ポルトガル3日目の午前中はコインブラ、午後はポルトへ移動しました。
ポルトガル第2の都市ポルトはリスボンから北へ300㎞に位置し、北部の中心地であり、
商工業の町です。1996年ポルト歴史地区がユネスコの世界遺産に登録されました。
ドウロ川を挟んでポルトとカーレ(現在のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア)と呼ばれていた2つの
地名を合わせて、ポルトゥカーレと呼んでいました。これがポルトガルの語源だそうです。
8世紀からイスラム教のムーア人の支配下にありましたが、11世紀にレコンキスタにより
ポルトやコインブラを奪還。フランス王家傍系の貴族アンリ・ド・ブルゴーニュがポルトゥカーレ
伯・コインブラ伯に封じられます。ポルトはポルトワインの産地でもありますが、ブドウの苗を
持ち込んだのはフランス貴族のアンリ・ド・ブルゴーニュでした。
そして彼の息子であるアフォンソ・エンリケの進軍によって国土が南へと広がり、今の大きさに
なったそうです。エンリケが初代国王になった時には首都をギマランイスに定めましたが、
ポルトガルはポルトから始まったのですね。

ポルトの玄関口、サン・ベント駅。
20世紀初め、修道院跡地に建てら
れ、ホールの壁は見事なアズレー
ジョで飾られています。
ツアーでなければ寄って見てみた
かったのですが、バスで素通り。。。
1930年に制作された、アズレージョ
にはジョアン1世によるセウタ攻略や
ジョアン1世のポルト入城など、ポル
トの歴史にまつわる出来事が描かれ
ているそうです。

街を見下ろす丘に建つ大聖堂。
元々は要塞として12世紀に建てられ、17~18世紀に
改修されました。バラ窓が見えます。
内部には17世紀に作られた銀細工の祭壇があります。
欧州を席巻したナポレオンがポルトガルに侵攻した際には
持って行かれないように漆喰を上から塗ったらしいです。
ナポレオンのポルトガル侵略は不成功に終わりますが、
フランス支配により、産業の芽はつまれ、植民地からの富
の流入は止まってしまい、ポルトガル経済は逼迫し、政治
は不安定で各地で反乱や農民蜂起は勃発したようです。

大航海時代を拓き、アジア、アフリカ、南米に多くの植民地を得て、
繁栄を謳歌した時代の一端を見せる工芸品。
インドのゴアを占領したことで香辛料からの利益や併合した新大陸ブラジルでは金鉱脈や
ダイヤ鉱脈が発見されて膨大な富が入ってきたと思うのですが、国内産業に投資されることなく
宮殿の建設などに浪費されてしまったみたいです。海外の植民地に依存する体質が強まると
なかなか国内の産業も育たないでしょうし、国内の経済は発展しないと人材も海外へ流出する
でしょうし。

大聖堂の外壁にもアズレージョが。
アフリカのイスラム教徒によって持ち込まれたタイル文化が起源なんですよね。

大聖堂からのポルトの街並み

オレンジ色の瓦屋根の古い建物

サン・フランシスコ教会の中を見学し
た後、向かい側の建物の壁面に
描かれた絵が面白くって、思わず
写真に収めてしまいました。
サン・フランシスコ教会は13世紀
に聖フランシスコへ捧げる小さな
教会が建設されたのが始まりです。
14世紀に入るとフェルナンド1世の
庇護の下でゴシック様式に増築され
ました。栄華を極めた17世紀になる
と内部はターリャ・ドゥラーダ(金泥細
工)と呼ばれるバロック装飾が施され、天井、壁、柱はつる草、鳥、天使など金箔を貼った
彫刻で覆われていた豪華なものとなります。当時植民地であったブラジルから運ばれた金を
使った量が500㎏とも600㎏とも言われています。
ジョッセの樹と呼ばれるキリストの系図が見どころですが、長崎で殉教した長崎26聖人の
祭壇などもありました。装飾の多さと派手さに圧倒されました。当時はもっときらびやかで
豪華だったことでしょう。質素な外観と内部のギャップに驚かされます。
そして清貧を主張したフランチェスコの精神に大きく外れた教会となってしまって、
何だかなあと思ってしまいました。

ポルト側、レストランなどが並ぶカイス・ダ・リベイラ。

ドウロ川対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア。
ポルトワインのワイナリーがたくさん集まっています。
私たちはSANDEMANのワイナリーの中に入りました。
ポートワインとは発酵途中でアルコールを加えることで発酵を止め、その分糖分を引き出した
酒精強化ワインの一種です。ポートワインの名は出港地であるポルトに由来するもの。
16世紀半ばイギリスとの間で物々交換的な貿易が盛んになります。
その品物の中にワインもありましたが、当時は粗削りな味で人気がありませんでした。
そこで発酵途中の糖分の残るワインに少量のブランデーを添加して風味を和らげたのが
ポートワインの始まりと言われています。