貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

中尊寺その5 茅の輪くぐりの能楽堂

2022-12-08 10:16:20 | 日記
令和4年12月8日(木)
 芭蕉句碑から更に下ると、
白山神社。

 能楽堂はこの神社の前にある。
<能楽堂>

 
 白山神社は、
慈覚大師自ら十一面観音を刻み、安置、
本尊とした神社。

 その後、配仏として
季衡(すえひら。清衡の子)の
持仏運慶作の正観音と
源義経の持仏毘沙門天が
寄進安置されるが、
嘉永2年正月の火災で焼失する。
 仮宮の拝殿(現在の能楽殿)と鳥居は、
嘉永6年旧伊達藩主伊達慶邦公によって
建立寄進されたもの。
<能楽堂>
  
 能楽殿は橋掛、楽屋などを
完備した構成の近世能舞台遺構としては
東日本では唯一とされ、
平成15年5月、
国の重要文化財に指定される。
 明治天皇も天覧されたようで、
記念碑が建立されている。
 社殿は、
茅の輪をくぐることで祓われ、お参りをし、
抜けるときは横から(くぐらずに)
出るという、面白い神社。
<茅の輪くぐりをしてお詣り>
<茅の輪くぐりの説明>
 
 また、各干支に分かれてお参り
できる祠もある。



中尊寺その4 千歳のかたみ!!!

2022-12-07 14:18:04 | 日記
令和4年12月7日(水)
 金色堂を出ると、
すぐに芭蕉翁像と奥の細道碑がある。
<芭蕉翁像>

<おくのほそ道碑>

「兼て耳驚かしたる二堂
 (光堂と経堂のこと)開帳す。
 経堂は三将の像をのこし、
 光堂は三代の棺を納め、
 三尊の仏を安置す。
 七宝 散うせて、
 珠の扉(とぼそ)風にやぶれ、
 金の柱霜雪に朽て既頽廃空虚の叢
 と成べきを、四面新に囲て、
 甍を覆て風雨を凌。
 暫時千歳の記念(かたみ)とはなれり」
と、『奥の細道』で記す。
 勿論、芭蕉の句は、
「五月雨の 
  降のこしてや 
     光堂」
※五月雨は全てのものを腐らすのだが、
ここだけは降らなかったのであろうか。
 500年の風雪に耐えた光堂の
何と美しく輝いていることよ。
 
 芭蕉の感動が文章からも伝わってくる。
 芭蕉と賢治は、中尊寺では、
ほんとうに大事にされていることが
伺える。


中尊寺その3 賢治と平安後期の黄金美!!!

2022-12-06 10:34:36 | 日記
令和4年12月6日(火)

 もう一人は宮澤賢治。
 賢治は金色堂に合祀されている。

 熱心な法華経信者であった事。
 賢治の詩には、
最澄が理想とした慈悲の心に通じる作品
が多い。
 延暦寺でも高い評価を受け、
歌碑もある。
 ここ中尊寺では、詩碑。
<賢治詩碑> 

 

 宮沢賢治の『中尊寺』。 
「七重の舎利の小塔(こたう)に
 蓋(がい)なすや緑(りょく)の燐光 
 大盗は銀のかたびら 
 おろがむとまづ膝だてば 
 赭(しゃ)のまなこ 
 たゞつぶらにて 
 もろの肱映(は)えかゞやけ り
 手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔 
 大盗は礼(らい)して没(き)ゆる」
※金色堂に盗みに入った大泥棒も
 金色堂の放つ燐光と、
 その迫力に盗むことが出来ず、
 一礼をして、
その場を立ち去っていくといった意味。
 この大泥棒は、
源頼朝を指しているとも・・・。

 中尊寺創建当時の姿を今に伝える金色堂は、
天治元年(1124)に上棟される。

堂の内外に金箔を押してある
「皆金色」の阿弥陀堂。
 まず堂内の装飾に目を奪われる。
 4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、
 長押に至るまで、
白く光る夜光貝の細工(螺鈿)、
透かし彫りの金具・漆の蒔絵と、
平安時代後期の工芸技術を結集して
荘厳に造られており、
あたかも堂全体が一つの美術工芸品!  
 三回目かな。
 金色堂内で、しっかり説明も聞く。
黄金美につつまれて・・・。
至福の時を過ごす。

中尊寺その2 吉野の他に見事な桜花あり!(西行歌碑)

2022-12-05 10:42:24 | 日記
令和4年12月5日(月)
 西行の歌碑に出合う。

「きゝもせず 
  束稲やまの 
      さくら花       
  よし野のほかに 
    かゝるべしとは」
※束稲山の桜がこんなに素晴らしい
とは知らなかった。
 吉野の桜以外に桜の名所があろう
とはの意。

  遠藤悟逸の句碑もあり。

「清衡の 
  願文の意の 
     大文字」
 これも俳句?
<色鮮やかな道祖神慶堂>

 もう一人、宮澤賢治。
~つづく。

弁慶を偲ぶ!中尊寺に到着

2022-12-04 11:13:36 | 日記
令和4年12月4日(日)
平泉市: 中 尊 寺   
<中尊寺入り口>
      
 中尊寺の駐車場に車を止め、
先に弁慶の大墓碑拝礼。
<武蔵坊弁慶の大墓碑>

 中尊寺の僧、素鳥が詠んだ句は、 
「色かえぬ 
  松のあるじや 
     武蔵坊」
 中尊寺は嘉祥3年(850)、
比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁に
よって開かれ、
その後、
12世紀のはじめに
奥州藤原氏初代清衡公によって
大規模な堂塔造営が行われる。
 清衡公の中尊寺建立の趣旨は、
11世紀後半に東北地方で続いた戦乱
(前九年・後三年合戦)で亡くなった
生きとし生けるものの霊を
敵味方の別なく慰め、 
「みちのく」といわれ辺境とされた
東北地方に、
仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)
を建設する、というもの。   
 それは戦乱で父や妻子を失い、
骨肉の争いを余儀なくされた
清衡公の非戦の決意でもある。
 月見坂を上がっていく。
 左手に、八幡堂、
続いて弁慶堂がある。
<八幡堂>
<弁慶堂>

 ひとつずつ参拝。
 右手の地蔵堂には、
快活に参拝している数名の若者たちがいる。
 臆せず浸っている様子?!