アルツ・ジェンギンス夫婦の記録

重症アルツで亡くなった父の記録と現在100歳の母と高齢者みるきーの記録。

手首骨折 手術後6日 1/22

2025-01-22 11:07:00 | 病院、病気
意識不明だった私の右手も徐々にできることが増えてきた。

電子レンジの扉は重くて開けれないけれど、スイッチは人差し指で押せるようになった。

電気のスイッチは指先に力が入らなくて押せないけれど、関節を使って押せるようになった

話をする時、負傷した右手はだらりとしていたけれど、だんだん右手で動作できるようになってきた。

ピアノを弾いてみたら指先は動くので、1つの音なら弾ける。ショパンのノクターンぐらいなら弾けるけれど、音が重なって2つの音を出す事はできない。でも疲れてしまうので、ほんの少しの時間しか弾けない。

今心配なのは、負傷した親指が半分しびれていて、動くんだけれど感覚がない。麻酔してる指みたいな感じ。爪で押せば痛みは感じる。

私は毎晩頭にスポンジのカラーを巻いて寝ていたんだけれど、負傷してからは右手が上に上がらないからカラーを巻けなくて、でも昨日あたりからカラーを巻く手伝いができるようになったから頭をセットすることができる。くるくるドライヤーは全く使えない。

✳️昨夜寝る時、痛み止めを飲んで寝たんだけれども、午前3時激痛で目が覚めた。
傷の痛みみたいで、手術の日を思い出した

手が動くようになったから、ぶつけてしまったのかもしれない。そういう痛みだった。あまりに痛くて、退院の時に渡されたプリントを初めて読んだら、膿が出たら病院に行くこと。熱を持ったら病院に行くこと。ギブスがきつかったら病院に行くこと。消毒は自分でしても良い。そんなことが書いてあったので心配になって包帯を取った。



手術の次の日は包帯が血だらけだったけれども、包帯は綺麗だった。あみあみの白いのはスポンジみたいだ。スポンジの上に透明密着テープが貼ってある。化膿はしてないみたいなのですごく安心した。

ギブスの当たっていたところが赤くなっていたりして、ギブスを取ったらスッキリした

親指の根元が赤くなっているので、これを保護すれば、指の感覚が戻るのかと期待している

包帯を巻き直したら痛みもなくなって安心した。痛み止めを飲むつもりで起きたけど、大丈夫そうなので、新聞紙で保護して寝た。



午前4時過ぎに眠ったから、朝はゆっくり寝てようと思ったけど、誰もいない。隣の部屋でテレビがかかったので(目覚まし)起きてしまった。

元気なんだから少しの買い物をしたり散歩したり母の見舞いに行けばいいのに。何もしたくない。手術のストレスがすごく大きい。そのストレスの半分は麻酔科医が点滴の血管を探せなくて、強くさしたり、ぐるぐる針で私の腕の中をねじ回したりしたせいだ

昨日仕事中に聞いた話では、帝王切開の麻酔が効いてない時にお腹を切られたので叫び声を上げたと言う人がいた。そっちの方が悲惨かもしれない。


クリスマスツリーが出しっぱなしになっていて、片付けられないから、小学生の子供たちが片付けてくれた


クリスマスライトを片付ける動作を見ているだけで、発達年齢がわかった。

今日もこれから6時半までお仕事だけど、切り替えが重要なので身支度をする。
もし仕事がなかったら、寝たきり老人でうつ病になりそうだ。




石垣島で鳥になる1/6








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骨折入院 手術後5日目 1/21

2025-01-21 12:39:00 | 病院、病気
手術する前は骨折の痛みだった。
手術後は傷の激しい痛みだった。
退院後はなぜ痛いのかわからない位の変な痛みが襲ってくる。

包帯をしていない肘のあたりは打ち身のような筋肉痛のような痛みがあって、
切った部分はそれなりの痛みで、
親指は半分しびれていて昨夜は親指が痛くて眠れなかった。
他の指は軽く動くけれど、広げる事は痛くてできない。

腕全体が疲れたようなどこに手を置いていいかわからないような大きな痛みがある。腕をどこに置いたら楽なのかわからなくて、右にやったり、左にやったり下げたりあげたりしている


手術しないで済むものなら手術なんかするんじゃなかった

パソコンで文字を入力する仕事が溜まっているのでやってみたけど、右手が疲れてしまって軽く補助して打つこともできない。
左手だけで50,00文字ぐらい打ったので時間がかかった。

痛みさえなければ、片手が不自由でも何でもない、無理して自分でできる。

左手で動かない右手の爪は切れると思ったけれど、右手が向きを変えることできないので爪はとっても切りにくかった。
左手の爪は伸びてしまったのでどうにかして切れないかと工夫したら、爪切りで爪を挟んだ後、口で爪切りを加えて切ることができた

シャワーも片手さえあれば入れる

昨日、自分のシーツを洗ったり着ていたものを洗ったり、ベッドの寝る向きを変えたり、1人で頑張った時考えた。

母がショートステイに行くと、私は母のシーツや枕カバーや布団カバーを全部洗った。帰ってきたとき、気持ちよく寝れるようにきれいにしてあげた。

母の座りやすい椅子、寝やすいベッド、使いやすいトイレ、立ちやすい手すり…
母が居心地の良い最後を迎えれるように尽くした。

母はまだ生きてるけど、幸せにしてあげれたと思う、私は後悔がない。介護が大変だったから、後悔がない。母が幸せだったから後悔がない。
でも私は誰も頼りにしない。自分でできる事は自分でする。

昨日急に右の尾骶骨横の腰が痛くなり、
もしかしたらベッドから起き上がる時無理してるせいかなと思い、右側に負担がかからないようにベッドの頭を逆さまにしたり、ベッドに高さがあるので、足の台を持ってきたりと1人で工夫した。経験してみないと辛さってわからないものだと思った。

金曜に診察に行く。
あと3日。
1/20の手 腫れが取れて皮がくしゃくしゃ



右手がなかったら楽だな。


1/19の手 昨日よりはいい



退院の時、大急ぎで最後に食べたランチ。
きゅうりの酢の物を病室の4人でポリポリポリポリ音を出しながら、みんな無言で食べました。


1/8 骨折後、氷で冷やしながら石垣島を観光している私
骨折しても、石垣島の旅行は楽しかった



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手術後3日目 1/19

2025-01-19 14:23:00 | 病院、病気
1月16日に手首の手術をして、今日は1月19日日曜日、昨日の土曜日と今日の日曜日はまるで入院しているかのようにずっとベッドで寝ています。

⚪︎痛み止めが要らないほど痛みはそんなになくて動かしたときに痛いだけです。指を広げるのはできるけれどもやっとやっとです。

⚪︎寝ている時、手の置き場に困って、右手を持ってあっちこっち動かします

⚪︎自宅で入院中なので、明日からピアノを弾いて右手のリハビリ開始しようと決心しました

⚪︎しかしどの先生も説明がなくて、私の骨のどこが骨折しているのか全然知りませんでした。手術方法も、粉砕した骨をどうしたのかとか、どんなふうに金属プレートをつけたのか、何の説明もありません。手術室では先生がいませんでした。

⚪︎紹介状を持って初めて大学病院に行った時、その先生は手術のために他の先生を紹介してくれました。手術の時は僕も立ち会うからと言っていたのがとても心配です。そんなによくできない先生が手術するんだろうか?

⚪︎よくできない先生は手の先生じゃなくて麻酔の点滴を刺した先生です。私の血管を3回もぐりぐりととっても痛いことをしました。エコーで血管を見てもうまくいかず、周りの看護師さんたちも唖然としていました。

認知症だった父は針がさせない先生に向かってへたくそだなぁ‼️と叫んだことがあります。正直者です。

本気で疑問なんだけど、
点滴の血管はそんなに指に近いところなの?
グーをして手を握らなくてもいいの?
なんで周りの人たちは黙って見てたの?
私もいえば良かった。
『ぐー👊しますか』「ゴムをキツく締めると出やすいです』って。

血管取れなかったかわいそうな手


⚪︎傷口は縫ったんだろうか?
退院の日、血だらけで全然見えなかった。
消毒をして退院だとプリントにかいてあるのに消毒なんかしなかった。血だらけの上にアミアミの白い物を置いていた。

⚪︎1週間後に抜糸?

今、落ち着いたのでやっと考えられる。

⚪︎入院っていうのは退屈なものだと聞いていたけど、私はとっても忙しかった。2時間おきに誰かが来るし。ビデオを見ることもゲームをする暇もブログを書く暇も全然なかった。慌ただしい入院生活だった。

⚪︎病着を借りるとティッシュやコップや歯磨きや日用品が全部無料でもらえるんだけど、ティッシュも濡れティッシュもコップも全然使わなかった。 バスタオルとタオルも自由に使えるようにたくさん置いてあるんだけど、結局シャワーで1枚使っただけ。
1/17の手


1/19日の手

⚪︎整形外科で入院している人も、若いせいか、1人で入院して1人で退院して、面会には誰も来ないと言う私みたいな人が多かった。
 私の4人部屋では、三日間面会は誰も来なかった



竹富島の思い出1/6


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骨折入院退院日 1/17

2025-01-18 19:00:00 | 病院、病気
入院2日目の手術のせいで、痛みが激しく眠れない夜を過ごした。

こんなに大変な思いをするとは思っても見なかった。

近所の先生も、紹介医も、手術医もやたら、簡単な手術であるような口ぶりと明るさで、あれはわざと安心させる作戦の笑顔なんだろうか‼️

午前4時の痛み止めが効いてやっと寝ていたのに起床の6時で起こされ、ちっとも落ち着く時間がない。

入院って退屈で暇だと聞いていたのに、
ピデオを見る暇も、ゲームをする暇もない。
結局何もできずに帰るわけだ。

今日退院の予定だけど、起きる元気もないし、なんとなく気持ち悪い、
10時に帰るのはとうてい無理だから、先生に延長してもらう決心をした。

8時、37時間ぶりの食事




看護師さんにパンを袋から出すのもジャムを出すのも、フォークを棚から取ってくるのもみんなしてもらいました。

牛乳とマヨネーズが出ていたけれど、苦手なのでこれは食べません

ツナサラダには持参した大人のふりかけをかけました。いいアイディアです。

大きいと思ったパン二箇も暖かくてよかった。ペロリといただきました。

2日前から入院しているのに、これが2回目の食事です。ここは断食道場です。

食事中に手術した先生立ち3人がやってきて包帯を取りました。
初めて傷を見たので、ここが痛いんだと分りました。包帯は血だらけでした。急に傷が痛くなりました。傷に貼ってあったあみあみの白い湿布みたいなものを取り替えてくれました。これで1週間このままにしておくみたいです。1週間後に診察です。

そして今日の退院は午後にしたいと希望を出して、午後1時に退院することに決まりました。その結果、元気も取り戻し1人で頑張ってタクシーに乗って退院できたのです。

やっとのことで起き上がって、荷物整理を始め、目処が立ちました。

薬剤師の人が痛み止めを持ってきたり、レンタルしたタオルや病気を取りに来たり、退院が皆に知らされてるんだなと気づきました。


午後1時になっても看護師さんは何も言ってこないし、どうしたらいいのかなと思ってナースセンターに行ったら私が預けていた薬とか今後の診察予約の表とかをくれました。そして一緒に病室に来て私にコートを着せてくれました。私が頼んだのです。エレベーターの前まで送ってもらって 1人で帰ります

看護師さんとお別れした後に1階に降りて入院費56,000円位をクレジットカードで支払ってタクシーを呼びます。

3分でタクシーが到着して自宅まで乗せてもらいました。UVERタクシーは3割引のはずだったけど上限750円なので、750円しか割引かれませんでした 3900円位です。

以前母が御茶ノ水の病院で目の手術をした時往復4000円位でタクシーを使っていました。人の為ならタクシー代を使うけれど自分のためにはあまり使いません。でもUberのおかげでタクシーに安く乗れるようになりました。

3日ぶりに家に帰るとドアは開けやすくしてくれてあるし、部屋に暖房はついているし、トイレットペーパーは1回ずつ切っておいてあるし助かります。私のベッドは布団をまくってあってすぐ寝れるようにしておいてくれてたけれど、私は病院でも横になっていなかったので、とりあえず1階で過ごしました。

退院直後なのに、2時間後に仕事です。シャワーを浴びようと思ったけれど浴びれないので洗面所で頭だけ洗いました。紙をセットすることもできないのでくしゃくしゃのまま仕事をしました。入院する前の日に髪を短く切ったのでよかったです。

仕事をしている間に、姉が高価な肉を届けてくれたので、娘が焼いてくれました。夕飯を食べれました。

病院で10時に寝ていたので、この日も10時に寝ました。そして不眠症の私は次の日の12時まで寝ていたのです。仲間たちと一緒に過ごしている夢を見ました。

明日は土曜と日曜なので、この二日間は寝て過ごします。最後の幸せです。

1/17の手。すごく腫れてる



1/6竹富島の思い出





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骨折入院2日目 その2

2025-01-18 15:36:00 | 病院、病気
入院2日目手術日、、続き。
手術終了して自分のベッドに運ばれて、しっかり元気なつもりだったけど、
身も心も憔悴してたはず。

スマホが顔の隣に置かれても、見る気もせず、今の時間も知りたくなかった。
看護師さんが尿管を抜こうか?
と言った時、『あと何時間かはこのままで』と答えた。 トイレに行く元気がなかったし、立ち上がる気力もなかった。
点滴と心電図と尿管につながれ、
じっとしてたら不眠症の私が眠くなった。
気持ちよく少し寝たら、看護師さんから名前を呼ばれた。

こうやって私の眠りは阻止される運命なのだ。

24時間何も食べていないし、飲み物も8時間飲んでいないから、胃が痛くなって来て、早く夕飯が来ないかなと待っていた。

廊下に貼ってあったメニューによると、白身魚かチーズハンバーグを選べるらしい、
チーズはとけているんだろうか?チーズは嫌いだけどハンバーグが食べたいと考えていた。

18時48分、配膳。
あれ?私だけ夕飯が来ない。
他の3人の患者さん、とりわけさっき手術が終わったお姉さんにまで夕飯来てる。

プラスチック容器を滑らす箸音が病室に響いてる。
隣のお姉さんには食事が出て私には来ないんだろうか?

少ししたら、隣の部屋に『夕飯です』という声がしたので、私にも来るぞ‼️ と安心した。

来ない、、、

食器を下げる人が来たら聞いてみよう、、、

『お食事終わりましたかァ』と、可愛いお兄さんがカーテンから顔を出した。

『夕飯は運ばれてこないんですけど今日はないんでしょうか』
『手術をしたならないかもしれませんね、確認します』
と言って彼がもう来ることはなかった。

検温にやって来た看護師さんに夕食のことを聞いたら、残念そうにないんだと言った。

37時間の絶食で、ここが
断食道場である事を知ったのであった。

夜になり、尿管を外してもらった。
いつも母の病院で少ししかたまっていない尿袋をみているけど、
私の袋は、タプンタプンの満杯。

点滴した分が全部出てる。

そして管が外れて、あとは自分で着替えますと宣言したのに、パンツまで履かせてもらってお世話になった。T字帯の始末までしてもらってもうしわけありません。

看護師さんと、廊下を歩く練習して、ふらつきもなく問題無し。
持参した炭酸水の蓋をあけてもらったら、
動かしてもいないのに泡が溢れ出し、洗面台で処置してもらった。すみません、、自分でやってたら大変なことになっていた。


娘からLINEが来て、お腹空いたなら大人のふりかけを食べなよと言われたけど、
もしも、吐いた時、得体の知れない物があるといけないからやめといた。
でもそのアイデアは、次の朝生かされたのであった。

隣のお姉さんも尿管を繋いでいるんだけど、足の手術で歩けないせいなのか、管をつけたままだ。
お兄さんが満杯の袋の尿を抜きに来たんだけど、その音が聞こえて来て、1/7日西表島にいた水牛が🐃5分間もオシッコをしている音と同じだった。 豪快だ。

そして、ここから朝まで人生最大の痛みと戦うことになった。

この病院では夜になるとアイスノンを配る。
私も手を冷やそうと思って一ついただいた。
冷やしてもいいのかな?とは思った。

夜10時消灯。
眠れないからミンホのドラマを見ていた。電源コードが短くてうまく見れないから眠ることにしたけど、手が痛い。

冷やしてるけど凍りそうに冷たい。
タオルを敷いても冷たすぎる。
ベッドの金属の柵が指に触れても氷を触っているように冷たい。なんか、へん。

手が痛くて痛くてボーっと寝てた。
夜中に点滴を取り替えに来ると言ってたのでひたすら看護師さんを待った。
夜中のナースコールは、ピンポン🎶という音に遠慮して鳴らさない。


メガネの看護師さんがそっとカーテンをあけた時、私は待っていました‼️という目をしていたはずだ。 痛み止めの点滴を入れてもらった。

全然効果なし❗️  すごく痛い❗️

そして、感覚が変なことに気づく。

手は私のお腹の上にあるから指を触ろうと左手で右手を探したけど手がない‼️
いくら探してもない。
確かに右手は私のお腹の上にあるし、指を動かせば動いている。

切断した足の感覚があるのと同じ。
切断されたのか⁉️

右側の肩を触って右手がどこにあるのか探したら、あった。
まっすぐ伸びてた。


右手は見つかったけど、どうしても右手は私のお腹の上にあるんだ。
お腹の上の指を動かしたら、遠くにあるその手の指が動いてた。

しばらく幽体離脱している手と遊んだ。
そして、同室の3人の寝息を聞いていた。
どの人も音を出してなるんだなと勉強になった。ヒーヒー恐怖の声を出すのは私だけじゃないんだな。
可愛い子が出すイビキは許せるけど、不摂生なデブの人が出すイビキは離婚ものだな。

そのように頭を使いながら、、激痛のまま、点滴を取り替えにくる看護師さんを待った。

午前4時、そっとカーテンから顔を出したメガネの看護師さん。
痛み止めの種類を変えると言って取りに行ってくれた。

その薬が効いて痛みもやわらぎ眠ったら起床の6時で起こされた。

苦しい痛みと戦った一晩であった

写真も撮ってない



幸せだった負傷前日、具志堅さんと。


入院3日目に続く、、



 

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アルツ・ジェンギンス夫婦の記録

16年間アルツハイマーと戦った父ジェンギンスは2008年2月14日に亡くなりました。壮絶介護→施設入所→胆管癌による死。大切な父の最期の介護記録をここ残しました。 そして、夫を亡くした母は初期認知が進行中です。 年寄りと暮らす苦労を記録中。