函館は、「斜陽の街」である。
平成16年12月に周辺3町1村を合併し、古くは、湯川村、銭亀沢村、亀田市を合併
し、何とか体面を保とうとものの、所詮は盛りを過ぎた街である。
そうした函館の人の気質とはどういうものだろう?
ボクの子供の頃は、大人たちは、本州を「内地」と呼び、札幌や旭川を「奥地」と呼
んでいた。既に札幌が函館の2倍以上の人口を有していた時代でも、昔の栄光にす
がって生きていたのである。
つまり、規模は負けても、中身は上という変な自慢。これは関西の人が、東京方面の
醤油をふんだんに使った煮物を「関東煮」といってバカにするのと似ている。
つまり、函館は北海道の「関西」なのである。
関西人は、とかく体面を気にする東京人を「ええかっこしぃ」といって軽蔑するが、
函館原住民も実はそのキライがあるのである。
市外から入ってきた人たちは、「口が悪く、思っていても普通は言わない」事柄も、
「思ったとおりズバリ言ってしまう」という感覚をもった来函者はいないだろうか?
また、函館では、学歴も通用しない社会でもある。
強いものに対するやっかみはなかなかのものがあり、市外資本を受け付けない土壌も
ある。「一人勝ち」を許さない風土。
マグドナルドも大手ラ-メンチェーンも受け付けないぜ
(かつて30年くらい前に函館のメインストリートである駅前どおりに出店したマクド
ナルドもまもなく撤退した経緯のある街である)
独特の味覚感覚もその一つかも知れない。ボクの母は実家が薄口好みで、よく父方の
家のしょっぱい醤油を多量に使う味をバカにしていた。
そしてボク自身も、よく言い聞かされたものである。「青森のラ-メンはまずいよ
ね、醤油の味しかしない。東京のラ-メンもすごくまずい。」
---故郷の味を大事にするといったものとは違う。-----そう名付けて
函館一番
(平成軒も、山頭火も、むつみ屋も函館では受け入れられず撤退している。味の時計
台も3店あったが、今は1店舗のみである。)
ボクも18歳の頃までそう信じて疑わなかったのだ。
「函館のラ-メンが一番旨い。」って
でも、大学進学で4年間、東京の八王子市で暮らすことになる。ここで心がゆらぐ事
件が起こったのだ。
もちろんそれまでも、後述するように「札幌ラ-メン」の来襲があり、あやうくその
魅力に惹かれそうになった時期もあるが、「札幌ラ-メン」という別の料理であっ
て、「ラ-メン」とは違うとどこかで納得していたものだった。
しかし、八王子にはその名もズバリ「函館」という名の食堂が存在していたのであ
る。八王子で食うまずいラ-メン(昭和51~55年当時はいわゆる現在の八王子系
は存在していなかった。)に飽き飽きしていたボクは、友人を誘い早速食べにいっ
た。壁一面には五稜郭の大きなパネル-郷愁を胸に抱き透きとおった黄金色のスー
プ、柔らかな麺、懐かしい味が蘇ってきた。
・・・・・がその直後、友人が「なんじゃ、こらマズイわ!」との暴言を吐く。
「えっ!まずい?」-耳を疑う言葉、それではじめて認識したのである
-これをマズイと評価する人間がいるってことを、函館一番のアイデンティティが崩
れた一瞬だった。
その一件以来、ボクは冷静に自分の食生活や嗜好を見つめ直した-うまいラ-メンっ
てどんな味がするものだろう。
つまり、函館の伝統的塩ラ-メンは、
他の味を認めない世間知らずの原住民が支えているのである
で、今のボクははどう変わったかというと、
『ラ-メンは「函館ラ-メン」しかないでしょ。旨いマズイは関係ないのよ。』
異種文化の到来とともに古い日本の味を捨て中華と西洋の味をいち早く取り入れた我
が郷土で育んだボクの味覚。
-あの衝撃からはや三十数年、この間結局は進歩しない自分がそこにいたのだ。
しかし、函館も人の出入りが激しくなり、奥地や内地の人間との混血種も増えてき
た。
当然、今までの価値観もやがては風前の灯火となる。
やがて函館塩ラ-メンは消える、なぜなら旨いと思う人が相対的に減るからである。
函館が輝いていた時期、それは貿易港として
さらには北洋漁業の基地としてかっての栄光に満ちた時代である。
その当時の価値観がうすれていく時とともに、函館の味は無くなるのである。
ゆうみんの塩ラーメンも、スープは透明
しかし、この塩ラーメンは、昔懐かしい味とは違う。
もちろん、同店移転前に出していた塩ラーメンの味とも違う
見た目はともかく味は進化し続けている。(退化している店もあるが・・・)