受講している「シニアの為の健康と医療の講座」で、エクササイズの講座があったのですが、エクササイズを学ぶ前に先生は“健康”について色々と話されました。
その中でWHO(世界保健機関)の執行理事会での健康の定義について触れました。
そこでの定義で私が考えたことを書いてみます。
WHOで1999年に改訂された定義では、『健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、肉体的、精神的、霊的(スピリチュアル)および社会的に完全に良好な力動的状態を指す』です。(この新たな定義の採択はWHOの総会では見送られています。)
それ以前は『健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、身体的、精神的および社会的に安寧な状態である』とされていたのです。
新たに「霊的」と「力動的状態」という言葉が加わったのですが「霊的」の意味について、講座でも先生は正直に「分からない」と言っていました。
この時の先生はアメリカでアスレティックトレーナーの資格を取得し、アメリカのプロスポーツ選手のトレーナーをされていたのですが、アメリカ社会は日本に比べて宗教がはるかに身近なわけです。
(というより、日本は世界中で最も宗教性がない国の一つなのかもしれないのです。)
それで霊的に健康と言われても、先生でなくても日本人なら???になってしまうのです。
先生もアメリカでは自身の宗教的な事を問われても答えられず、戸惑ったとのことです。
エクササイズの講座自体は役に立つだろうし面白かったのですが、終わってからWHOの定義について気になり、私なりに調べてみました。
すると霊的に健康ということの意味について、色々と書かれていました。
例えばあるサイトでは以下のようにまとめていました。
<これまでの健康観>
・健康的な食事・運動・休養
・健診の数値が正常である。
・心の悩みを改善する。
<スピリチュアルな健康観>
・生きる意味(目的)を見出す。
・前向きに生きる。
・今の自分を受け入れる。
・安らぎを感じながら生きる。
・死生感を持って生きる。
要するに、心のより深いレベルで満たされていることみたいです。
具体的にはどうなのかというと、欧米と日本では異なるようです。
医療の現場で健康と霊(スピリチュアル)を関連づける場合、欧米では具体的には代替医療がイメージされるみたいなのです。
(代替医療というのは少し前の記事で書いたアーシングのような統合医療で取り上げられる医療です。ホメオパシーとかアロマテラピーとか瞑想とかヨガとか。)
ところが日本では終末期医療(ターミナルケア)が主に連想されているみたいなのです。
宗教性が希薄な日本では、土壇場になって慌てるというか、死の問題が嫌でも大きくなってしまうのかもしれません。
たとえば日本では、癌の告知を本人に行うことが通例になったのはここ20年程のことです。
長い間、癌の告知は死の宣告と同じで、患者がショックを受けるという理由で告知はしないのが当たり前でした。
欧米では子供相手でさえあり得ないことでした。
でも癌の生存率が上がったり、治療の選択肢が増えたおかげで、ようやく告知がされるようになったようです。
中でも治らない患者に対する終末期医療においてスピリチュアルケアがなされるみたいです。
ここから私自身のことを書きます。
実を言うと、私は若い頃から癌が本人に告知されないことが疑問でした。
病名や予後という自分自身の生死に関わる重要なことが医療の現場で本人に伝えられないなんて・・・。
しかもその理由が、この人は癌の告知に耐えられないだろうというような患者の人格に対するネガティブな決めつけによるなんて。
もちろん、私は平気だなどというつもりは毛頭ないのです。
でも、たとえ平気でなくても、そこに私自身がどう生き、どう死ぬかというような自己決定権みたいなものが完全に奪われているのが嫌だったのです。
だから癌に罹っていることに倍する形で、その事実を知らされないことは耐えられないことだと思っていました。
こういう話を人にしても理解されたことはあまりなかったのです。
逆に無言で何も分かっていない人だというような目で見られたり、自分は告知されたくないと言われたりしました。
ただ一人、看護師の女性が、看護師としての経験上、同意してくれたことはあります。
ところが今回、霊的に健康とはどういうことなのか調べていて、私の若い頃の思いが意外にも霊的に健康という概念と繋がっていることが分かりました。
その前に、そもそもスピリチュアリティ(霊性)の意味をある程度ははっきりさせると、要は、自分や人が生きて在ることの意味や意義を自ら納得させつつ生きる時に、その奥に存在するのが霊性のようなのです。
アウシュヴィッツを生き延びた心理学者で精神科医のヴィクトール・フランクルは、『人間は、<自らの自由意志に基づいた責任のある決断を行い、人生の意味や、価値を追及しうる存在>すなわち、「意味への意志」を発動することのできる存在である。』と言ったとのことです。
当然、医療の現場では、過酷な状態にある患者に対し、その視点で援助を行ってほしいものです。
決して、この人には耐えられないだろうから本当の病名は知らせないでおこうという態度を取ってほしくないのです。
ただ時代は変わっていくわけで、今現在、癌による死で言われ始めているのは、癌で死ぬのは一番いい死に方ではないかということです。
理由は、癌だと知ってから死ぬまでが長いからというものです。
種類にもよりますが、癌だと、たとえ死が避けられなくても、時には数年単位で生きられます。
その間に、物心両面にわたって様々な準備ができるのです。
もちろん、告知を受けて最初から冷静に受け止められる人なんていません。
自分の死を何とか受け止めることも含めての準備です。
そこに至るまでの葛藤もまた、とても重要で意味あることであり、「霊的」という言葉と並んで「力動的状態」という言葉が付け加えられた理由はそういうところにもあるようです。
日本の医療の世界と言うのは、いまだに問題があり過ぎで、とうてい患者が「お任せ」でいられる状況ではないと思います。
ただ「シニアの為の健康と医療の講座」を受けて感じたのは、患者の側も医師の側も確実に意識が変わってきているということでした。
統合医療や霊的に健康という考えは象徴的な事柄だと思いました。
その中でWHO(世界保健機関)の執行理事会での健康の定義について触れました。
そこでの定義で私が考えたことを書いてみます。
WHOで1999年に改訂された定義では、『健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、肉体的、精神的、霊的(スピリチュアル)および社会的に完全に良好な力動的状態を指す』です。(この新たな定義の採択はWHOの総会では見送られています。)
それ以前は『健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、身体的、精神的および社会的に安寧な状態である』とされていたのです。
新たに「霊的」と「力動的状態」という言葉が加わったのですが「霊的」の意味について、講座でも先生は正直に「分からない」と言っていました。
この時の先生はアメリカでアスレティックトレーナーの資格を取得し、アメリカのプロスポーツ選手のトレーナーをされていたのですが、アメリカ社会は日本に比べて宗教がはるかに身近なわけです。
(というより、日本は世界中で最も宗教性がない国の一つなのかもしれないのです。)
それで霊的に健康と言われても、先生でなくても日本人なら???になってしまうのです。
先生もアメリカでは自身の宗教的な事を問われても答えられず、戸惑ったとのことです。
エクササイズの講座自体は役に立つだろうし面白かったのですが、終わってからWHOの定義について気になり、私なりに調べてみました。
すると霊的に健康ということの意味について、色々と書かれていました。
例えばあるサイトでは以下のようにまとめていました。
<これまでの健康観>
・健康的な食事・運動・休養
・健診の数値が正常である。
・心の悩みを改善する。
<スピリチュアルな健康観>
・生きる意味(目的)を見出す。
・前向きに生きる。
・今の自分を受け入れる。
・安らぎを感じながら生きる。
・死生感を持って生きる。
要するに、心のより深いレベルで満たされていることみたいです。
具体的にはどうなのかというと、欧米と日本では異なるようです。
医療の現場で健康と霊(スピリチュアル)を関連づける場合、欧米では具体的には代替医療がイメージされるみたいなのです。
(代替医療というのは少し前の記事で書いたアーシングのような統合医療で取り上げられる医療です。ホメオパシーとかアロマテラピーとか瞑想とかヨガとか。)
ところが日本では終末期医療(ターミナルケア)が主に連想されているみたいなのです。
宗教性が希薄な日本では、土壇場になって慌てるというか、死の問題が嫌でも大きくなってしまうのかもしれません。
たとえば日本では、癌の告知を本人に行うことが通例になったのはここ20年程のことです。
長い間、癌の告知は死の宣告と同じで、患者がショックを受けるという理由で告知はしないのが当たり前でした。
欧米では子供相手でさえあり得ないことでした。
でも癌の生存率が上がったり、治療の選択肢が増えたおかげで、ようやく告知がされるようになったようです。
中でも治らない患者に対する終末期医療においてスピリチュアルケアがなされるみたいです。
ここから私自身のことを書きます。
実を言うと、私は若い頃から癌が本人に告知されないことが疑問でした。
病名や予後という自分自身の生死に関わる重要なことが医療の現場で本人に伝えられないなんて・・・。
しかもその理由が、この人は癌の告知に耐えられないだろうというような患者の人格に対するネガティブな決めつけによるなんて。
もちろん、私は平気だなどというつもりは毛頭ないのです。
でも、たとえ平気でなくても、そこに私自身がどう生き、どう死ぬかというような自己決定権みたいなものが完全に奪われているのが嫌だったのです。
だから癌に罹っていることに倍する形で、その事実を知らされないことは耐えられないことだと思っていました。
こういう話を人にしても理解されたことはあまりなかったのです。
逆に無言で何も分かっていない人だというような目で見られたり、自分は告知されたくないと言われたりしました。
ただ一人、看護師の女性が、看護師としての経験上、同意してくれたことはあります。
ところが今回、霊的に健康とはどういうことなのか調べていて、私の若い頃の思いが意外にも霊的に健康という概念と繋がっていることが分かりました。
その前に、そもそもスピリチュアリティ(霊性)の意味をある程度ははっきりさせると、要は、自分や人が生きて在ることの意味や意義を自ら納得させつつ生きる時に、その奥に存在するのが霊性のようなのです。
アウシュヴィッツを生き延びた心理学者で精神科医のヴィクトール・フランクルは、『人間は、<自らの自由意志に基づいた責任のある決断を行い、人生の意味や、価値を追及しうる存在>すなわち、「意味への意志」を発動することのできる存在である。』と言ったとのことです。
当然、医療の現場では、過酷な状態にある患者に対し、その視点で援助を行ってほしいものです。
決して、この人には耐えられないだろうから本当の病名は知らせないでおこうという態度を取ってほしくないのです。
ただ時代は変わっていくわけで、今現在、癌による死で言われ始めているのは、癌で死ぬのは一番いい死に方ではないかということです。
理由は、癌だと知ってから死ぬまでが長いからというものです。
種類にもよりますが、癌だと、たとえ死が避けられなくても、時には数年単位で生きられます。
その間に、物心両面にわたって様々な準備ができるのです。
もちろん、告知を受けて最初から冷静に受け止められる人なんていません。
自分の死を何とか受け止めることも含めての準備です。
そこに至るまでの葛藤もまた、とても重要で意味あることであり、「霊的」という言葉と並んで「力動的状態」という言葉が付け加えられた理由はそういうところにもあるようです。
日本の医療の世界と言うのは、いまだに問題があり過ぎで、とうてい患者が「お任せ」でいられる状況ではないと思います。
ただ「シニアの為の健康と医療の講座」を受けて感じたのは、患者の側も医師の側も確実に意識が変わってきているということでした。
統合医療や霊的に健康という考えは象徴的な事柄だと思いました。