☆ニョホホホ^^; 新作かと思ったかな?
今、吉祥寺のバウスシアターで<フェリーニ映画祭>をやっていて、
『青春群像』は、フェデリコ・フェリーニ監督の初期の作品である。
お昼にメールにてお誘いを受けて、仕事を早めに切り上げ、吉祥寺に赴いたのだ。
1953年の作品で、モノクロである。
しかし、その内容は、現代においても、全くもって色褪せることなく、紛うことなく今に通じる内容であった。
「モノクロ」と言う<斬新な手法>で撮られた最近のロードショー作品として、テレビCMを打ったら、結構、ヒットしちゃうと思う。
◇
舞台は北イタリアの港町リミニで、そこに住む若者たちの「青春の鬱屈」を描いている。
若者といっても、みんな30歳に差し掛かっているようだが、それは国民性の違いで、イタリアでは、まだまだ若者カテゴリーなのだろう(実際には、日本でも三十路を迎えてもフラフラしている奴は多い。私もそうだったか^^;)。
五人ほどの仲間がいるのだが、揃いも揃って無職なのである。
この作品の原題は「乳離れできないでいる仔牛」の意であり、つまり、「ニート」や「パラサイト」「浪人」「フーテン」とでも意訳できようか?
・・・私は、そこに、現代日本の若者と重なる面があると感じた。
作品内の字幕では、彼らは、「のらくら者」などと自称していた。
だが、五人は、それぞれに個性・状況が異なる。
節操のないプレイボーイ・・・ファウスト
歌がうまい男・・・リカルド
不倫関係にある姉を案じている・・・アルベルト
戯曲家を目指している・・・レオポルド
そんな皆を見つめている・・・モラルド
それぞれ、タイプが全然違うのに、いつもつるんでいる。
◇
昨今の携帯小説ほどではないが、片田舎を舞台に、なかなか刺激的な事件やイベントが起きる。
特に恋愛沙汰で派手な展開が多い。
それは、ラテン系気質なのだと思う。
話の中心が、浮気者のファウストで、彼がモラルドの妹・サンドラにちょっかいを出して孕ませ、責任とって結婚してから、登場人物たち皆それぞれの青春が動き出していく。
何よりも物語を牽引するのが、そのファウストである。
とにかく節操がないので、サンドラを蔑ろにして、いつ、ファウストが、他の女にちょっかい出すのか、出すのか? と考えて見ていると、ヒヤヒヤしてきて、青春映画なのに物語に妙なサスペンスが生まれるのである。
また、可憐なサンドラをはじめ、映画館で知り合う<なんか濃厚な奥さん>、修道女、アルベルトの姉さん・・・、出てくる女性がみんな美しいのである。
ついでに、ファウストの妹である少女も可愛いし、サンドラが産む赤ちゃんも可愛い。
モノクロと言うのは、美しいものを美しく見せる最良の手法かも知れない。
町も非常に美しく撮られている。
・・・ただ、作中においても、トウがたち始めていた女性を、ファウストがくどいたのには驚いた^^;
と、同時に、男としては、その「手当たり次第」を見習わなくてはとも思うのだ^^;
◇
フェリーニの初期の作品は、撮るべき映像をキッチリと収め、撮るべき物語を段階を追って律儀に語る。
散文的に思われようが、見ている私たちに「誤読」をさせないよう、公約数としてのテーマを大らかに示してくれるのは、やはり、名監督たる所以なのである。
それを確固たるものにしてくれるのが、役者の演技である。
若者たちは、皆、ジェームス・ディーンばりの「悲しい輝き」を、日々楽しく生きるその瞳に宿している。
私は、アルベルトの、孤独である悲しみに、とても共感した。
カーニバルが明けて、会場のホールで、人形の首と踊り続ける女装姿のアルベルトに、「青春の孤独」は集約されていた。
◇
物語の最後、早朝、モラルドは、町を出る。
見送ってくれるのは、モラルドが、「青春のやきもき」をもてあまして、深夜の散歩を繰り返していたときに知り合った駅員見習いの少年であった。
電車に揺られ、モラルドは町を出る。
モラルドの脳裏には、早朝でまだベッドの中の各仲間たちの姿がよぎる。
驚くことに、フェリー二は、本当に、「ベッドの中の仲間達の姿が流れている」映像を画面に流す。
電車の進行と違和感なく、流れるのだ。
私は、その斬新かつ、製作から50年も経つのに、はじめて見せられた表現に唖然とした。
これは、例えば、『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストの<キス・シーン集>みたいにあざとくなく、より洗練された形といえよう。
そして、後年の、自由奔放なる映像世界を開陳したフェリーニの原初の姿でもあっただろう。
◇
「洗練された形」と言えば、この作品は、若者たちを描いた群像劇であるが、昨今、『ハッピー・フライト』と言う、空港で働く人々を描いた群像劇がほめたたえられていた。
私が、『ハッピー・フライト』の監督に言いたいのは、群像劇にしても、特殊世界を描いた作品であっても、「これみよがし」はダメですよ、と言うことだ。
つまり、群像劇を群像劇としてみせてはいけないのだ。
個々の人物の物語を、ただ並列しただけでは、作劇的に稚拙であると言いたいのだ。
『青春群像』では、個々の登場人物の<青春>が有機的に、自然に、作劇的な洗練をもって、当然のごとく語られていた。
それが映画であり、名作として残るものなのであろう。
(2009/01/29)
今、吉祥寺のバウスシアターで<フェリーニ映画祭>をやっていて、
『青春群像』は、フェデリコ・フェリーニ監督の初期の作品である。
お昼にメールにてお誘いを受けて、仕事を早めに切り上げ、吉祥寺に赴いたのだ。
1953年の作品で、モノクロである。
しかし、その内容は、現代においても、全くもって色褪せることなく、紛うことなく今に通じる内容であった。
「モノクロ」と言う<斬新な手法>で撮られた最近のロードショー作品として、テレビCMを打ったら、結構、ヒットしちゃうと思う。
◇
舞台は北イタリアの港町リミニで、そこに住む若者たちの「青春の鬱屈」を描いている。
若者といっても、みんな30歳に差し掛かっているようだが、それは国民性の違いで、イタリアでは、まだまだ若者カテゴリーなのだろう(実際には、日本でも三十路を迎えてもフラフラしている奴は多い。私もそうだったか^^;)。
五人ほどの仲間がいるのだが、揃いも揃って無職なのである。
この作品の原題は「乳離れできないでいる仔牛」の意であり、つまり、「ニート」や「パラサイト」「浪人」「フーテン」とでも意訳できようか?
・・・私は、そこに、現代日本の若者と重なる面があると感じた。
作品内の字幕では、彼らは、「のらくら者」などと自称していた。
だが、五人は、それぞれに個性・状況が異なる。
節操のないプレイボーイ・・・ファウスト
歌がうまい男・・・リカルド
不倫関係にある姉を案じている・・・アルベルト
戯曲家を目指している・・・レオポルド
そんな皆を見つめている・・・モラルド
それぞれ、タイプが全然違うのに、いつもつるんでいる。
◇
昨今の携帯小説ほどではないが、片田舎を舞台に、なかなか刺激的な事件やイベントが起きる。
特に恋愛沙汰で派手な展開が多い。
それは、ラテン系気質なのだと思う。
話の中心が、浮気者のファウストで、彼がモラルドの妹・サンドラにちょっかいを出して孕ませ、責任とって結婚してから、登場人物たち皆それぞれの青春が動き出していく。
何よりも物語を牽引するのが、そのファウストである。
とにかく節操がないので、サンドラを蔑ろにして、いつ、ファウストが、他の女にちょっかい出すのか、出すのか? と考えて見ていると、ヒヤヒヤしてきて、青春映画なのに物語に妙なサスペンスが生まれるのである。
また、可憐なサンドラをはじめ、映画館で知り合う<なんか濃厚な奥さん>、修道女、アルベルトの姉さん・・・、出てくる女性がみんな美しいのである。
ついでに、ファウストの妹である少女も可愛いし、サンドラが産む赤ちゃんも可愛い。
モノクロと言うのは、美しいものを美しく見せる最良の手法かも知れない。
町も非常に美しく撮られている。
・・・ただ、作中においても、トウがたち始めていた女性を、ファウストがくどいたのには驚いた^^;
と、同時に、男としては、その「手当たり次第」を見習わなくてはとも思うのだ^^;
◇
フェリーニの初期の作品は、撮るべき映像をキッチリと収め、撮るべき物語を段階を追って律儀に語る。
散文的に思われようが、見ている私たちに「誤読」をさせないよう、公約数としてのテーマを大らかに示してくれるのは、やはり、名監督たる所以なのである。
それを確固たるものにしてくれるのが、役者の演技である。
若者たちは、皆、ジェームス・ディーンばりの「悲しい輝き」を、日々楽しく生きるその瞳に宿している。
私は、アルベルトの、孤独である悲しみに、とても共感した。
カーニバルが明けて、会場のホールで、人形の首と踊り続ける女装姿のアルベルトに、「青春の孤独」は集約されていた。
◇
物語の最後、早朝、モラルドは、町を出る。
見送ってくれるのは、モラルドが、「青春のやきもき」をもてあまして、深夜の散歩を繰り返していたときに知り合った駅員見習いの少年であった。
電車に揺られ、モラルドは町を出る。
モラルドの脳裏には、早朝でまだベッドの中の各仲間たちの姿がよぎる。
驚くことに、フェリー二は、本当に、「ベッドの中の仲間達の姿が流れている」映像を画面に流す。
電車の進行と違和感なく、流れるのだ。
私は、その斬新かつ、製作から50年も経つのに、はじめて見せられた表現に唖然とした。
これは、例えば、『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストの<キス・シーン集>みたいにあざとくなく、より洗練された形といえよう。
そして、後年の、自由奔放なる映像世界を開陳したフェリーニの原初の姿でもあっただろう。
◇
「洗練された形」と言えば、この作品は、若者たちを描いた群像劇であるが、昨今、『ハッピー・フライト』と言う、空港で働く人々を描いた群像劇がほめたたえられていた。
私が、『ハッピー・フライト』の監督に言いたいのは、群像劇にしても、特殊世界を描いた作品であっても、「これみよがし」はダメですよ、と言うことだ。
つまり、群像劇を群像劇としてみせてはいけないのだ。
個々の人物の物語を、ただ並列しただけでは、作劇的に稚拙であると言いたいのだ。
『青春群像』では、個々の登場人物の<青春>が有機的に、自然に、作劇的な洗練をもって、当然のごとく語られていた。
それが映画であり、名作として残るものなのであろう。
(2009/01/29)