真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

虫プロ外伝8

2006年12月29日 11時42分12秒 | 虫プロ
「やさしいライオン」の完成予定日が迫ってくると、もう遊んでいる余裕は無くなった。
内海君と「やさしいライオン」班の動画で仕事をしていた、おなじ動画の山守君とも親友となった。山守君は、近くのお菓子屋さんに間借りしていたが、階段下のその部屋の狭さに驚いた。本人は、まかないつきだからと、寝られればいい、と意に反していなかった。

遊びにいけないものだから、ストレス解消にいろいろなことをした。 学生時代から、詩、というより歌の歌詞のようなものをノートに書きためていた。それのよさそうな詩を選んで、動画用紙に書き写し短冊様の「Junの詩集」を作った。やなせたかし先生の影響を受け、下手な挿絵まで描いていた。その詩集もどきを内海君と、山守君に見せ、「いいだろう」と自慢した。

 あくる日2人がニコニコして近づいてくる「これ」と差し出したのが、きれいな挿絵まで入っている詩集。読んでみると、とても良い詩だ。挿絵の絵も良い、心の中で、負けたとさけんだ、そして2人だけで作ったことに嫉妬した。こんな素敵な詩集、仲間に入れてもらって一緒に作りたかったと、淋しい気持ちになった。

その中の内海君が作った、鏡という詩が大変気に入り、早速ギターで作曲した。

作画や動画が一段落するのは、夜となることが多かった。するとそれぞれが、お菓子やジュースを持ち寄り、テーブルの周りに椅子を持って集まりおしゃべりをしたり歌をうたったりした。仕上や背景の人も集まってくる。

このころは手塚先生みたいに眠気覚ましに珈琲を飲むというのは、まだ一般的ではなく、お茶を飲むほうが多かった。
飲み物もジュース類、サイダーとかバヤリスオレンジやポッカレモンなどのジュース類、まだコーラーは、風邪をひいた時貰う呑み薬みたいな味だ、とコーラーーを飲めるものが珍しい頃であった。現に私も、コーラーが飲めるようになったのは10年後の昭和55年ごろであった。

お酒類を隠し持っている人も居た、興が嵩じてくると、ギターの演奏も始まる、作画の上口さんは、演歌がうまく「湯の町エレジー」や「酒は涙かため息か」など上手に演奏した。

山本洋子さんという仕上の人がいた、俳優さんとは同姓同名の別人である、一度仕事中、風邪で高熱を出したことがあった。彼女の家は浅草にあったが、車で送っていった。寒いと震えているので、真夏であったが、ヒーターを、最高に入れて、汗だくで送っていった。その彼女も私を「良い人」と宣伝してくれた。
その彼女は泣き上戸であることを皆が知っていた、わざと悲しげな曲を選び、彼女の近くで、演奏する「また泣かせるぅ」と言ってすぐに泣き始める。それを、肴にまた盛り上がる。そんなことでストレスを回想していた。

 11月完成予定日がますます迫ってきた。頑張ろうと、大セル用の動画用紙に劇例文を、背景さんから借りてきた、大筆で書いて、天井から吊るした。次の朝その用紙の下に動画用紙で書いたいたずら書きが、セロテープで吊るしてあった。人がいないときに書くらしくその下にまたいたずら書きが吊るされている、その数が増えていく、明らかに人の名前を遣って書いたものもある。結果的には、ストレス解消と、頑張ろうと言う気持ちが込められている。それが50枚吊り下げられると爽快である、そのまま増えるに任せた。

そしてなんとか「やさしいライオン」は予定日近くに形になった。

あけて正月衝撃が走った。TCJ忍風 カムイ外伝やサザエさんで背景をしていた吉村 豊さんというかたが、お寺の境内で自殺してしまったというニュースであった。
コメント
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