今回はちょっと難しいテーマです。
興味を持たれない方はスルーしてください。
HSPについてです。英語の Highly Sensitive Person の頭文字をとっています。
最近、日頃読んでいる二つのブログでHSPについて書かれていました。
一つは紫苑さんのブログ⇒ここ
もう一つは鬼蜘蛛おばさんこと松田まゆみさんのブログです。⇒ここ
それで興味を持ってHSPや、その関連領域について調べてみました。
HSPとは、生まれつき刺激に弱く、周囲の刺激を過度に受け取ってしまう人のことです。
HSPは気質であって病気ではないのですが、感受性の強さゆえに疲れやすく、病気になりやすい人達のようです。
人口の15~20%がHSPとのことですから、少数者ではあっても決して珍しいタイプではないようです。
このHSPの提唱者はエレイン・アーロン博士で、アメリカ在住の心理学者で心理療法家でもある女性です。
自分がHSPかどうか、テストできるサイトも幾つかありました。⇒ここやここ
私も一つだけでなく幾つかのサイトで試してみましたが、結果はどこもしっかりHSPと出ました(笑)。
私はもう60代半ばですので、自覚はしていなかったとは言えHSPである自分自身への対処の仕方も、自分の特性として心得てしまっています。(誰にでも学習能力というものがあるのです!)
さらにリタイア後である為、生き辛いという程の大きな困難もありません。
最近では、老化による感覚の鈍麻も自分を楽にしているようです。
というわけで今回、色々と過去を思い出しつつHSPについて知ったこと、考えたことを書いてみます。
実は私、自分が何らかの発達障害ではないかと、ずっと思っていました。
というのも、音に対する感受性が普通の人とまったく違うからです。
発達障害の人とその点とても似ているのです。
実際、それ以外にも、HSPと発達障害は似ているらしいのですが、似ているのは表面だけで、機制というか、仕組みは違うもののようです。
たとえば「カクテルパーティー効果」という現象があります。
カクテルパーティーのような騒がしい場でも、人が個別の会話を楽しむことができるのは、人の脳が自分の興味のある声や音のみ選択して聞くことが出来るからで、そのような選択的聴取をカクテルパーティー効果と言うのです。
ところが私の場合「カクテルパーティー効果」が弱く、騒がしい場で会話しようとしても相手の声を聴き分けることがとても困難なのです。
Wikipediaで「カクテルパーティー効果」について調べると、ここで書いたようなことが記されていますが、カクテルパーティー効果を持たない人として発達障害の人が挙げられています。⇒ここ
ただ、私の場合、逆のことも言えるのです。
大半の人に聞こえない物音が聞こえるのです。
例えば、床下の排水管の継手から極微量の水道水が漏れている音とか、電化製品にスイッチを入れる度に家の中の漏電部分が小さくパシッとショートする音などです。
このような音は、私が指摘して初めて私以外の人も気づきます。
私自身はもちろん、誰にも最初は何の音であるか分からず、あちこち調べて漏水や漏電が分かります。
当然、直すと音もしなくなります。
この例では役に立っているけれど、かつては朝早くからの家の中での家族の話し声など、ドアを閉めた自分の部屋で寝ていても自分の枕元で話されているのと同じで、睡眠不足になって随分困ったものでした。
たぶん私の場合、私自身の興味の有無や好き嫌いに関係なく、周囲のすべての音が元々の音量に比例して比較的平等に聞こえるらしいのです。それが私にカクテルパーティー効果が弱い理由のようです。
これは実は、本人にとっては、とてもしんどいことなのです。
大半の人が、自分が興味のない音や聞きたくない音を遮断できるのに、私はそうではないからです。
これには、いわゆる“聴力”は関係なく、あくまで脳の認知力に関係することです。
たとえば、正常性バイアスという言葉を聞いたことがある人もいると思います。
正常性バイアスとは、これもWikipediaから引用すると「自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。」とされています。⇒ここ
問題はその理由で「人間の心は、予期せぬ出来事に対して、ある程度「鈍感」にできている。日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応して疲弊しないために必要なはたらきで、ある程度の限界までは、正常の範囲として処理する心のメカニズムが備わっていると考えられる」というわけなのです。
逆に考えると、正常性バイアスがあまり効かない人は「心が過剰に反応して疲弊」することになります。
それはHSPの人の特徴そのものです。
動揺し、緊張し、その結果、疲れ果てます。
HSPでは、私の場合のように音ではなく、匂い、光、触覚、味、痛みというものに過敏である人もいるそうです。
私も音だけでなく味や触覚、光にも多少は過敏であるように思います。
こうしたHSPの特性から、HSPが慢性疲労症候群、線維筋痛症、化学物質過敏症といった難病と関係があるのではないかとも言われています。
ではなぜ敏感すぎてストレス耐性に弱い、難病とまでは行かないにしろ心身の病気になりやすいHSPが一定割合いるのかということも仮説があるようです。
そもそもは種としての生物の生存戦略の一つとして存在しているらしいのです(HSPの存在は人だけではないとか)。
私は先に、家族の誰も気がつかなかった漏水や漏電の音に気がついたことを書きました。
敏感な個体は異変に真っ先に気が付き、警告を発することができるのです。
一つの共同体の中の5人に1人が気が付けば、共同体そのものを救うこともあったでしょう。
日本のように同調圧力の強い社会では、HSPの人達は沈黙を強いられてしまうでしょうけど、通常ならば20%という割合は、種の生存戦略として絶妙な割合なのかもしれません。
近代以前ならば、現代のHSPの人達をしばしば打ちのめす人工的に合成された音も匂いも光もなかった筈で、HSPはむしろ強い人達だったかもしれません。
HSPについて、もう少し詳しく見てみますと、全般的に言われているHSPの特徴として、あるサイトには次のように整理されています。
①深く処理する
②過剰に刺激を受けやすい(過度な興奮)
③感情反応が強く、共感力が高い
④些細な刺激に対する感受性
①の、深く処理するとは、洞察する、深く考えるということです。
もっとも①の特徴のおかげで、私は敏感どころか鈍い人、とろい人と思われてきました(特に子供の頃)。
というのも、ちょっとした会話をするにも返答に時間がかかるからです。
時間がかかる理由は、HSPの場合、相手の言葉だけでなく態度や表情、さらには周囲の些細な状況など、非HSPの人に比べてはるかに多くの情報を無意識に受け取っていて、その情報の処理に時間がかかるからみたいなのです。
そして①から④の特徴のおかげで、HSPの人は生き辛いと言われているらしいのです。
確かにそれはその通りです。
ただHSPである人も学習します。
成長すると、自分が疲れると分かっている場面を意識的に避けるようになるのです。
私の場合、具体的には、一緒にいる人の声が聞こえないほど騒がしい場所には行かない。
イタリアンのお店に入ってもペペロンチーノは注文しない。(唐辛子が入っているから)
残酷なシーンのある映画や大きな音が予想される音楽は観ないし聴かない。
疲れやすいので何事も無理はしない。定期的に休息する。等々…。
もちろん、避けようのないまま、突然のように圧倒されることもあります。
以前、カナダのテレビドラマを観ていて、その中でカナダの先住民の少女が歌う、部族の弔いの歌を聴いて、号泣してしまい、聴いていられなくなってテレビのスイッチを消したことがありました。
別にうるさかったのではなく、言葉の意味が分からないまま、歌に情動的に反応してしまったのです。
突然で避けられなかったことはともかく、私は、若い頃は、どうでもいいことでゴチャゴチャ言う面倒くさい人と言われてきましたので、30代に入った頃から自分の思いや感じたことを滅多に口にしなくなりました。
成功しているかどうかは分かりませんが、表情もできるだけ平静を装うよう努めました。
HSPの人は芸術や自然に深く感動することが多いのですが、うっかりそれを口にすると、からかわれたり、馬鹿にされたりで、ひどく傷ついたことが過去にはあったのです。
ただ、自分が気づいて、これだけは言わねばと思うことは、よく調べた上で黙っていませんでした。
なぜかHSPの人の特徴として、正義感や倫理観の強さ、誠実さというのも挙げられていますので、それだったのかもしれません。
共感力が高いので、他者の気持ちや立場に寄り添えるとも言われていますが、実際に他者に関与するのはなかなか難しいものです。
正直、何かに気が付いても自分がしゃしゃり出ることはせず、その人の身近な人に任せるようにしています(相手の気持ちやら何やら、ゴチャゴチャ考えるのもHSPの特徴だそうです)。
余程の場合を除いて、私が相手に寄り添って行動を起こすのは動植物だけです。
動植物、とりわけ植物は共感的に寄り添うと良い結果を残します。
たとえば私は植物をほとんど枯らしません。
私より10倍も20倍も世話をしていながら、植物を枯らしてしまう人がたくさんいます。
話を聞いてみると、相手(植物)の状態に気づかないまま、ほとんどルーティンワークのように水やら肥料やらを与えているのです。
長い間、私は、そういう人がなぜ植物の欲していることを知ろうとしないまま、前のめりに「世話」をするのか分からなかったのですが、HSPについて知って初めて分かったように思いました。
非HSPにとっては、植物にたくさんの愛情はあっても、植物の状態を直観的に理解して、その上で適切なケアすることが困難なようです。
寄り添うとは、そういうことを意味するらしいのです。
当然というか、少なくとも私の場合、HSPだから特にやさしい人というわけではないのです。
HSPの共感力は性格ではなく本人も意図しない特性だからです。
むしろ人の痛みに気が付いていながら行動を起こさず、そのために罪悪感にさいなまれることの方が多いのです。
敏感すぎるがゆえに打たれ弱く、争いや葛藤は避けようとするのです。
20代の半ばくらいまで、HSPのそうした特性は私にとってもしんどいものでしたし、今現在の若いHSPの人達も苦しい思いをしているようです。
青春の持つ苦しさみたいなもんだと私は思っていました。
ですが今では、HSPの存在が知られるようになって、HSP独自の葛藤や困難の回避方法、有効な活かし方、どういう仕事が向いているかまで、情報として世の中に出ているようです。
ハウツー本だけでなく、HSPやその関連の研究も、特にヨーロッパを中心に盛んに為されているらしいです。
私も、若い頃にHSPについて知っていたら、まったく違った人生を送っていたのではないかと思います。
HSPについては、今まで発達障害と間違われて診断されたりもしてきたようですが、人数が多いということもあり、今後は発達障害と並んで重要な概念になるのではないかと思います。
最後に、私にHSPの存在を教えて下さった紫苑さんと鬼蜘蛛おばさんこと松田まゆみさんに感謝申し上げます。
興味を持たれない方はスルーしてください。
HSPについてです。英語の Highly Sensitive Person の頭文字をとっています。
最近、日頃読んでいる二つのブログでHSPについて書かれていました。
一つは紫苑さんのブログ⇒ここ
もう一つは鬼蜘蛛おばさんこと松田まゆみさんのブログです。⇒ここ
それで興味を持ってHSPや、その関連領域について調べてみました。
HSPとは、生まれつき刺激に弱く、周囲の刺激を過度に受け取ってしまう人のことです。
HSPは気質であって病気ではないのですが、感受性の強さゆえに疲れやすく、病気になりやすい人達のようです。
人口の15~20%がHSPとのことですから、少数者ではあっても決して珍しいタイプではないようです。
このHSPの提唱者はエレイン・アーロン博士で、アメリカ在住の心理学者で心理療法家でもある女性です。
自分がHSPかどうか、テストできるサイトも幾つかありました。⇒ここやここ
私も一つだけでなく幾つかのサイトで試してみましたが、結果はどこもしっかりHSPと出ました(笑)。
私はもう60代半ばですので、自覚はしていなかったとは言えHSPである自分自身への対処の仕方も、自分の特性として心得てしまっています。(誰にでも学習能力というものがあるのです!)
さらにリタイア後である為、生き辛いという程の大きな困難もありません。
最近では、老化による感覚の鈍麻も自分を楽にしているようです。
というわけで今回、色々と過去を思い出しつつHSPについて知ったこと、考えたことを書いてみます。
実は私、自分が何らかの発達障害ではないかと、ずっと思っていました。
というのも、音に対する感受性が普通の人とまったく違うからです。
発達障害の人とその点とても似ているのです。
実際、それ以外にも、HSPと発達障害は似ているらしいのですが、似ているのは表面だけで、機制というか、仕組みは違うもののようです。
たとえば「カクテルパーティー効果」という現象があります。
カクテルパーティーのような騒がしい場でも、人が個別の会話を楽しむことができるのは、人の脳が自分の興味のある声や音のみ選択して聞くことが出来るからで、そのような選択的聴取をカクテルパーティー効果と言うのです。
ところが私の場合「カクテルパーティー効果」が弱く、騒がしい場で会話しようとしても相手の声を聴き分けることがとても困難なのです。
Wikipediaで「カクテルパーティー効果」について調べると、ここで書いたようなことが記されていますが、カクテルパーティー効果を持たない人として発達障害の人が挙げられています。⇒ここ
ただ、私の場合、逆のことも言えるのです。
大半の人に聞こえない物音が聞こえるのです。
例えば、床下の排水管の継手から極微量の水道水が漏れている音とか、電化製品にスイッチを入れる度に家の中の漏電部分が小さくパシッとショートする音などです。
このような音は、私が指摘して初めて私以外の人も気づきます。
私自身はもちろん、誰にも最初は何の音であるか分からず、あちこち調べて漏水や漏電が分かります。
当然、直すと音もしなくなります。
この例では役に立っているけれど、かつては朝早くからの家の中での家族の話し声など、ドアを閉めた自分の部屋で寝ていても自分の枕元で話されているのと同じで、睡眠不足になって随分困ったものでした。
たぶん私の場合、私自身の興味の有無や好き嫌いに関係なく、周囲のすべての音が元々の音量に比例して比較的平等に聞こえるらしいのです。それが私にカクテルパーティー効果が弱い理由のようです。
これは実は、本人にとっては、とてもしんどいことなのです。
大半の人が、自分が興味のない音や聞きたくない音を遮断できるのに、私はそうではないからです。
これには、いわゆる“聴力”は関係なく、あくまで脳の認知力に関係することです。
たとえば、正常性バイアスという言葉を聞いたことがある人もいると思います。
正常性バイアスとは、これもWikipediaから引用すると「自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。」とされています。⇒ここ
問題はその理由で「人間の心は、予期せぬ出来事に対して、ある程度「鈍感」にできている。日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応して疲弊しないために必要なはたらきで、ある程度の限界までは、正常の範囲として処理する心のメカニズムが備わっていると考えられる」というわけなのです。
逆に考えると、正常性バイアスがあまり効かない人は「心が過剰に反応して疲弊」することになります。
それはHSPの人の特徴そのものです。
動揺し、緊張し、その結果、疲れ果てます。
HSPでは、私の場合のように音ではなく、匂い、光、触覚、味、痛みというものに過敏である人もいるそうです。
私も音だけでなく味や触覚、光にも多少は過敏であるように思います。
こうしたHSPの特性から、HSPが慢性疲労症候群、線維筋痛症、化学物質過敏症といった難病と関係があるのではないかとも言われています。
ではなぜ敏感すぎてストレス耐性に弱い、難病とまでは行かないにしろ心身の病気になりやすいHSPが一定割合いるのかということも仮説があるようです。
そもそもは種としての生物の生存戦略の一つとして存在しているらしいのです(HSPの存在は人だけではないとか)。
私は先に、家族の誰も気がつかなかった漏水や漏電の音に気がついたことを書きました。
敏感な個体は異変に真っ先に気が付き、警告を発することができるのです。
一つの共同体の中の5人に1人が気が付けば、共同体そのものを救うこともあったでしょう。
日本のように同調圧力の強い社会では、HSPの人達は沈黙を強いられてしまうでしょうけど、通常ならば20%という割合は、種の生存戦略として絶妙な割合なのかもしれません。
近代以前ならば、現代のHSPの人達をしばしば打ちのめす人工的に合成された音も匂いも光もなかった筈で、HSPはむしろ強い人達だったかもしれません。
HSPについて、もう少し詳しく見てみますと、全般的に言われているHSPの特徴として、あるサイトには次のように整理されています。
①深く処理する
②過剰に刺激を受けやすい(過度な興奮)
③感情反応が強く、共感力が高い
④些細な刺激に対する感受性
①の、深く処理するとは、洞察する、深く考えるということです。
もっとも①の特徴のおかげで、私は敏感どころか鈍い人、とろい人と思われてきました(特に子供の頃)。
というのも、ちょっとした会話をするにも返答に時間がかかるからです。
時間がかかる理由は、HSPの場合、相手の言葉だけでなく態度や表情、さらには周囲の些細な状況など、非HSPの人に比べてはるかに多くの情報を無意識に受け取っていて、その情報の処理に時間がかかるからみたいなのです。
そして①から④の特徴のおかげで、HSPの人は生き辛いと言われているらしいのです。
確かにそれはその通りです。
ただHSPである人も学習します。
成長すると、自分が疲れると分かっている場面を意識的に避けるようになるのです。
私の場合、具体的には、一緒にいる人の声が聞こえないほど騒がしい場所には行かない。
イタリアンのお店に入ってもペペロンチーノは注文しない。(唐辛子が入っているから)
残酷なシーンのある映画や大きな音が予想される音楽は観ないし聴かない。
疲れやすいので何事も無理はしない。定期的に休息する。等々…。
もちろん、避けようのないまま、突然のように圧倒されることもあります。
以前、カナダのテレビドラマを観ていて、その中でカナダの先住民の少女が歌う、部族の弔いの歌を聴いて、号泣してしまい、聴いていられなくなってテレビのスイッチを消したことがありました。
別にうるさかったのではなく、言葉の意味が分からないまま、歌に情動的に反応してしまったのです。
突然で避けられなかったことはともかく、私は、若い頃は、どうでもいいことでゴチャゴチャ言う面倒くさい人と言われてきましたので、30代に入った頃から自分の思いや感じたことを滅多に口にしなくなりました。
成功しているかどうかは分かりませんが、表情もできるだけ平静を装うよう努めました。
HSPの人は芸術や自然に深く感動することが多いのですが、うっかりそれを口にすると、からかわれたり、馬鹿にされたりで、ひどく傷ついたことが過去にはあったのです。
ただ、自分が気づいて、これだけは言わねばと思うことは、よく調べた上で黙っていませんでした。
なぜかHSPの人の特徴として、正義感や倫理観の強さ、誠実さというのも挙げられていますので、それだったのかもしれません。
共感力が高いので、他者の気持ちや立場に寄り添えるとも言われていますが、実際に他者に関与するのはなかなか難しいものです。
正直、何かに気が付いても自分がしゃしゃり出ることはせず、その人の身近な人に任せるようにしています(相手の気持ちやら何やら、ゴチャゴチャ考えるのもHSPの特徴だそうです)。
余程の場合を除いて、私が相手に寄り添って行動を起こすのは動植物だけです。
動植物、とりわけ植物は共感的に寄り添うと良い結果を残します。
たとえば私は植物をほとんど枯らしません。
私より10倍も20倍も世話をしていながら、植物を枯らしてしまう人がたくさんいます。
話を聞いてみると、相手(植物)の状態に気づかないまま、ほとんどルーティンワークのように水やら肥料やらを与えているのです。
長い間、私は、そういう人がなぜ植物の欲していることを知ろうとしないまま、前のめりに「世話」をするのか分からなかったのですが、HSPについて知って初めて分かったように思いました。
非HSPにとっては、植物にたくさんの愛情はあっても、植物の状態を直観的に理解して、その上で適切なケアすることが困難なようです。
寄り添うとは、そういうことを意味するらしいのです。
当然というか、少なくとも私の場合、HSPだから特にやさしい人というわけではないのです。
HSPの共感力は性格ではなく本人も意図しない特性だからです。
むしろ人の痛みに気が付いていながら行動を起こさず、そのために罪悪感にさいなまれることの方が多いのです。
敏感すぎるがゆえに打たれ弱く、争いや葛藤は避けようとするのです。
20代の半ばくらいまで、HSPのそうした特性は私にとってもしんどいものでしたし、今現在の若いHSPの人達も苦しい思いをしているようです。
青春の持つ苦しさみたいなもんだと私は思っていました。
ですが今では、HSPの存在が知られるようになって、HSP独自の葛藤や困難の回避方法、有効な活かし方、どういう仕事が向いているかまで、情報として世の中に出ているようです。
ハウツー本だけでなく、HSPやその関連の研究も、特にヨーロッパを中心に盛んに為されているらしいです。
私も、若い頃にHSPについて知っていたら、まったく違った人生を送っていたのではないかと思います。
HSPについては、今まで発達障害と間違われて診断されたりもしてきたようですが、人数が多いということもあり、今後は発達障害と並んで重要な概念になるのではないかと思います。
最後に、私にHSPの存在を教えて下さった紫苑さんと鬼蜘蛛おばさんこと松田まゆみさんに感謝申し上げます。