貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

「なるごの湯より」しか語らず?湯につかりたし!

2022-12-13 11:26:34 | 日記
令和4年12月13日(火)
大崎市 鳴子温泉神社(ゆのかみのやしろ)
「あ・ら・伊達な道の駅」の朝、


燕の子らが大きな口を開けて
親燕の運ぶ餌を待っている。

 トイレの入口で、
大事に育てられているのを慈しみ、
出発。
 鳴子温泉神社は、
鳴子グランドホテルの駐車場内にある。

 承和2(835)年4月、
谷ケ森俄かに鳴動すること数日で、
遂に轟然と爆発し熱湯を噴出する。
 その年の10月朝廷は、
この地に一社を建てて、
温泉神社を祀ったという。

 この湯を
「鳴(なき)声(ごえ)の湯」
と名付ける。
 湯の神人石やこけしの歌碑は
珍しい。
<湯の神人石>

<鳴子こけしの歌碑>

 鳴子の湯にゆったりしたかったが・・・。
 芭蕉は、
『奥の細道』では
「なるごの湯より」と記すだけ。
 湯に入らなかったのか。
 やっぱり入りたかったな!
 朝早く来すぎちゃった・・・?


蘭梅に 荷馬も初音と 鳴きぬべし!

2022-12-12 10:22:50 | 日記
令和4年12月12日(月)
一関市: 配志和神社  
     
 一関駅の北西2キロ程の
蘭梅山の麓に鎮座。
  蘭梅山は、菅原道真の子・敦茂が、
父の育てた蘭梅を植えた山。
 参道の入口には、
姥杉を御神木とする石の小祠・白鳥神社?
 立派な木の茂った、長く、静かな階段。
 幾つかの境内社が祀られ、
石碑も多い。
 階段を上ると、正面に拝殿がある。

 式内社・配志和神社に比定される古社で、
景行天皇の御代、
日本武尊により創祀されたと
いわれる神社である。
<阿吽像>

 火石輪が変化して配志和となったと
されている。
 火石輪とは?
 芭蕉句碑は見当たらず。
 あれば、                 
「此の梅に 
   午も初音と 
    なきぬべし」


二夜庵跡は標柱のみ!

2022-12-11 10:45:47 | 日記
令和4年12月11日(日)
一関市: 二夜庵跡            
 二夜庵跡は、
芭蕉が「奥の細道」の行脚の際
立ち寄った金森邸の跡。
<近くの道の駅>
     
 芭蕉が二晩泊まったことから
「二夜庵」と呼ぶようになる。
 芭蕉は、
登米を5月12日に出立している。
 その日は、かなりの雨だったらしく
合羽を濡らしながら
同日の暮れに一関へ到着する。
 翌日は快晴。
 朝から平泉へ行き、
金色堂や高館、無量光院などを見学し、
再び夕刻に一関の二夜庵に宿泊する。

 翌14日に、
日本海側の象潟へ向けて出立することになる。
 ここも大地震・大津波の影響が
あったよう?
 この標柱しか見当たらず。


平泉浄土! 世界遺産登録!!!!

2022-12-10 11:32:04 | 日記
令和4年12月10日(土)
平泉市: 無量光院跡  
  無量光院は、
藤原秀衡が京都の平等院を模して
建立した寺院である。
<無量光院跡説明>

 当時は平等院の規模をも上回る
煌びやかな寺院だったが、
度重なる火災で焼失し、
土塁や礎石が残るのみ。 

 だが、よき場所だ!
 平成23年(2011)、 
「平泉仏国土(浄土)を表す
建築・庭園及び考古学的遺跡群」
の構成資産として、
<世界遺産登録>

世界遺産に登録される。
<無量光院庭園内池>


大好きな義経の墓と芭蕉句碑を詣でる!

2022-12-09 10:36:14 | 日記
令和4年12月9日(金)
平泉市: 高館(たかだち)義経堂    
「先ず高館に登れ~ば~♫

 北上川南部より 流るる~♪
  大河なり~♬・・・・」
 今朝はこの鼻歌から開始!
   義経(ぎけい)堂(どう)は、
北上川を見下ろす
この「高館」と呼ばれる
高台にある。
<義経堂>

 説明板によると、
「義経最期の地。
 兄の源頼朝に追われ、
藤原秀衡を頼って平泉に逃れたのが
文治5年(1189)のこと。」
<義経堂の説明板>

 義経、31歳の若さである。
 2年生の時、先生が読んでくれた
『源平盛衰記』等で、
私もまた幼少よりの義経贔屓!
 判官館(はんがんだて、ほうがんだて)
とも呼ばれている。
 北上川を見下ろす光景は見事!  

 東を望むと、
北上川の向こうに
秀峯・束(たば)稲(しね)山(やま)が見える。

 この山は、
かつて安倍頼時の時代に、
桜の木を一万本植えたといわれる
桜の名所。 
               
 黄金文化華やかし藤原三代の頃には、
さぞや見事な櫻花で
山々や川面を彩ったことだろう。 
 『奥の細道』<平泉>の項では、
「三代の栄耀(えよう)
 一睡の中(うち)にして、
 大門の跡は一里こなたに有。
 秀衡が跡は田野に成て、
 金鶏山のみ形を残す。
 先(まづ)高館にのぼれば、
 北上川南部より流るゝ大河也。
 (中略)
『国破れて山河あり、
 城春にして草青みたり』
 と笠打敷て
 時のうつるまで
 泪を落し待りぬ。」
と記し、あの句を残している。
<芭蕉句碑と説明>
                                                                  「夏草や 
  兵どもが 
    夢の跡」
と。
<芭蕉句碑>

 続いて曾良の句が並ぶ。
「卯の花に 
  兼房みゆる 
   白(しら)毛(が)かな」
 山陽の三男、頼三樹三郞の平泉の歌碑もある。 
     
 義経の墓も詣でる。
<義経の墓>

 妻子も道連れ、
 自刃の悔しさはいかばかりであったろう?
 戦や闘いは、いつの世も、
何処の国でもつきもの。
 生きる物の性(さが)なのだろう?
 幼い時からの教育の機会が
全ての人に与えられんことを
願うのみ!

 高館義経堂は、
毛越寺の管理下にある。