真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

虫プロ外伝4

2006年12月25日 11時31分23秒 | 虫プロ
正丸峠へも虫プロに入った当時から、仲間とよく行った。
正丸峠にはじめて行ったのは高校の時の遠足であった。貸し切りバスで芦ヶ久保まで行き、丸山へ登り刈場坂峠へ降り旧正丸峠から正丸峠へ降りて、待っていたバスで帰ってくるというコースであった。丸山へつきそのあとの最後の降りる道が急坂で、先生が、「絶対に走るな」と叫んでいるうち、女子生徒がその崖を止まれなくなり、ものすごい勢いで、駆け下りて、さいごにはころげ落ちていくのを目の当たりに見ていたのを覚えている。

高校を卒業して免許を取った。デーラーの車置き場に、野ざらしになっていた、古いスズキの125ccバイクを欲しいならあげる、と言われ家に持ち帰った。燃料を入れても、まったくエンジンがかからず、あきらめかけていたとき、家の前の修理屋の長男が、ポイントを磨いてみればと言ってくれ、カバーを取って、ポイントが開く位置を合わせ、紙やすりを乗ってきて磨く方法と、ポイントをあわせる方法を教えてくれた。
調整が終わり、カバーを、元のように取り付け、エンジンキーを回し、アクセルを、2,3回ひねっておいて、キックをすると、一発でエンジンがかかった。
運転技術が追いつかず、コンクリー製のゴミ箱に突っ込んで、粉々に吹っ飛ばしたりしたが、なんとか、操れるようになった。そうすると欲が出て、遠乗りがしたくなる。そこで初めて行ったのが、正丸峠であった。

この時は峠へ上った喜びより、下りにエンジンブレーキを使うことが出来ず、その上、燃料の節約とエンジンを切ってブレーキだけ使っておりた。いまなら、こんなことをしてはいけないことぐらい、常識として知っているのであろうが、まだ、情報の乏しい時代、何事も体験してから覚えた。当然ブレーキが焼けまったく制動がきかなくなる。これは恐かった。死ぬような目にあって、なんとか無事バイクを避難道路に突っ込みとめることが出来たが、それを見ていた人から、くだりはエンジンブレーキを使って、おりないと、ブレーキが焼きつき、きかなくなるということを教えてもらった。

虫プロに入ってからは、正丸峠には手軽に来ていた。当時何件かの茶店があり、駐車場もあった、休みの日などは仲間を誘って駐車場に車を置いて伊豆が岳(851m)へ行った。男どもは鎖場で岩場を一気に登り女性人は、女坂を和気あいあいで上ってくる。頂上の見晴らしは良くて、武川岳、大持山、二子山 そして武甲山が、間近に見えた。山頂の茶店で女性人が作ってくれたお弁当をおいしく食べた。

正丸峠へ何回も行くうちに、てまえ坂元から刈場坂峠へ出る林道があることに気がついた。右の、ぶな峠はまだ途中までしか車がいけなく。左、大野峠方面に行くと景色の良いところが、たくさんあることを見つけた。白石峠からも右へ行くと天文台堂平山の国立天文台堂平観測所には、駐車スペースがあった。
ワンダースリーの頃、真っ暗な闇の中で恐い話をしあったのは、ここ国立天文台堂平観測所の駐車であった。
天文台から堂平山に行き小川町へおりれたし、天文台を少し戻ると眼下に牧場が見て玉川のほうへおりることもできた。

西武池袋線はまだ吾野駅までしかなく、吾野の手前から顔振峠へも行けた。手軽にいけたのでこの顔振峠なども何度も行った。ここへ行くと連れて行かれたものは「源義経と武蔵坊弁慶が京落ちで奥州へ逃れる際、あまりの絶景に何度も振り返ったことが名前の由来、」など受け売りの講釈を聞かされるのが決まりであった。顔振峠はかあふりとうげと読むと言う、埼玉県奥武蔵にある峠で標高約500mのところにある地元周辺では、こおぶりやこうぶり、かあぶりなどと言われることも多いと言われているが、埼玉県人の私はやはり耳から、こうぶり峠と聞いていた。振り返るとき頭(こうべ)を振るのでこうべを振るからこうべふる、こうぶりそして頭を顔と言う文字に換え、顔振峠とした、と言う地元老人の説が好きであった。

そうした私は、奥武蔵の山のことが詳しいと、思われていた。
コメント
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