Olive☆。.:*:・'゜

つれづれなるままに・・・雑感を

ポルトガル紀行:ロカ岬

2014-09-12 23:15:24 | 旅日記
晴れていてもロカ岬の方はもやがかかってしまって、海が見えないこともあるんだそうです。
幸いこの日は晴れ渡っていて、写真のような眺めを見ることが出来ました。
風がすごく強くて、崖の方に行くと吹き飛ばされそうになりましたが。









北緯38度47分、西経9度30分、標高140m

カモンエシュの詩の一節が刻まれています。
「Aqui Onde a Terra Acaba E O Mar Comeca」
ここに地果て、海始まる

ユーラシア大陸の端っこに立っているんだなあと
しみじみとした気持ちになりました。
それと同時にこの大海原へ出て行った昔の人たちの
好奇心や探究心といったことをあれこれと考えました。


夕暮れ時の景色もきれいなんだろうな。

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ポルトガル紀行:ポルト

2014-09-02 22:24:56 | 旅日記
ポルトガル3日目の午前中はコインブラ、午後はポルトへ移動しました。

ポルトガル第2の都市ポルトはリスボンから北へ300㎞に位置し、北部の中心地であり、
商工業の町です。1996年ポルト歴史地区がユネスコの世界遺産に登録されました。

ドウロ川を挟んでポルトとカーレ(現在のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア)と呼ばれていた2つの
地名を合わせて、ポルトゥカーレと呼んでいました。これがポルトガルの語源だそうです。
8世紀からイスラム教のムーア人の支配下にありましたが、11世紀にレコンキスタにより
ポルトやコインブラを奪還。フランス王家傍系の貴族アンリ・ド・ブルゴーニュがポルトゥカーレ
伯・コインブラ伯に封じられます。ポルトはポルトワインの産地でもありますが、ブドウの苗を
持ち込んだのはフランス貴族のアンリ・ド・ブルゴーニュでした。
そして彼の息子であるアフォンソ・エンリケの進軍によって国土が南へと広がり、今の大きさに
なったそうです。エンリケが初代国王になった時には首都をギマランイスに定めましたが、
ポルトガルはポルトから始まったのですね。

ポルトの玄関口、サン・ベント駅。
20世紀初め、修道院跡地に建てら
れ、ホールの壁は見事なアズレー
ジョで飾られています。
ツアーでなければ寄って見てみた
かったのですが、バスで素通り。。。
1930年に制作された、アズレージョ
にはジョアン1世によるセウタ攻略や
ジョアン1世のポルト入城など、ポル
トの歴史にまつわる出来事が描かれ
ているそうです。

街を見下ろす丘に建つ大聖堂。
元々は要塞として12世紀に建てられ、17~18世紀に
改修されました。バラ窓が見えます。

内部には17世紀に作られた銀細工の祭壇があります。
欧州を席巻したナポレオンがポルトガルに侵攻した際には
持って行かれないように漆喰を上から塗ったらしいです。

ナポレオンのポルトガル侵略は不成功に終わりますが、
フランス支配により、産業の芽はつまれ、植民地からの富
の流入は止まってしまい、ポルトガル経済は逼迫し、政治
は不安定で各地で反乱や農民蜂起は勃発したようです。


大航海時代を拓き、アジア、アフリカ、南米に多くの植民地を得て、
繁栄を謳歌した時代の一端を見せる工芸品。

インドのゴアを占領したことで香辛料からの利益や併合した新大陸ブラジルでは金鉱脈や
ダイヤ鉱脈が発見されて膨大な富が入ってきたと思うのですが、国内産業に投資されることなく
宮殿の建設などに浪費されてしまったみたいです。海外の植民地に依存する体質が強まると
なかなか国内の産業も育たないでしょうし、国内の経済は発展しないと人材も海外へ流出する
でしょうし。
大聖堂の外壁にもアズレージョが。
アフリカのイスラム教徒によって持ち込まれたタイル文化が起源なんですよね。

大聖堂からのポルトの街並み

オレンジ色の瓦屋根の古い建物

サン・フランシスコ教会の中を見学し
た後、向かい側の建物の壁面に
描かれた絵が面白くって、思わず
写真に収めてしまいました。

サン・フランシスコ教会は13世紀
に聖フランシスコへ捧げる小さな
教会が建設されたのが始まりです。
14世紀に入るとフェルナンド1世の
庇護の下でゴシック様式に増築され
ました。栄華を極めた17世紀になる
と内部はターリャ・ドゥラーダ(金泥細
工)と呼ばれるバロック装飾が施され、天井、壁、柱はつる草、鳥、天使など金箔を貼った
彫刻で覆われていた豪華なものとなります。当時植民地であったブラジルから運ばれた金を
使った量が500㎏とも600㎏とも言われています。
ジョッセの樹と呼ばれるキリストの系図が見どころですが、長崎で殉教した長崎26聖人の
祭壇などもありました。装飾の多さと派手さに圧倒されました。当時はもっときらびやかで
豪華だったことでしょう。質素な外観と内部のギャップに驚かされます。
そして清貧を主張したフランチェスコの精神に大きく外れた教会となってしまって、
何だかなあと思ってしまいました。


ポルト側、レストランなどが並ぶカイス・ダ・リベイラ。


ドウロ川対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア。
ポルトワインのワイナリーがたくさん集まっています。
私たちはSANDEMANのワイナリーの中に入りました。

ポートワインとは発酵途中でアルコールを加えることで発酵を止め、その分糖分を引き出した
酒精強化ワインの一種です。ポートワインの名は出港地であるポルトに由来するもの。
16世紀半ばイギリスとの間で物々交換的な貿易が盛んになります。
その品物の中にワインもありましたが、当時は粗削りな味で人気がありませんでした。
そこで発酵途中の糖分の残るワインに少量のブランデーを添加して風味を和らげたのが
ポートワインの始まりと言われています。
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ポルトガル紀行:コインブラ

2014-08-16 22:12:23 | 旅日記
大学を中心に発展した文化都市、コインブラ。
政治のリスボン、商業のポルトに次ぐポルトガル第3の都市です。

コインブラに初めて大学が置かれたのは1308年。
ディニス王によって1290年にリスボンに創立された大学が
コインブラに移転されたことに始まります。
その後もリスボンに戻ったりしたようですが、1537年に
コインブラに落ち着きました。
パリ、ボローニャ、サラマンカに並ぶヨーロッパでの古い
大学で、1911年リスボン大学が設立されるまでは国内第一
の学術の中心地だったそうです。

←『無情の門』と呼ばれる鉄の門をくぐると中庭に出ます。


正面右側に見えるのは、学生たちが
カブラ(山羊)と呼ぶ時計塔
18世紀に建造されたもので、大学の
シンボルになっているそうです。

大学の創立者ディニス王とジョアン
3世の像が建ち、三方を古い建物が
取り囲んでいます。
時計台に向かって一番端にあるの
が、ジョアン5世治下の1724年に建て
られたジョアニア図書館です。

写真右手がジョアニア図書館で、チ
ケットに記された時刻に見学します。

ターリャ・ドゥラーダと呼ばれる(金泥
細工)による装飾や調度品が華麗で
素晴らしく、見応えがありました。
残念ながら室内は撮影禁止でした。

旧大学のホームページにある動画で
内部の様子をご覧下さい。
Biblioteca Joanina
蔵書は30万冊に及び、鉄の門手前にある総合図書館で借りられるそうです。 
本棚のところどころに箱のようなものが入っていました。貸出中の本なんだそうです。

大学は丘の上にあります。

今回はツアーだったのでバスで丘の
上まで来ましたが、個人旅行なら駅
から市バスに乗るか、5月8日広場の
近くにあるエレベーターを利用した
かも知れません。

もやがかかっていていますが、
良い眺めでした。


ジョアニア図書館の右側にある
礼拝堂(Capela de São Miguel)
↑動画あり
 も見学しました。その頃
には、すっかり晴れ渡っていました。

モンドゴ川を挟んで向こう側に見える
オレンジ色の屋根に白い壁の細長い
建物は新サンタ・クララ修道院です。
コインブラの守護聖人である
イザベラ王妃の棺が納められている
そうです。




正面はラテン回廊(Via Latina)と呼
ばれていて、かつてはラテン語を話
すことが義務付けられていたとか。
回廊からは帽子の間に入ることが
できます。17世紀に作られた宮廷の
広間で、壁にはポルトガル歴代の
国王の肖像が掛かっています。
ここは見学しなかったので、動画で
内部の様子をを見てみました。
Salas dos Capelos










人が立っている辺りに『無情の門』と呼ばれる鉄の門Porta Férrea
見えます。

ポルトガルでは石畳の舗装をよく見かけました。
色の違う石を使ってモザイク模様にしてあるところも多く、
行く先々で写真に収めておけば良かったなあと帰国してから
思いました。これは鉄の門の手前、総合図書館などのある
通りのものです。

アスファルトと違って趣があって、目を楽しませてくれます。
でも歩くと足にきて疲れるし、そもそも小さな石を隙間なく
敷き詰めるのも大変そう、気が遠くなるような作業ですね




 旧大学を見学した後、丘を下って
行きました。
途中で見かけた空き家の壁。
れんがの壁と思っていたけれど、
中は空洞になっているんですね。
音が響いたりしないのかな?
これはこれで、何か意味があるの
かも知れませんね。




路地を下っていると旧カテドラルが見えてきました。
アフォンソ・エンリケスによって1162年に建立された、
ロマネスク様式の教会です。かつて内部にはスペインの
セビーリャから運ばれたイスパノ・アラブのタイルが
覆われていたそうですが、現在はほんの一部しか残って
いないんだそうです。
レコンキスタの時代には要塞を兼ねていました。






入り組んだ細い道。
ムーア人が支配した頃の名残なのでしょうか。
情緒があって散策を楽しめました。
道の両側のお店も開いていたら、ウィンドウショッピング
しながら、もっと楽しめたのにな。
あいにく日曜日でどこも閉まっていました。




かつて町を囲っていた城壁の入口のひとつだったアルメディーナ門。
敵の侵入を防ぐため、上の穴から石を落としたり、油を流したりしたそうです。
これもイスラム時代のものですね。
 

普段は人で賑わっているんでしょうが、日曜日で誰もいない
商店やカフェが並ぶメインストリート。
一斉にお店が閉まってしまうのは不便である一方で、
ガラス越しにお店を見て歩くのもいいのかなと思いました。
じっくり自分の買いたいものを吟味できて、衝動買いが
減らせそうな気がしました。

14世紀以降、大学として使われているアルタ地区と
16~20世紀にキャンパスが置かれたソフィア地区は
2013年世界遺産に登録されました。
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ポルトガル紀行:ブサコパレス

2014-08-13 22:56:22 | 旅日記
昨年12月以降、中断していたポルトガル紀行の続きです。
ポルトガル2日目は宮殿ホテルに宿泊しました。

(関連記事:日程KLM買ったものコンセルヴェイラ・デ・リスボア
エル・コルテ・イングレスオビドスファティマ

ファティマからバスで1時間半ほどでブサコ国立公園に
着きました。この一帯は古くから修道士たちが修行を
行なう神聖な土地で、17世紀にはローマ法王によって
女人禁制と定められていたそうです。修道士たちが植林して
いった広大な森には、楓や樫、糸杉など400種類もの木が
茂っていて、豊かな自然に恵まれたブサコは、ポルトガルを
代表する国立公園になっています。
このうっそうとした森の中に宮殿ホテルがあります。
ポルトガル最後の国王マヌエル2世がここを気に入り、狩猟の
ための今のホテルの基盤となる離宮を建てました。しかし
1907年に完成した直後に王制が廃止されたため、ほとんど
使われることはなかったそうです。


この後、リスボン・ジョロニモ修道院
でも見ることになるねじれ柱やレース
を思わせるような石の彫刻で飾られ
ています。これらの建築様式は、
ポルトガルでは広く見られるマヌエル
様式と呼ばれるものです。トマールに
ある大修道院やジェロニモ修道院を
築いたマヌエル1世に由来していて、
過剰なほどに装飾が施されたポルトガル独特の建築様式です。

壁にはアズレージョが



建物内部にもアズレージョがありました。
オビドスでも見ましたが、タイル芸術であるアズレージョは
ポルトガル滞在中、至るところで目にしました。
エントランスホールに入って1階にはナポレオン軍侵攻を防い
だブサコの戦い、2階へと通じる大階段にはポルトガルによる
セウタ攻略とインド攻略を描いたものでした。
大階段は窓から差し込む光がアズレーショに反射して、
ステンドグラスの模様が写っていました。



公園内にはいくつか散歩コースがあって、ホテルのフロントで地図がもらえます。
クルス・アルタという展望台までの散策コースでは標高541mの場所からブサコの森と
はるかコインブラまで見晴らすことができるそうです。
↓こんな感じでホテルや周辺の建物を眺められるのかな。           

クルス・アルタまで行ってみたかったのですが、朝食から出発までの時間では
到底行って帰ってこれないので、ホテル周辺を散策しました。
 



上のモザイクがあしらわれた建物やこちらの礼拝堂は
カルメル派修道院の頃の建築物のようです。
3色の石のモザイクはブサコ独自のものだそうです。
フロントでもらった地図を見ると小さな礼拝堂や庵が
いくつも点在していました。かつては修道士たちが
黙想したりしていたのでしょうか。散策コースを
ウェブで単語を翻訳したところによれば、“水の道、
遺物の森の道、自然遊歩道、聖なる道”といった
名前が付けられていました。












テラスでお茶を飲みながら、のんびりと
過ごしたり、散策したり。
何泊かするのが一番いいんでしょうけれど、
1泊だけなら、せめて早めにホテルに着いて、
ブサコの森を歩いてみないともったいないな
と思いました。








Palace Hotel Bussaco
Mata do Bussaco 3050-261
231 937 970
fax 231 930 509

コインブラとアヴェイロの間にあるメアリャーダMealhada駅から
タクシーで10分ほど
またはコインブラのバスターミナルから、ルーゾ経由ブサコ行きの
バスで約50分。バスはホテルの前で停車。
平日5便、土曜日2便、日・祝日は運休。
バスの時刻表はコインブラの観光案内所で貰えるようです。
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多賀大社@滋賀

2014-05-09 21:00:02 | 旅日記
延命長寿、縁結び、厄除けの神様として信仰を集める多賀大社にも行きました。
伊勢神宮の天照大御神の親神にあたる伊邪那岐命と伊邪那美命が祀られています。


古くから「お多賀さん」として親しまれ
たそうで、甲斐の武田信玄が25歳の
厄年に際し、黄金2枚を寄進して
厄除けを祈願した手紙の写しを
見ました。民衆だけでなく武家の間
でも信仰が広まっていたようです。


滋賀県犬上郡多賀町多賀604
0749-48-1101


帰りに名物・糸切餅を買いました。
細長いお餅を三味線の糸で切ったもので、
蒙古襲来の故事にちなんだ門前名物なんだそうです。

二度にわたる蒙古襲来を台風によってまぬがれ、
平和が戻ったことを喜んだ里人はおだんごを作り、
蒙古軍旗の赤青の線を書き、これを弓の弦で切って
御神前にお供えしたのが始まりとのこと。
多賀観光協会HPより
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ポルトガル紀行:ファティマ

2013-12-25 22:50:47 | 旅日記
オビドスからバスで1時間余り、「ファティマの奇跡」で名高いカトリックの聖地ファティマヘ。

第一次世界大戦中1971年5月13日3人の子供(フランシスコとジャシンタの兄妹、そのいとこの
ルシア)がいつもように羊の番をしていたら、突然空が輝き、聖母マリアが目の現れ、今後
5か月間、毎月13日の同じ時刻にこの場所に現れることを告げて消えたそうです。
翌月6月13日に村人とともに3人はその場所に集まりました。マリア様の姿が見え、声が聞こえ
たのは子供だけでした。この話は近隣の村や町にも伝わっていき、最後の出現の日10月13日
には、奇跡を一目見ようと7万人もの人が集まったのだとか。マリア様はやはり3人だけに
この地に礼拝堂を建てるように言い、3つの予言を告げたそうです。

当時はオリーブの木が点在するだけの荒地で、ファティマは元々は小さな農村の町でした。
それが聖母の出現という奇跡によって、現在は荘厳な教会が建ち、ローマ・カトリックの聖地
となっています。
町の名前は、レコンキスタの最中に捕らえられ、洗礼を受けキリスト教徒となり、1158年に
オウレン伯と結婚したというムーア人のファティマという女性から来ているそうです。
ローマ・カトリックの聖地の場所がアラビア語の女性名というところが面白いですね。

正面に見えるガラス張りは祭壇です
逆から見ると
大広場の収容人数は30万人以上と言われ、毎月13日、特に5月と10月の大祭には
ここを10万人もの巡礼者に埋め尽くされるそうです。右斜めにあるのは出現の礼拝堂で、
奥の白い建物は2007年に完成した三位一体教会です。その地下にも礼拝堂があります。

三位一体教会から出現の礼拝堂に向かって、白い線のような道が見えるかと思います。
ロザリオを手に持ち、人形を抱えて横に立つ介添えの人に手を引いてもらいながら
膝で少しずつにじり寄って移動している方を見かけました。この大広場を出ると周りには
宗教関連のものを取り扱ったお店が並んでいます。ロザリオやマリア像などの他に
子供の人形や足、腕、耳など恐らく願い事を模ったものも店頭にありました。
この専用の道をひざまずいて膝で、あるいは這って進んでいく人もいるそうです。
苦行を重ね、願を懸ける。その姿に衝撃を受けました。
写真の通り、外観はどれもシンプルで、バジリカの内装もシンプルなんですが、
バチカンや今まで行った大聖堂などでは感じなかった、熱心な信仰の生々しさというのか
独特な雰囲気に包まれた空間でした。宗教の町=聖地なんだなあと改めて感じました。

ここに聖母マリアが初めて3人の
子供たちの前に現れた場所で、
中にマリア様が祀られています。

巨大な広場の前にある65mの塔を
もつネオ・クラシック様式のバジリカ
と呼ばれる聖堂にはフランシスコ、
ジャシンタ、ルシアのお墓がありまし
た。ここから30分程歩いたところに
3人が住んでいた村があり、ルシアの
生家などが残っているそうです。



コルクの木がありました

1981年5月13日、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世が
バチカンで狙撃されました。ファティマに聖母マリアが初めて
出現したのと同じ5月13日。重傷を負ったヨハネ・パウロ2世は
その後奇跡的な回復をし、マリア様のご加護があったとして、
翌年5月13日にお礼参りとしてファティマを訪れています。
3つの予言のひとつが第一次世界対戦の終結、2つ目が死者
の国への訪問。フランシスコとジャシンタは程なくして病死しま
した。そして3つ目はその内容を口外されることが許されず、1
人残ったルシアと法王のみが知っているとされていましたが、
2000年になって、この教皇暗殺未遂事件だと発表されました。
第3の予言の内容を知っているルシアはそれはほんの一部だ
と言っていたようで、はっきりしたことは分かっていません。
2005年2月13日に97歳でルシアは亡くなり、同年4月2日はヨハネ・パウロ2世も逝去しました。
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ポルトガル紀行:オビドス

2013-12-22 23:15:14 | 旅日記
ひと月くらい間が空いてしまいましたが、ポルトガル旅行の続きを忘れないうちに。
日程KLM買ったものコンセルヴェイラ・デ・リスボアエル・コルテ・イングレス

11/15の記事にも書いたようにオドビスはリスボンからバスで1時間くらいのところにあります。
「谷間の真珠」とも呼ばれる、城壁に囲まれ丘の上にある小さな町です。ローマ時代に海からの
敵の侵入を防ぐため砦を築かれたことで町が出来上がっていったようです。ムーア人に征服さ
れた後、1148年にアフォンソ・エンリケスが奪還し町は再建されました。
1282年ディニス王とイザベラ王妃が新婚旅行でこの地を訪れ、すっかり魅了されてしまった
王妃に王は町をプレゼントし、以降1833年までポルトガル歴代王妃の直轄地となったそうです。

Porta da Vila(村の門)


イスラム時代に作られたオビドスの入り口。敵の侵入を防ぐために
門をまっすぐ通り抜けるのではなく、
ジグザグに歩くようになっています。
アーチ型の通路の内側には18世紀
のアズレージョ(青タイル絵)で
飾られてありました。




城壁内に入り、ディレイタ通りを
進んでいくと両脇に土産物屋や
レストランが並び、その先には右手
に市立博物館やサン・ペドロ教会、
サンタ・マリア教会が見えてきます。
更にゆるやかな坂道を上り切ると
正面にサンティアゴ教会、その横に
ポサーダ・ド・カステロがあります。
サンティアゴ教会は建物はそのまま
に書店として使われているようでした



サンティアゴ教会まで辿り着いて、
振返ってみるとこんな感じ。
メインストリートのディレイタ通りは
とても狭い通りで、両脇に白壁の家、
石畳の路地。落ち着いた、絵になる
ところだなあと思いました。





ポサーダ・ド・カステロは城壁内に
建つ15世紀の城を改装した国営
ホテルです。元々小さな城で部屋数
が旧館9室と新館8室しかなく、落ち
着いた内装とアンティークの家具が
好まれてか、ポサーダ(古城や修道
院などを改装した国営ホテル)35軒
の中でも人気が高いそうです。
3つの塔の内側はスイートルームと
なっていて、下の階にサロンとバス
ルーム、上の階にベットルームという
贅沢な造りになっているんだとか。



町の散策の他に城壁から眺める
景色も楽しみの一つかと思います。
ポルタ・ダ・ヴィラを抜けたすぐ左側
に城壁に上がる階段がありました。
5か所くらいあるみたいです。
私はサンティアゴ教会を正面に左側
を道なりに歩いていって、地図の⑦
辺りで城壁に上りました。階段は
舗装されていませんし、手すりも
ありません。上りは何とかなっても
下りる時は難しかったりしますよね。

城壁の通路も狭く、もちろんこちらも
手すりはありません。向こうから来た
人とすれ違う時は譲り合わないと
通れません。壁に手を置き、横歩き
したりしていました。
写真は城壁内を写したものですが、
城壁の外には葡萄畑らしきものが
広がり、素晴らしい眺めでした。
昨年か一昨年だかに風にあおられて
落ちて怪我をされた方がいたそうで
す。風が強い時は避けた方がいい
かも知れませんね。


黄色や青で彩色した白壁の家にジグザグな迷路のような道。
711年にイスラム教徒がジブラルタル海峡を渡り、僅か5年で
イベリア半島のほぼ全域を征服してから約300年、オビドスも
ムーア人に支配されたからか至るところにイスラムの影響が
色濃く残っているように感じました。
ブーゲンビリアが色鮮やかに白壁に映えて綺麗でした。
春や夏には色とりどりの花が軒先に飾られるのでしょうね。




昼食でいただいたカルド・ヴェルデ。
ジャガイモのスープにチリメン
キャベツを細切りにして一緒に
煮込んだものです。
この時食べた鰯のパテが気に入り、
エル・コルテ・イングレスで見つけて
買って帰ってきました。

試飲できませんでしたが、オドビスは
甘いサクランボの果実酒“ジンジャ”
が名物で、おちょこのような小さな
チョコレートのカップで出てきます。

16世紀の水道橋
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ポルトガル紀行:KLMオランダ航空

2013-11-19 22:26:49 | 旅日記
アムステルダムのスキポール空港で子供向けのお店で
サンタクロース姿のミッフィーのぬいぐるみがありました。
空港内にも小さなクリスマスツリーも飾られていました。

さて今回参加したツアーは20人弱の少人数でした。
説明を聞きながら見学するのも移動バスも、これくらいの
人数だといいですね。また参加者も旅慣れている方ばかり
だったからか、色んなことがスムーズに進んで良かったです。

大抵ヨーロッパに向かう時は午前便がほとんどですが、
今回は乗継時間の関係なのか、午後便でした。
帰り、他のツアーの添乗員さんと席が隣同士になって話を
伺ったのですが、同じ日の午前便のエコノミー席は満席だったそうです。
私たちが利用した成田14:45発のエコノミー席は空いていて、3人掛け・4人掛けにひとりって
感じで、エコノミーなのに全然疲れずに済みました。帰りも行き同様に空いていて、3人掛け・
4人掛けにひとりも可能でした。たまたまバルクヘッドと呼ばれる隔壁の直後の席に座っていた
ので、通常よりも前のスペースが広く快適なのでそのままで居ましたが。
長距離だし、体力的に心配もありましたが、結果的には往復とも空いていたお蔭で身体が楽で
とても助かりました。あと行きも帰りも乗継便を待つ間に空港ラウンジでゆっくりできたのと、
リスボン空港にも利用できるラウンジがあってでした。

<行きの機内食>









和食を選びました

写り悪いけれど、ビーフンです


<帰りの機内食>
リスボン-アムステルダム便で

エッグタルトやチーズは持参した
ものです。
エッグタルトはパン屋さんやホテル
の朝食など、旅行中いろんなところ
で見かけましたし、食べました




これはスキポール空港にある
ラウンジで撮ったものです。

ツアー参加者でエコノミー利用は
私たちと添乗員さんだけでした。
他の人たちはKLMのラウンジを利用
できていいなあ~と思いながら、
他の航空会社やクレジットカード会社
合同のラウンジで乗継の時間まで
くつろいでいました。


洋食のミートボール

フラッシュたかなかったから、これも
写真写りが悪いですね

あまり期待していなかったけど
往復共に私は割と美味しく
機内食をいただきました。
プラスチックのフォークやナイフ
スプーンの柄に自転車や木靴、
チューリップなどの絵柄がひとつ
入っていて可愛らしかったです。
プラスチックのコップの周りに一列
それらの絵柄が並んでいました。
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ポルトガル紀行

2013-11-16 23:53:57 | 旅日記
日程はざっとこんな感じでした。

11/8(金) 成田空港からKLMオランダ航空でリスボンへ

11/9 (土)オドビス散策
      ファティマ(バジリカ) 

11/10(日)コインブラ(コインブラ大学、旧カテドラル)
       ポルト(サンフランシスコ教会、カテドラル、カイシュ・ダ・リベイラ散策、醸造所見学)

11/11(月)サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光
     (モンテ・ゴソ、旧市街の散策、カテドラル)

11/12(火)シントラ(王宮)
      ロカ岬
     リスボンへ(サン・ペドロ・アルカンアラ展望台、サン・ロケ教会)

11/13(水)リスボン観光
     (ベレンの塔、発見のモニュメント、ジョロニモス修道院、アルファマ地区散策)
     午後、自由行動 

11/14(木)KLMオランダ航空で成田へ
11/15(金)帰国
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寒いですね

2013-11-15 20:33:20 | 旅日記
日中は22、3℃と暖かな気候のリスボンから帰国しました。
1週間インターネットやテレビ、新聞など見ていなかった
ので、乗継ぎの空港で台風直撃による被害で、変わり果てて
しまったフィリピンの町の風景の写真を新聞の一面で目にして
大変驚きました。

これはポルトのドウロ川を挟んで歴史地区の対岸にある
ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区で見学したポートワイン
醸造所の入口です。川が近いので水害に見舞われることも
あるのでしょう。どこまで浸水したか印がされています。
一番上にあるプレートの日付は1909年12月23日でした。



ところで今夜はW杯本大会へのプレーオフや親善試合が行われますよね。
ポルトガルがスウェーデン戦へ向け最終調整、W杯欧州プレーオフ
ポルトガル代表がスウェーデン戦に向けてオビドスの近くにあるプライア・デル・レイで練習と
書かれていて、思わず反応してしまいました。
今回の旅行でリスボンからバスで
1時間くらいのところにあるオドビス
の町を訪れ、散策してきました。
城壁に囲まれた可愛らしいところで、
その近くに合宿をするような、そんな
サッカー場があるとはです。
スウェーデンとポルトガルの対戦も
興味がありますが、イタリアとドイツ
の親善試合も面白そう。
観れたらいいのになあと思います。
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