【Live Information】
おととい3月13日、訃報の連絡をふたついただきました。
きょう、その両方と自分なりのお別れをしました。
同時に、「赤ちゃんが生まれました」というお知らせがふたつ。
人の生死はこの世の常ではありますが、このようにして人間の営みや繋がりは連綿と続いていくのだと思うと、とても感慨深いです。
きょう午前中は、親族とのお別れでした。
故人と会う機会が(頻度だけでいうと)数少なかった息子が目を真っ赤にしていました。
あとでふたりになった時「なんで泣いたん?」と尋ねてみました。すると、「なんでかわからんけど、涙出た」と答えてくれました。
人の生涯の終わりにあたって何かを感じてくれたのでしょう。
おかしな言い方なのかもしれませんが、自分も亡くなった方をお見送りする時、厳粛な気持ちになるのはもちろんですが、いつもどこか背筋が伸びるような思いになります。
そのあとで、もう一か所へ。
亡くなったのは、岡山在住の音楽プロデューサーでありプロモーターでもある、藤原憲一さん。
まだ68歳でした。
親しくさせていただいたのは短い間でしたが、言葉やお仕事ぶりを通じてとても大切なことをいくつも教わりました。
厳しい物差しをお持ちで、「本物はどんなものか」を知っておられて、仕事に対しては妥協もブレもない方だったと思っています。
若い頃はアメリカで暮らし、アメリカでも一流のジャズ・ミュージシャン達と深くまじわり、彼らのレコーディングに何度も立ち会い、そして尊敬を受けていたそうです。同じアパートに住んでいたあるジャズ・レジェンドとはファースト・ネームで呼び合う仲だったということです。
近年ではテッド・ローゼンタール(piano)、鈴木良雄(bass)、井上陽介(bass)など、幾多のミュージシャンのプロモート、プロデュースを手掛け、ミュージシャン達からも厚い信頼を受けておられました。
経験も知識も豊富で、それだけに「ぼくは音楽のことはあんまり詳しくはありませんから」と言いながらも、厳しい音楽観と耳を持っておられました。
「本当によい音楽を聴いてほしい、そういう音楽を広めたい」という言葉を、何度も伺いました。
厳しい物差しをお持ちの方でしたが、その物差しにまだ達していない人のことを見下すようなことは決してなく、長い目で見守ってくださっているようでした。そして、敬意を払う、ということを大事にされていました。
ただ、「本物のふりをする人」「音楽を使って実は他人を支配しようとする人」には手厳しく、絶対に惑わされない方でもありました。
時にはふたりで、決して人には聞かせられないような際どい楽屋ばなしをしたりもしましたが、その根本にはいつもはっきりした人生観があったように思います。
憲さんの経験と耳は、音楽に携わる者にとって大きな財産でした。
憲さんからもっといろんなお話が聞きたかったと思います。
きょうは、「縁があるから出会い、そしてその出会いと別れには必ずなんらかの意味がある」ということを思えた、とてもいい一日でした。
そして、憲さん、どうもありがとうございました。
いずれまたお目にかかれる日まで。
人気blogランキングへ←クリックして下さいね
おととい3月13日、訃報の連絡をふたついただきました。
きょう、その両方と自分なりのお別れをしました。
同時に、「赤ちゃんが生まれました」というお知らせがふたつ。
人の生死はこの世の常ではありますが、このようにして人間の営みや繋がりは連綿と続いていくのだと思うと、とても感慨深いです。
きょう午前中は、親族とのお別れでした。
故人と会う機会が(頻度だけでいうと)数少なかった息子が目を真っ赤にしていました。
あとでふたりになった時「なんで泣いたん?」と尋ねてみました。すると、「なんでかわからんけど、涙出た」と答えてくれました。
人の生涯の終わりにあたって何かを感じてくれたのでしょう。
おかしな言い方なのかもしれませんが、自分も亡くなった方をお見送りする時、厳粛な気持ちになるのはもちろんですが、いつもどこか背筋が伸びるような思いになります。
そのあとで、もう一か所へ。
亡くなったのは、岡山在住の音楽プロデューサーでありプロモーターでもある、藤原憲一さん。
まだ68歳でした。
親しくさせていただいたのは短い間でしたが、言葉やお仕事ぶりを通じてとても大切なことをいくつも教わりました。
厳しい物差しをお持ちで、「本物はどんなものか」を知っておられて、仕事に対しては妥協もブレもない方だったと思っています。
若い頃はアメリカで暮らし、アメリカでも一流のジャズ・ミュージシャン達と深くまじわり、彼らのレコーディングに何度も立ち会い、そして尊敬を受けていたそうです。同じアパートに住んでいたあるジャズ・レジェンドとはファースト・ネームで呼び合う仲だったということです。
近年ではテッド・ローゼンタール(piano)、鈴木良雄(bass)、井上陽介(bass)など、幾多のミュージシャンのプロモート、プロデュースを手掛け、ミュージシャン達からも厚い信頼を受けておられました。
経験も知識も豊富で、それだけに「ぼくは音楽のことはあんまり詳しくはありませんから」と言いながらも、厳しい音楽観と耳を持っておられました。
「本当によい音楽を聴いてほしい、そういう音楽を広めたい」という言葉を、何度も伺いました。
厳しい物差しをお持ちの方でしたが、その物差しにまだ達していない人のことを見下すようなことは決してなく、長い目で見守ってくださっているようでした。そして、敬意を払う、ということを大事にされていました。
ただ、「本物のふりをする人」「音楽を使って実は他人を支配しようとする人」には手厳しく、絶対に惑わされない方でもありました。
時にはふたりで、決して人には聞かせられないような際どい楽屋ばなしをしたりもしましたが、その根本にはいつもはっきりした人生観があったように思います。
憲さんの経験と耳は、音楽に携わる者にとって大きな財産でした。
憲さんからもっといろんなお話が聞きたかったと思います。
きょうは、「縁があるから出会い、そしてその出会いと別れには必ずなんらかの意味がある」ということを思えた、とてもいい一日でした。
そして、憲さん、どうもありがとうございました。
いずれまたお目にかかれる日まで。
人気blogランキングへ←クリックして下さいね