6位入賞、賞品をもらえた。2月17日良いニュースが飛び込んできた。
「やさしいライオン」が毎日映画コンクールで第8回大藤信朗賞を受賞したと言うものであった。
3月31日何か事件が起きていると呼ばれた。2階のテレビのそばには車座になってスタッフが見ている。 午前7時40分日航機351便 よど号がハイジャックされた事件で、延々と飛行機の操縦席あたりが映し出されている。この日は仕事にならなかった。
4月1日 (水) 「あしたのジョー」が放送開始された。不謹慎であるが、苦しいスケジュールであるので、前日の事件が長引いて、放送が中止になることを、皆が願わなかった。と言えば嘘になる。何か事件が起きその実況中継で、番組が放送されなければ、1週延びて放送される。そうすればスケジュールに少し余裕が出来るのであった。
4月5日には虫プロによる制作の「ムーミン」の放送が始まった。
仲間がどんどん、やめて淋しかったが、それは、独立するためであるように見えたし、虫プロの経営が悪化して、昇給もボーナスも、期待できなかったが、虫プロには、「手塚治虫が控えている」と言うような、安心感みたいなものが漂っていた。
内海君の相手の女性、笠井くんをあまり知らないと思っていたら昨年6月の募集で入社してきたらしかった。
一目ぼれした内海君が猛烈にアタックしたのだろう。
そんな彼女が「K子さんと今晩アパートに来て」と言ってきた。アパートと言うからには、内海君のアパートだ、彼のアパートへは、何度か行っていた。
男やもめではないが、「一人男にゃウジが湧く」ほどではないが、あまりきれいではなかったことを思いうかでた。
少し残業となったが10時ごろK子とアパートに行った。
ビックリしたのは、部屋の様子が前見たときとまったく違っていた。ピンクのカーテン食器棚、など等、それにきちんと片付いたダイニング、畳には絨毯が敷かれ、虫プロが少し前に放出したのを買い取った、きれいにした動画机が置いてあった。
折りたたみのちゃぶ台にテーブルクロスが敷かれ、その上に彼女が作ったのだろう、手料理が並べてあった。
ジュースを注いでくれたが、なかなか要領を得ない、お茶を飲むばかりで話の内容がつながらない、やっとの思い出「俺たち結婚したいんだ」と話をした。そして「世話をやいてほしい」と2人が頭を下げて頼んできた。
手塚先生が深夜、若いスタッフを呼んで、会話をするのが好きだったのは、お母さんの血筋のためのようで、手塚先生のお母さんも、3時休みの休憩に遊びに来ないかと、社内電話をくれた。お茶にお菓子、お母さんのピアノ伴奏で歌をうたったりするのであった。
仲人を、手塚先生にお願いしようとしたが、内海君が、恐れ多いと、辞退した、そのお母さんの集まりで、「今度内海君が覚悟を決め、結婚する決心をした」と言う報告をした。隣が、お父さん北風さんの、部屋ですぐにお父さんを呼んで、「私たちで、仲人させてもらわない」と言った。お父さんはめがねの奥の目を喜びにかえ、2つ返事で仲人をしてくれることに決まった。
「やさしいライオン」の修正作業と次の「日本誕生」をかけもちで忙しい日を送っていた。内海君は「あしたのジョー」班へ移り、スタジオが豊島園スタジオになったので、簡単に合うことが出来なくなった、仕上班は、第二スタジオにあり、「やさしいライオン」からほかには金山さんが移っていった。
やさしいライオンのとき使用していた第二スタジオ1階の制作室が、そのまま「日本誕生」の製作室として使用していた。
そんなある日「今度虫プロのプロデューサーとなった永井昌嗣さん」と言う方を役員から紹介された。東京ムービーで制作していた「ムーミン」を、3クール目から虫プロで制作することになり、そのプロデューサーを担当する永井昌嗣さんだと言う、制作事務として、可愛い女性が2人ついていた。
(こちらは制作事務もつけてもらえなかったのでうらやましかった)
「永井昌嗣さん」この人が虫プロに居たということを知っているのはごくわずかの人だと思う、岩崎正美さんがアシスタントプロデューサーとしてムーミンに配属され、その後プロデューサーに昇格している。
そのご永井さんはタツノコのプロデューサーとして知られている。
1階の制作室手前4分の1程度をムーミンの制作室に使わせて欲しいと言うことで、スタッフは、外注でやるらしく、ムーミー班の部屋は、そこだけとなった。
その後ムーミー班が忙しくなると、部屋を半分取られ、仕舞いには、逆転して、すみに追いやられることになるが、女性がいると言うことで、ムーミー班の制作室に居るほうが多くなったり、サイホンの珈琲をご馳走したり、ムーミンのぬいぐるみが、何体か配られて、スタッフで貰っていたのを見て「ほしい」と指をくわえて見ていた、「ムーミン」のことはあらためて語ろう。
2月6日から8日スキー大会があり弟を誘って参加した。池袋から貸し切りバスで志賀高原の丸池であった。あらかじめ狭山スキー場の初心者コースに通って練習しておいたが、自信過剰か、なれたころリフトで登って上級者コースに挑戦、こぶに捕まって、数十メートル飛ばさせ気がついたら目の前に自分の足首があった、捻挫という言葉さえ知らなかった。悪気は無いのだろうが、いい加減なことを言うものがいて、「すぐ温泉につかって暖めてもんだほうが良い」と言ってくれた。真に受けてその通りしたが、夜腫上って痛んだ、次の日からは、スキーは出来ずホテル住まい、みんなが楽しんで滑るのを横目で見ていた、と言うのは表向きで、実際には横浜から来たと言う、スキーの出来ない女子高校生と、ロビーにおいてあったピアノで演奏し、歌をうたったりして、結構楽しんでいた。
その罰が当たったのか、その後しばらくビッコを引いていたし、足首をかばうため膝を痛めて、長いこと苦しむ原因だったとは、まだ気がつかなかった。
2月13日には虫プロのボーリング大会が有った。阿佐ヶ谷駅から青梅街道へ突き当たったところに、阿佐ヶ谷ボーリング場が出来ていて、会員になると時間借りができた。その成果で6位入賞、賞品をもらえた。2月17日良いニュースが飛び込んできた。
「やさしいライオン」が毎日映画コンクールで第8回大藤信朗賞を受賞したと言うものであった。
3月31日何か事件が起きていると呼ばれた。2階のテレビのそばには車座になってスタッフが見ている。 午前7時40分日航機351便 よど号がハイジャックされた事件で、延々と飛行機の操縦席あたりが映し出されている。この日は仕事にならなかった。
4月1日 (水) 「あしたのジョー」が放送開始された。不謹慎であるが、苦しいスケジュールであるので、前日の事件が長引いて、放送が中止になることを、皆が願わなかった。と言えば嘘になる。何か事件が起きその実況中継で、番組が放送されなければ、1週延びて放送される。そうすればスケジュールに少し余裕が出来るのであった。
4月5日には虫プロによる制作の「ムーミン」の放送が始まった。