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つれづれなるままに・・・雑感を

オーストリア紀行:アイゼンシュタット

2013-02-16 15:20:35 | 旅日記
ウィーンの南東、ハンガリーとの国境にかけて広が
るブルゲンラント州の州都、アイゼンシュタット。
ハプスブルク帝国最大の大地主となり、時として
オーストリア皇帝の所得を凌駕するまでになった
ハンガリーの貴族、エスターハージー家のお城が
あります。1672年に建てられたバロック様式のもの
だそうです。こことは別にアイゼンシュタットから車
で30分、ノイジードラー湖の南端エステルハーザに
も宮殿があります。「交響曲の父」ハイドンの経済的
支援者だったニコラウス1世がフランスへ行った際
に見たベルサイユ宮殿に心奪われ、模して建てた
もので、敷地内にオペラ劇場や人形劇場、音楽堂
などを造り、マリア・テレジアが「オペラを楽しもうと
思ったら、エステルハーザへ行く」と言ったと
ガイドさんが教えてくれました。
オペラをやるためには舞台装置や衣装、出演者の
ギャラなど、随分とお金の掛かる贅沢な趣味で、
広大な土地を持つ貴族がそれだけお金を使って
くれた方がマリア・テレジアとしても好都合だった
ことでしょう。

ハイドンの支援者であったニコラウス1世は芸術品が好きで、
かなりの贅沢好きの人だったようで、音楽だけでなく、
金銀の食器類・磁器・装飾品を蒐集していたみたいです。
娘をモデルにしたマリア・レオポルディーネ像はイタリア
の有名な彫刻家アントニオ・カノーヴァの作で、服のひだ
や曲線が素晴らしく印象に残っています。
ニコラウス1世の死後、当主の後を継いだ息子アントンは、
逼迫した財政を立て直すために居城をアイゼンシュタットに
戻したんだそうです。
←これは借金の借用書。
  「踏み倒すことなく、きちんと払いましたよ」ってことで
 展示しているのかな? 

現在ノイジードラー湖を挟んでエステルハーザ、現在フェルテード村と呼ばれている東側は
ハンガリー、アイゼンシュタットのある西側はオーストリアになっていますが、元々は1つの国
で、この周辺は全てエステルハージ家の領地だったそうです。
ブルゲンラント州はヨーロッパでも有名なワインの産地で、エステルハージ家でもワイン醸造所
で質の高いワインを作っているそうです。

ウィーンのナーグラ小路にほど近いエステルハージー・ケラーのある建物は元は
エステルハージー家の持ち物でトルコ軍の17世紀の第2次包囲の際にはもっぱらここで会議が
開かれ、侯爵がただ酒をふるまった、といった話が旅行前に読んだ本に書かれていました。



ハイドンザールと呼ばれる大広間。
音響効果のため、床は大理石ではなく木を張り、窓も奥行きをつけているという説明でした。
天井にはエステルハージー家のテーマである「アモールとプシュケ」を中心に歴代のハンガリー
の王やハンガリーの地方を描いたフレスコ画が埋め尽くされていました。
パウル、ニコラウス1世、アントン、ニコラウス2世と4人のエステルハージ家の当主に仕えた
ハイドン。このうち長きに渡って良き主従関係を結んだのがニコラウス1世で、この期間に
ハイドンは副楽長から楽長に昇進しました。音楽に関して深い造詣を持ち理解があった
ニコラウス1世のもとで、ハイドンも思う存分作曲に打ち込むことができたようです。
ニコラウス1世の依頼で、ハイドンは多くの素晴らしい曲を作曲しました。

上の正面の写真から建物の右側に
回って、道形に坂を下っていくと
左手にハイドンの家があります。
楽長に昇進してお給料も上がった
1766年に購入した家は、現在
ハイドン博物館になっています。
お城に向かって撮った写真を見て
もらうと家との距離感が掴んで
もらえるかなあと思います。
オレンジ屋根の飛び出た建物が
宮殿になるので、近いですね。




ちょうどマラソン大会が行われていました。

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