この話を、内海君に話して聞かせた。すると「今度2人で山へハイキングに行こうよ」といわれた。独身最後を記念して低い山でいいから、奥武蔵の山を登ってみたい」そんなことを言った。
早速計画を立てるためにガイドブックと国土地理院の5万分の一の地図を買ってきた。
武甲山(標高約1,300m)そこから子持山(標高1,273m)尾根伝いに大持山(標高1,294m)ついでだから武川岳(標高1,052m)までいこうと欲張った計画を立てていた。
目的とする武甲山は、ガイドブックによると、「武甲山は、崇神天皇の御代、知知夫国の祖神であった、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)の霊を、この部甲山に奉祀して以来今日まで、神奈備山(神様のこもる山)として山麓の人々に崇められて参りました。信仰の山としての山塊であるばかりではなく、自然科学から見ても、地質、動物、植物など、秩父の山塊のうち、他にその類を見ない貴重な存在です。北面及び頂上は石灰岩採掘によって変貌しています。」
と書かれていた。あの醜いお姿は、セメントの材料となる、石灰岩採掘によるものだったのかと、わかった。
電車はまだ吾野までしか通じておらず、秩父までの線路を作っているところであった。
途中まで車で行って、バスで武甲山の登り口まで行き、下りてくる場所に車を置いておこうと考えた。
学校の夏休みが終わった頃であった、正丸峠へ、いつもの仲間と遊びがてら下見に行った。正丸峠をすぎて名栗方面へ少し戻った、山伏峠付近に車2台が置けるようなスペースがあったので、当日はそこに車を置いておけると考えた。そこからなら正丸のバス停まで10分もかからないだろう。
そこから武川岳までみんなで登ってみた、膝ぐらいの笹に覆われた狭い道で、ヘビでも出そうな道であったが、くだって下ってくるには、楽そうな道であった。それに、茶店があるものうれしい、みんなでジュースを飲んで、大福とみたらし団子を食べたのしんだ。ここで、最後の腹ごしらえができるとも思った。
山守君も誘ってみたが、なかなか3人の時間がそろわなかった。毎回日曜日になると、忙しくなってしまい、とうとう9月中の4回あったチャンスは消えた。
10月内海ちゃんと、スケジュールが合った。このチャンスを逃すと今年中は無理。山守君は次回と言うことで、決行することに決めた。
その日は6時過ぎ起きて支度をし、西原の自宅アパートから車で東久留米の内海ちゃんのアパートへ行った。彼はまだ起きていなかった。彼女がいれば、起こしてくれたのだが、今日ハイキングに行くと言うことで、実家に帰ってしまっていた。
日曜の朝である、近所に気兼ねして、彼を起こさなければならなかった。
所沢街道から、産業道路へ、入間基地のそばを通り16号国道にぶつかる、右折して、ガードをくぐり、左へ入って入間川の豊水橋を渡る、交差点を左折すれは、飯能駅方面へ行けるが、今日は直進する。つぎの二股を左へ行き、やがて八高線のガードをくぐり、突き当りを右に行く、すぐに県道の川越日高線に出るので左折、この道は、高校のときに、毎年蕨高校から姉妹校、飯能高校まで、競歩大会で走った(歩いた)懐かしい道。そんなことを説明しながら、巾着田の近くを走り、国道299号線に出て正丸峠へと向かう。
吾野駅から先はまだ開通していない線路に沿って登っていく、時々大型の工事車両とすれ違うため、待避所が作られている。線路が高架になるあたりから、道も険しくなり、正丸の駅が出来る広場あたりから、七曲の峠道となる。峠の上に茶店と駐車場があるが,そこをすぎ、下りが始まり警笛ならせの標識がやたら並んで立っているヘアーピンカーブを大きく曲がりなどして、名栗方面の看板の先をもどる感じで左折する。
前もって見ておいた、広場に車を止めた。暖かいので、着替えに持ってきたリックの中身を車に少し置いていく。
10時になっていた。調べていたバスの時間はとっくにすぎていて、10時のバスの時間がわからないので急いでバス停に行く。
20分待たされバスに乗って、登山道の入り口まで行く。浦山登山口へついたときには11時過ぎになってしまった。朝から何も食べていないが、お金を持ってきているので山頂の売店で何か飲み食いしようと、すぐに武甲山へ登りだす。「お先に」とか「こんにちは」など挨拶しながら元気に走るようにして、何人も追い越して12時半山頂へ付く。朝から飲まず食わずで、さすがに腹がへり過ぎ、すぐに売店を探すがどこにも売店は無かった。地図によると稜線の向こう近くに煮えるのが小持山らしい、登山者に「子持山には茶店がありますか」と尋ねたら、「多分あるんじゃねえ」との答えが返ってきた。このまま下山するにはあまりにも敗北感がありすぎる、小持山まで、我慢すれば、何か食える。「多少高くても、腹いっぱい食ってやる」と1時すぎ、小持山まで行くことにする。
疲れが出たのか、すきっ腹のせいか、近くに見えた小持山へは2時すぎに着いた。そのうえそこにも売店は無かった。すでに稜線を経由してハイキングして行く時間ではないらしく、もう人影はまったく無かった。大持山にはお店があるかもという、かすかな期待を持って、そのまま大持山へ行く。大持山には3時過ぎ着いたがここにもお店は無く、あたりはすでに暗くなってきていた。
計画を立てたのは夏の頃で6時まで十分明るかったが、この自分は山の日没は早い、その事を忘れて居た。あっという間に太陽が山陰に沈むと暗闇がどんどん押し寄せてくる。内海ちゃんはタバコを吸うので、使い捨てライターを持っていた、その明かりでかろうじて道がわかる、かすかな明かりで道標を確かめながら歩いていく。
下の谷のほうに人家らしい明かりが見える、大声で叫んでみるが、何の変化も動きも無い、近くに見えても遠いのだ、明かりに誘われて沢を下りたら、崖から落ちるのが関の山、最低のハイキングの心得は知っているつもりが、食料を持たず、軽微な服装で来た事を、後悔する。だがもう手遅れ、この先は武川岳へ行かなくてはならない、分かれ道を注意して左へ行く、かろうじてライターの光で武川岳方面が確認できた。
しかしこのライターにも限度が着た、ガスが無くなり、つかなくなってしまった。石をこすってその火花で道を確認しながら歩いた。しかしそれもすぐになくなった。
なんにも見えない。二人はそこに仰向けに倒れこんだ。「遭難するってこういうことなのかな」「でもこんなところでカッコ悪いよな」笑ったが余計に腹がすいた。こんなときに限って何にも無い。服も登山用に着替えているので、ポケットの中になんにも入っていない。
「金ならあるのに」 「俺も」、何か買って食べればよいと、財布しか持ってきていなかった。「彼女たち、連れて繰ればよかったな」 「そうすれば、あの、おいしいお弁当を、いっぱい作って持ってきてくれたのに」 下見のとき、お弁当を作って持ってきてくれたのを思い出す。「何も見えないので動くと危険だから、ここで夜明けを待とう」 「それにしてもはらがへったな」倒れたまま上空を見ると、星がいっぱい光り輝いていた、「山で見る星ってきれいだね」 「やはり詩人だ」 「それにしても腹減った」 「のども渇いて死にそう」すでに腹が減ったとのどが渇いたとしかいえなかった。
「雨合羽持っていたよね、それでも着ようか」そういって起き上がった、すると不思議な光景を目にした。月が出たせいで、道が白くはっきり見えていた。「助かった」。「はらへったぞ」 「腹減ったぞ」などと行進曲調に歌いながら気を取り直して歩き始め、どうにか武川岳へ着いた。
とうぜん茶店は閉まっているし片付いて何も残っていない。周りを見回すと、バケツが置いてあった。多分雨水か、ぼーふらが、わいているかも知れない。うがいするだけなら、口の渇きが止まるかも。
とうとう誘惑に負け、口に含んだ、うがいするつもりが、一滴のどを通過した。もうとまらない、そのままとうとう飲んでしまった。何が入っているのか、雑巾がけした水の残りか、そんな想像をしても吐き気は起こらなかった。
内海ちゃんも、ほかのバケツを見つけていた、彼も飲んでしまった。「大丈夫かな」「わからない」「あとでおなか壊すかな」「車の中に薬箱が入っているから飲んでおこう」水を飲んだせいか、少し元気が取り戻せた。
この先は二股の道があるはず間違えると名栗へ行ってしまう。そこには車が無いので、もっと最悪になる。でもこの道は、前に下調べしてきている、名栗へ行かないよう注意して左の道をおり、くたくたになって山伏峠へでた、やっと車に戻った。車の時計を見ると何のことはないまだ7時であった。一晩中歩き、すっかり真夜中だと思っていた。
それほど疲れきっていた。
正丸峠からは、食堂を探しながら降っていったが、この頃のお店は6時をすぎるとしまっていた。お店が1軒も開いていない、とうとう入間まで来てしまった。米軍相手のスナックでも入ろうか、その度胸もない。そうこう言っている内に、所沢市まで来ていた、龍子さんを送ってくるとき、本陣ってレストランがあるからそこへいこうと、車を走らせた、しかし、9時では終わってしまっていた。やっと開いていたお店へ飛び込んだが、そこはママさん一人の飲み屋さん、内海ちゃんが飲めたので、ビールを注文して、お結びが出来ないか尋ねると、「あいにくご飯がなくなって、3つならできそう」との答え、早速作ってもらい、一つずつ食べ残りの一つを半分に分けて「小さいのを4つ作ればいいのにね」など言ってたべた。
お金を払ってビックリ、お結び3個が3,000円「これじゃ4つにしたら気の毒すぎるわけだ」と言う落ちまでついて、無事帰宅、薬を飲んだせいか、腹もこわさずにすんだ。
そのすぐあとの1969年(昭和44年)の私の誕生日10月14日に吾野駅から西武秩父駅間19.0kmが開業した。
早速計画を立てるためにガイドブックと国土地理院の5万分の一の地図を買ってきた。
武甲山(標高約1,300m)そこから子持山(標高1,273m)尾根伝いに大持山(標高1,294m)ついでだから武川岳(標高1,052m)までいこうと欲張った計画を立てていた。
目的とする武甲山は、ガイドブックによると、「武甲山は、崇神天皇の御代、知知夫国の祖神であった、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)の霊を、この部甲山に奉祀して以来今日まで、神奈備山(神様のこもる山)として山麓の人々に崇められて参りました。信仰の山としての山塊であるばかりではなく、自然科学から見ても、地質、動物、植物など、秩父の山塊のうち、他にその類を見ない貴重な存在です。北面及び頂上は石灰岩採掘によって変貌しています。」
と書かれていた。あの醜いお姿は、セメントの材料となる、石灰岩採掘によるものだったのかと、わかった。
電車はまだ吾野までしか通じておらず、秩父までの線路を作っているところであった。
途中まで車で行って、バスで武甲山の登り口まで行き、下りてくる場所に車を置いておこうと考えた。
学校の夏休みが終わった頃であった、正丸峠へ、いつもの仲間と遊びがてら下見に行った。正丸峠をすぎて名栗方面へ少し戻った、山伏峠付近に車2台が置けるようなスペースがあったので、当日はそこに車を置いておけると考えた。そこからなら正丸のバス停まで10分もかからないだろう。
そこから武川岳までみんなで登ってみた、膝ぐらいの笹に覆われた狭い道で、ヘビでも出そうな道であったが、くだって下ってくるには、楽そうな道であった。それに、茶店があるものうれしい、みんなでジュースを飲んで、大福とみたらし団子を食べたのしんだ。ここで、最後の腹ごしらえができるとも思った。
山守君も誘ってみたが、なかなか3人の時間がそろわなかった。毎回日曜日になると、忙しくなってしまい、とうとう9月中の4回あったチャンスは消えた。
10月内海ちゃんと、スケジュールが合った。このチャンスを逃すと今年中は無理。山守君は次回と言うことで、決行することに決めた。
その日は6時過ぎ起きて支度をし、西原の自宅アパートから車で東久留米の内海ちゃんのアパートへ行った。彼はまだ起きていなかった。彼女がいれば、起こしてくれたのだが、今日ハイキングに行くと言うことで、実家に帰ってしまっていた。
日曜の朝である、近所に気兼ねして、彼を起こさなければならなかった。
所沢街道から、産業道路へ、入間基地のそばを通り16号国道にぶつかる、右折して、ガードをくぐり、左へ入って入間川の豊水橋を渡る、交差点を左折すれは、飯能駅方面へ行けるが、今日は直進する。つぎの二股を左へ行き、やがて八高線のガードをくぐり、突き当りを右に行く、すぐに県道の川越日高線に出るので左折、この道は、高校のときに、毎年蕨高校から姉妹校、飯能高校まで、競歩大会で走った(歩いた)懐かしい道。そんなことを説明しながら、巾着田の近くを走り、国道299号線に出て正丸峠へと向かう。
吾野駅から先はまだ開通していない線路に沿って登っていく、時々大型の工事車両とすれ違うため、待避所が作られている。線路が高架になるあたりから、道も険しくなり、正丸の駅が出来る広場あたりから、七曲の峠道となる。峠の上に茶店と駐車場があるが,そこをすぎ、下りが始まり警笛ならせの標識がやたら並んで立っているヘアーピンカーブを大きく曲がりなどして、名栗方面の看板の先をもどる感じで左折する。
前もって見ておいた、広場に車を止めた。暖かいので、着替えに持ってきたリックの中身を車に少し置いていく。
10時になっていた。調べていたバスの時間はとっくにすぎていて、10時のバスの時間がわからないので急いでバス停に行く。
20分待たされバスに乗って、登山道の入り口まで行く。浦山登山口へついたときには11時過ぎになってしまった。朝から何も食べていないが、お金を持ってきているので山頂の売店で何か飲み食いしようと、すぐに武甲山へ登りだす。「お先に」とか「こんにちは」など挨拶しながら元気に走るようにして、何人も追い越して12時半山頂へ付く。朝から飲まず食わずで、さすがに腹がへり過ぎ、すぐに売店を探すがどこにも売店は無かった。地図によると稜線の向こう近くに煮えるのが小持山らしい、登山者に「子持山には茶店がありますか」と尋ねたら、「多分あるんじゃねえ」との答えが返ってきた。このまま下山するにはあまりにも敗北感がありすぎる、小持山まで、我慢すれば、何か食える。「多少高くても、腹いっぱい食ってやる」と1時すぎ、小持山まで行くことにする。
疲れが出たのか、すきっ腹のせいか、近くに見えた小持山へは2時すぎに着いた。そのうえそこにも売店は無かった。すでに稜線を経由してハイキングして行く時間ではないらしく、もう人影はまったく無かった。大持山にはお店があるかもという、かすかな期待を持って、そのまま大持山へ行く。大持山には3時過ぎ着いたがここにもお店は無く、あたりはすでに暗くなってきていた。
計画を立てたのは夏の頃で6時まで十分明るかったが、この自分は山の日没は早い、その事を忘れて居た。あっという間に太陽が山陰に沈むと暗闇がどんどん押し寄せてくる。内海ちゃんはタバコを吸うので、使い捨てライターを持っていた、その明かりでかろうじて道がわかる、かすかな明かりで道標を確かめながら歩いていく。
下の谷のほうに人家らしい明かりが見える、大声で叫んでみるが、何の変化も動きも無い、近くに見えても遠いのだ、明かりに誘われて沢を下りたら、崖から落ちるのが関の山、最低のハイキングの心得は知っているつもりが、食料を持たず、軽微な服装で来た事を、後悔する。だがもう手遅れ、この先は武川岳へ行かなくてはならない、分かれ道を注意して左へ行く、かろうじてライターの光で武川岳方面が確認できた。
しかしこのライターにも限度が着た、ガスが無くなり、つかなくなってしまった。石をこすってその火花で道を確認しながら歩いた。しかしそれもすぐになくなった。
なんにも見えない。二人はそこに仰向けに倒れこんだ。「遭難するってこういうことなのかな」「でもこんなところでカッコ悪いよな」笑ったが余計に腹がすいた。こんなときに限って何にも無い。服も登山用に着替えているので、ポケットの中になんにも入っていない。
「金ならあるのに」 「俺も」、何か買って食べればよいと、財布しか持ってきていなかった。「彼女たち、連れて繰ればよかったな」 「そうすれば、あの、おいしいお弁当を、いっぱい作って持ってきてくれたのに」 下見のとき、お弁当を作って持ってきてくれたのを思い出す。「何も見えないので動くと危険だから、ここで夜明けを待とう」 「それにしてもはらがへったな」倒れたまま上空を見ると、星がいっぱい光り輝いていた、「山で見る星ってきれいだね」 「やはり詩人だ」 「それにしても腹減った」 「のども渇いて死にそう」すでに腹が減ったとのどが渇いたとしかいえなかった。
「雨合羽持っていたよね、それでも着ようか」そういって起き上がった、すると不思議な光景を目にした。月が出たせいで、道が白くはっきり見えていた。「助かった」。「はらへったぞ」 「腹減ったぞ」などと行進曲調に歌いながら気を取り直して歩き始め、どうにか武川岳へ着いた。
とうぜん茶店は閉まっているし片付いて何も残っていない。周りを見回すと、バケツが置いてあった。多分雨水か、ぼーふらが、わいているかも知れない。うがいするだけなら、口の渇きが止まるかも。
とうとう誘惑に負け、口に含んだ、うがいするつもりが、一滴のどを通過した。もうとまらない、そのままとうとう飲んでしまった。何が入っているのか、雑巾がけした水の残りか、そんな想像をしても吐き気は起こらなかった。
内海ちゃんも、ほかのバケツを見つけていた、彼も飲んでしまった。「大丈夫かな」「わからない」「あとでおなか壊すかな」「車の中に薬箱が入っているから飲んでおこう」水を飲んだせいか、少し元気が取り戻せた。
この先は二股の道があるはず間違えると名栗へ行ってしまう。そこには車が無いので、もっと最悪になる。でもこの道は、前に下調べしてきている、名栗へ行かないよう注意して左の道をおり、くたくたになって山伏峠へでた、やっと車に戻った。車の時計を見ると何のことはないまだ7時であった。一晩中歩き、すっかり真夜中だと思っていた。
それほど疲れきっていた。
正丸峠からは、食堂を探しながら降っていったが、この頃のお店は6時をすぎるとしまっていた。お店が1軒も開いていない、とうとう入間まで来てしまった。米軍相手のスナックでも入ろうか、その度胸もない。そうこう言っている内に、所沢市まで来ていた、龍子さんを送ってくるとき、本陣ってレストランがあるからそこへいこうと、車を走らせた、しかし、9時では終わってしまっていた。やっと開いていたお店へ飛び込んだが、そこはママさん一人の飲み屋さん、内海ちゃんが飲めたので、ビールを注文して、お結びが出来ないか尋ねると、「あいにくご飯がなくなって、3つならできそう」との答え、早速作ってもらい、一つずつ食べ残りの一つを半分に分けて「小さいのを4つ作ればいいのにね」など言ってたべた。
お金を払ってビックリ、お結び3個が3,000円「これじゃ4つにしたら気の毒すぎるわけだ」と言う落ちまでついて、無事帰宅、薬を飲んだせいか、腹もこわさずにすんだ。
そのすぐあとの1969年(昭和44年)の私の誕生日10月14日に吾野駅から西武秩父駅間19.0kmが開業した。