☆ちょいと個人的に色々あって、一週間ほど前に、この映画を見ようとした時、一緒に行った人とケンカして、見ないで帰ってきた(チケットは買っていた^^;)。
故に、この映画にはケチがついたので、見るつもりはなかったのだが、先日、『クヌート』を見たとき、あのローランド・ヱメリッヒ監督のマヤの地球滅亡予言を題材にした『2012』の予告編を見て、そのダイナミックな破壊描写に、地球滅亡繋がりで、この『ノウイング』を思い出し、ちょいと見ようと思い立った次第だ^^;
傑作『ブラインドネス』の前座に『ハプニング』があった。
そして、ヱメリッヒの「大雑把にドカンと一発!」の前に『ノウイング』があるという位置付けは悪くないと思う(・・・そうか?^^;)。
なお、今回は、エメリッヒの「エ」を「ヱ」と書いてみました^^
意味はないです^^;
それから、『2012』には、かなりの美幼女が出ていたので、それが楽しみです^^;
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・・・と、ここまでは『ノウイング』鑑賞前に書きました。
すいません。
ヱメちゃんと比べてしまって申し訳ない。
この作品、私にはかなり面白かったのです。
片手間で見るような雑な作品ではありませんでした。
公開からかなりの時間が経つ平日のレイトショーにしては、なかなかのお客さんが来ていました。
おそらく、口コミで「なかなか面白いよ」とされ、客が来てるのだと思います。
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物語は延々と謎めいて語られていきます。
見ているこちらは、不安さを楽しませられます^^;
・・・物語の牽引アイテムとして、<謎の予言数列>がありますが、それは、50年前の、とある学校の記念日にタイムカプセルに封されたものなのですが、
その50年前の時代の雰囲気が実によく描かれています。
それで、この作品が生半な志で作られていないことがわかります。
また、序盤では、あの名作『落下の王国』でも使用されていたベートーベンの交響曲第七番の第二楽章が使われていた。
これは、おそらく、作り手はわざとにやっているのだ。
アレックス・プロヤス監督は、何らかのテーマ性において、『落下の王国』への挑戦状を叩きつけたのだろう。
それは、ラストシーンの、若い男の子と女の子が手を携えて駈けて行く「新世界」のめくるめく色彩から窺える。
主人公の住む旧館の作りや、預言の少女ルシンダが晩年を過ごした廃屋の間取りなど、妙に立体的に映されており、見ているこちらの興味を惹く。
また、私は『2001年:宇宙の旅』が大好きなのだが、やはり、この曲が使われていたようで(うろ覚え)、
それも、結末の仰天展開を予期させる伏線なのだろうか?
この曲は、地球滅亡が迫り、精神を崩壊させ、町をさまよい行く住民たちのシーンに被せてもかかっており、退廃の美学を感じさせてくれた。
「選ばれた人間」ではなかった主人公の、絶望を超えた諦観と、血を分けた息子の希望の未来と言う、物語で提示された二律背反に、私は何とも言えない情感をもった。
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簡単に言うと、この作品は、「宇宙人」オチの作品である。
だから、そのクライマックスまでの主人公の活躍は、意味がないものと思われてしまう。
「だから何なの。最初から結末だけをやればいいじゃん」と思われてしまう。
でも、物語は、「個人」もしくは「世界」の運命の、偶然か必然かを物語冒頭から問いかけており、その答えを得るための作品だと思うと、私はとても納得できるのである。
また、その運命論の中で、どうやって家族と接するか・守るかと言うテーマも内包されていた。
私、主演のニコラス・ケイジは、アクション俳優程度の演技力、としての認識しかなく、どんな役をやっても同じに見えたものだが、この作品のニコラス・ケイジは、その人間としての等身大の弱さが非常に感じられ、今まで観た中で、一番、ちゃんとした演技をしていたと思う。
身体も線が細く描かれていたね。
・・・いや、私はニコラス・ケイジに疎いわけじゃないよ。
『赤ちゃん泥棒』も『ワイルド・アット・ハート』も映画館で見た男ですから^^v
そのニコラス・ケイジが、運命論や家族論を、物語の中で、控えめだがしっかりと演じ表現していたと思う。
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そういったエモーショナルな展開とは別に、災厄のシーンは、堂々と大スペクタクルに表現されており、私は圧倒された。
前半の「謎の男たち」の出現も、ジョン・カーペンターの迷作『パラダイム』を髣髴させるような意味不明の怖さを醸していた。
宇宙船や宇宙人の造型も、今までに見たことのないもので、作り手の「斬新なものを作ってやろう」との意気込みが伝わってくる。
色んな映画のエンターテイメント要素を取り込みつつ、そのギクシャクしそうな接着部分を、自然に仕上げた作り手に、私は非常に感心している。
似たタイプの作品『地球が静止する日』(クリック!)と見比べてみたら、その完成度の違いは歴然である。
(2009/07/29)