緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

難しかった、拓本の研修

2021年07月16日 | ボランティア
ボランティア、そろそろ再開です。
先日、博物館でボランティアの研修に行ってきました。
滅多にしない研修で十数年ぶりだそうです。
これは万障繰り合わせて行かないとと思い行きました。
拓本の研修でした。

皆さん、久しぶりに会って話すことはワクチン接種のこと。
私も含め2度目が終わったばかりの人が多く、一度目より酷かったという人にも、何ともなかったという人にも「お若いから~」と言っておく(笑)。

そして研修が始まりました。
目の前に置かれていたのは発掘した尼崎城の瓦です。

この瓦の拓本を取ります。

ちなみに尼崎城ですが、明治初期の廃城令で、元々あったお城は取り壊され、今あるのは平成の築城と言われた新品のお城です。
場所も元あった場所とは少し離れています。
詳しくはココ

取り壊された跡地には学校やら住宅やらが建てられ普通の街になっていました。
そんな場所に新しいお城を建てるわけにはいかず、それで本来より少しずれた場所に建てられたのです。
ただ、その周辺、発掘すると尼崎城のものがたくさん出てくるみたいです。

さて、こんなガタガタの瓦礫みたいなもん、どうやって拓本を取るのか、博物館の学芸員さんに言われるがままにやってみました。

まず瓦の上に画仙紙の載せ、霧吹きやブラシで紙を濡らします。

ブラシはこんなの。

そうして乾いた雑巾で押さえるようにして画仙紙を瓦にピタッとくっつけるのです。

などと書くと簡単そうですが、あっと言う間に失敗します。
画仙紙が破れるのです。
写真のも、もう破れています。

その後、練墨をタンポに付けて、紙の上をポンポンと叩いていくのです。
タンポというのはこんなもんです。


叩き方もコツがいるのですが上手くいきません。

その後、紙を剥がして乾かしたら出来上がりです。

大失敗作です。😢

以上が紙を水に濡らして行う湿拓です。

次に教わったのは紙を濡らさない乾拓でした。
初めて知りましたが、乾拓では釣鐘墨と呼ばれる乾拓専用の墨を使うとか。

本当に釣鐘の形をしています。

拓本を取ったのは古銭。銭形平次が投げた?寛永通宝。

紙の間に挟んで、上から墨でこすります。

もう一つのやり方はカーボン紙を使う方法。
いずれも失敗しました。

初歩的ミスというか、擦っている時にコインがずれてしまうのです。

いかに自分が不器用かよく分かりました。

やり方を教わったら、あちこちの石碑の拓本など取りたくなりますが、その点も注意されました。
決して勝手にやってはいけないこと。必ず許可を得ること。
拓本を取る対象物を汚したり壊したりしないこと。

内心、マンホールの蓋の拓本をやってみたいと思いましたが、車にひかれそうですね。

何がボランティアなのかと思われそうですが、夏休みの博物館の子供向けイベントで拓本をやることになっていて、そのお手伝いをすることになっています。
自分が全然出来ないのに、はてさてどうなりますことやら。


ボランティア始め

2021年01月09日 | ボランティア
今日、今年初めてのボランティアに行ってきました。
例の昔の暮らし体験ですが子供達相手ではありません。

実は去年、文化財収蔵館はリニューアルして博物館になりました。
そのリニューアルした建物で、日を決めて来館した方々相手に色々と体験してもらう趣向なのです。
今回、体験してもらうことは綿繰りと糸紡ぎで、いつもと同じでした。

それと、子供さんに楽しんでもらおうと福笑いも用意されていました。
子供向けといっても、大人の来館者も結構楽しんでいました。
私も、一応体験しておこうと福笑いに挑戦。
結果は。

結構いい線いってます。

体験室には機織機も置かれています。
来月は機も織ってもらう予定らしいです。

機織機は、見ているだけでも市の歴史の一端が伺えます。


この機織機は大島紬の機織機です。
市民から寄贈されたものですが、阪神間になぜ大島紬の機織機があるかというと、市が戦後栄えた工業都市だったからです。
どういうことかと言うと、第二次世界大戦後、奄美大島や喜界島、徳之島といった奄美群島にはこれといった産業がなく、多くの人が職を求めて阪神間に移住したようです。

移住した男性は工場労働者になるのですが、家族として共にやってきた女性は大島紬の技術を持っているので、島から糸を送ってもらい、家で大島紬を織ったとのことです。
織りあがった大島紬は島に送られ、厳しい審査を経て大島紬として売られたそうです。
ただ、今ではそうした女性達も齢をとり、亡くなったりして、大島紬の機織機が市の博物館に寄贈されることとなったようです。

この博物館の大島紬の機織機で大島紬は織れるのかというと、そんな高度な技術を持ったボランティアはいませんので織れません。
でも普通の織機としても使えるので、普通に使っています。
大島紬の織り方は、ちょっと話を聞いただけでも気の遠くなるような作業なのです。
高価なのは当たり前です。

工業都市だった市は、様々な公害で全国に知れ渡るのですが、今では工場も少なくなり、臨海地帯の広大な工場跡地は21世紀の森として自然環境の復活を目指しています。
まさに日本の現代史の縮図です。
でも大島紬がそんな市で織られていたなんて、ちょっと意外です。

今日は寒かったのですが、それでも来館者はぼつぼつとありました。
今年はなるべくボランティアにも参加したいです。


茶綿、緑綿

2019年03月13日 | ボランティア
久しぶりに文化財収蔵館のボランティアに行ってきました。
でも3月ですから子供達への出張授業はもうないんです。
この日はボランティアの研修でした。

私は久しぶりに機織。
配色、もう少し考えたらよかった。

この日、初めて見たのは茶綿と緑綿。
通常、綿の色は生成り色ですが茶色や緑もあるんだそうで、以前に育てていたのを綿繰りしました。

これは採取した状態の緑綿。

綿繰りして種を取るとこうなります。

茶綿の綿繰りの様子。糸繰機を通すと種だけ手前に落ち、向こう側に種の取れた綿が溜っていきます。

茶色の綿、ミーちゃんの毛の色と一緒 
触るとツルツルした感じ。
和綿と全然違います。アメリカ産の綿なんだそうです。

この後、カーダーという機具で綿をフカフカに梳く作業があります。要するに綿打ちです。
それが終わってやっと糸紡ぎです。

茶綿の糸紡ぎもやってみましたが、ツルツルしていて、糸車を回しているとゴソッと綿を持って行かれたりします。
和綿の糸紡ぎよりはるかに技術が要ります。

文化財収蔵館ではそうやって作った茶綿や緑綿の糸は染色しないで、そのまま使うんだそうです。
以前は文化財収蔵館で茶綿や緑綿の栽培もやっていたのだそうですが、圃場がそれほど広くなく、数年経つと和綿と交雑してしまって色のついた綿が採れなくなったんだそうです。

研修も終わって帰り道、私が「今年のイカナゴはまだ安くならないのかしら」と言うと「みどりさん、作るのなら早く買わないと。大阪はもう漁は終わった」と言われてしまいました。
播磨の方はまだ終わっていないようですが、それもどうなるかという感じだそうです。

あわててスーパーで買いましたがキロ5000円 
お墓を見て貰っている親戚に毎年送っているので、今年だけ送らないわけにもいかず買いました。
その夜、くぎ煮を作りました。

自分ちの分は買えそうにないです。


質問

2018年08月20日 | ボランティア
8月は暑くてどこにも出掛けませんでした。
たまに予定のあった日は台風が来たり雨が降ったりで中止。
当然、カメラの方もご無沙汰。

そんな中、先日、市の文化財収蔵館の昔の暮らし体験ボランティアの研修に行ってきました。
その日の研修は藍染。
暑さのせいか2人しか参加者がいません。(実際は、ずいぶん涼しく感じられる日でしたが誰もが出不精になってる?)

この日私が作った藍染のハンカチです。


もう一人の参加者は今年ボランティアに入った人なのですが、一方で個人的に市の許可をもらって公園で藍を育て、市民を対象に藍染体験をしてもらう企画を持っていらっしゃる。
ですから、学芸員に対し、レベルの高い質問を幾つも投げかけていました。
おかげで、藍染の知識の復習になりました。

ボランティアスタッフはイベントでよく質問を受けるので、ある程度の知識が必要です。
まして自分が主催者で企画するとなると失敗できないので万全の準備が必要です。
当然何でも知っていないといけないのです。

私は単なるスタッフなので、これまで、付け焼刃の知識をあたかも何でも知っているかの如く応えてきました。
参加者の中にはそういう疑問を持つのかと、ちょっと驚く質問をされる方もおられます。
たとえば藍染については。

藍染を体験してもらうには大きくわけて二つの方法があるのです。
一つは藍の染液の中に布を漬けて染めてもらう方法。
もう一つは藍の生葉を使う方法です。

具体的には、白や生成りの布の上に、摘んだばかりの藍の葉を置き、その上に透明なビニールかラップを敷いて、木づちで叩いて直接布の上にワンポイントの葉っぱの模様を染める方法。叩き染めと言います。
後者の方法は葉っぱの模様しかできませんが、藍の生葉さへあれば可能な、お手軽な藍染です。
多少やり方が違いますが、詳しく載っているサイトもありますね。⇒ここ

藍染の親子体験教室で後者をやった時のこと、一人の参加者に「藍以外のどんな葉っぱでも染まるのですか?」と聞かれました。
『いやいや、それでは藍染にならないでしょ』と思ったのですが、お手軽な方法でやるとそんな疑問も抱かれるみたい。

「いえ、他の植物の葉で同じことをしても染まらないです。藍の葉で青く染まるのは藍の葉の中にインジゴという成分が含まれているからなんです。インジゴというのは・・・」と説明しなくてはなりません。
実は藍の葉の中に含まれているのがインジゴというのも正確な言い回しではないのですが。(-_-;)
藍染って単純ではないので、詳しく説明するのは大変。

その人は、私がちょっと説明するとインディゴブルーという言葉を思い出したみたいで、それで納得されました。
自分では当たり前のように思っていても、人にとっては全然当たり前じゃないことがあるんだと思い知らされました。

今まで受けた質問の中で、どう答えようかと、一番パニクッたのは子供からの質問でした。
それは昔の暮らし体験でも藍染めではなく、弥生時代の暮らし体験の出張授業の時のこと。
小学5年生の子供達に、弥生時代の衣服の貫頭衣を着てもらったり、火熾ししてもらったり、市内で出土した土器を見せたり触ってもらったりします。
土器については最初に、収蔵館の学芸員が持ってきた土器が約2000年前の弥生時代中期のものだと説明しています。

私が土器の前にいると二人の女の子が寄ってきて私に質問しました。
「西暦は何年から始まるのですか?」
私は『ええーっ???

そ、その質問の意味は・・・?? なんかヒネリのある質問なのか。
まるで三角形は何角か聞かれているみたいな・・・。
西暦ならゼロから始まるに決まっているじゃん。
いやいや、紀元前もあるから・・・。
それとも西洋以外の別の文明の暦(たとえばマヤ暦)で何年かという意味なのか・・・。

でも私は平凡に「ゼロから始まる」と答えました。
すると二人は顔を見合わせ、すぐに2人して私に「ありがとうございました」といって去っていきました。
でも去り際、聞こえてきた2人の会話は「やっばり西暦18年に作られた土器なんだ」で。
「君達、それは違う」と叫びたいところだったんだけど、私は土器の傍にいなくてはいけなかったのでそのまま。

学芸員は約2000年前と言った筈ですが、2人には「約」という言葉が消えて「2000年」という言葉だけが残っていたみたいなのです。
それで西暦18年と。
なんというデジタル思考!!
出土した土器に18年くらいの年月は意味がないんですけどね。
私はアバウトなおばさんでアナログ思考なもんで、デジタル思考にはついていけない。

子供達の感性には、それ以外にも時代の影響を感じさせることは色々あります。
子育て経験のある他のボランティアも驚いているので、私だけの思いではないみたいです。

というわけで、どんな質問にも答えられるように日々研鑽(?)です。


                                             

最後に、最近ご無沙汰のみーちゃんの写真です。

哀愁漂う後ろ姿のみーちゃんです。






高齢者相手のボランティア

2018年08月16日 | ボランティア
書き始めていて、途中でしんどくなって、そのままになっていた記事を書いてみます。私がかつて1か月ほどやって辞めたボランティアのことです。
ある意味、挫折体験なのですが、当時、私でもできるようなボランティア活動を探していて、幾つか行った一つです。

私がやっていたのは総合病院に入院中の高齢者を相手にしたボランティアでした。
その病院は先進的な試みを行っていて、それもその一つでした。
そうした試みは先進国の病院でも行われているもので、日本でも幾つかの病院で行われているものです。

最初に、午前と午後のほぼ一日かけて、そのボランティアのレクチャーを受けました。
病院の担当者の話によれば、高齢者が病気で入院すると、入院の原因となった病気は治っても、身体や精神の様々な機能が低下してしまうことがよくあるのだそうです。
たとえば、よく聞く話ですが、入院前はそうでなくても退院する頃には認知症を発症もしくは悪化してしまうというような。

そのボランティアは、ボランティアする人が患者に働きかけを行うことで入院中の高齢者の様々な機能低下を防ぐものだったのです。
具体的にはお話相手になったり、その日の新聞や雑誌を読んであげたり、カセットを流して唱歌や童謡などを一緒に歌ったり、あるいは車いすに乗せて病院内を散歩に行ったりです。
病院の看護師さん達は忙しくて、とてもそこまでは手が回らないので、ボランティアがやるわけです。
もちろん、ボランティアは介護や看護に類する行為は一切やりません。

一日かけてのレクチャーはそれ自体、とても勉強になり、細かい事なので書きませんが納得できることばかりでした。
ただ、その日のプログラムの中にはリーダー格の先輩ボランティアの話を聞くこともあったのですが、それには引っ掛かりました。
話をされた女性は、絵に描いたように典型的な下町のおばちゃんタイプの人でした。
その女性曰く、自分はおしゃべりが大好きで、このボランティアではおしゃべりがいっぱいできる、楽しくて楽しくてしかたがない。うんぬんかんぬん・・・。

聞いていて私は『???!!!』でした。
私だっておしゃべりは嫌いではないのです。
でもそれは気の置けない友人相手の話。
入院中の高齢者相手にくっちゃべって楽しんで、それってどうなんだと。
今さっき聞いたレクチャーでは自分本位のおしゃべりはNGだった筈なのに・・・。

その日のプログラムは、実際に病院内を移動する車いすの扱い方やロールプレイもあって、てんこ盛りだったので、引っ掛かったことは、それはそれで終わりました。

そしていよいよ実践です。(もちろんレクチャーを受けた日とは別日)
最初の3回(3日間)は先輩ボランティアが付きますが、それ以降は一人でやってもらうという話でした。
看護師さんが選んだ6人くらいの患者さんの所に順番にお伺いします。
選ばれている患者さん全員を相手にする必要はありません。
患者さんの情報も最初に頂きます。
それを見ると最初の患者さんは私と同じ齢でアルコール依存症の人。
その時点で『ええーっ!?』って感じ。
このボランティアはアルコール依存症の人も対象にするの??

病室に行ってもその人はいません。
病院の人に居場所を聞くと「〇×さんならさっき向こうで看護師さんに殴りかかっていたよ」という返事。
私は
先輩ボランティア(レクチャーで話した人とは別人)に「大丈夫なんでしょうか」と聞くと「大丈夫。私の亭主もアルコール依存症だったから」と 
確かに、会った時には興奮から覚めて反省していたのか妙に大人しかったですが。
そういうわけで、私は最初からイメージと違うことにモヤモヤ。

少しやってみて、分かったことは、高齢者へのアプローチの仕方が一緒に歌を歌うということにパターン化されていること。
人によっては、「足浴しませんか」と誘って、足を洗ってあげながらお話することもあるのですが、それって介護・看護に類することになるのでは、とそれもモヤモヤ。
もちろん、一緒に歌を歌うと、とても喜んでくれる患者さんもいました。
一方、明らかに不快そうで断る人もいました。

3回目から自分一人でやり始めたのですが、私が一番困ったのは、一回で6名くらいの患者さんが選ばれているのですが、内4、5名が眠っている事。
それも普通の眠り方ではなく、文字通り爆睡している事です。
少しくらい声を掛けても起きません。
仕方なく次の患者さんに移るのですが、それで良いのか悶々としました。

というのも、高齢の患者さんの場合、昼間寝てしまって夜眠れずに起きている人が多いのだそうです。
そうなると「ここはどこなの?」といった感じの譫妄状態に陥って、騒ぐ人もいるとか。
一人が騒ぐと周囲も起きてしまいます。
ただでさへ夜間は看護師さんが少ないのに、対応が大変な患者さんが何人も出てくることになります。
もちろん昼夜逆転は認知症の発症や重症化の契機にもなります。
このプログラムの何よりの目的は、高齢の患者さんの意識レベルが低下して譫妄状態に陥ることを阻止することなのです。

睡眠薬を使って夜眠らせるという方法もあるのでしょうが、睡眠薬は逆に酷い状態をもたらすこともあるようです。
(母の介護で経験がありますし、私は若い頃入院していて同室の高齢女性が睡眠薬の副作用で再入院したのも見ています)
私のやっていたボランティアは、昼間、そうした高齢者に介入して刺激を与えることで、夜に眠れるようにする意味が大きかったのです。

では実際に爆睡している高齢の患者さんを揺り起こして「さあ、一緒に歌を歌いましょう」と言えるかというと、少なくとも私は言えなかったのです。
爆睡している高齢者を顔も知らない他人が揺り起こしても、かえって混乱させることになりかねないし、そもそもボランティアを受け入れるかどうかは認知症であってもなくても本人の自由で、押し付けられることではないと考えるからです。
たとえば私が看護師で、患者に注射を打たなければならない立場なら、なんの躊躇いもなく叩き起こして注射するでしょうけど。

他の先輩ボランティアはどうしているか活動記録のノートを見ると、寝ている患者さんの傍で楽器を弾いて「聞いてくれてるようでした」などと書いています。
それに対する担当看護師のコメントは「きっと喜ばれていますよ」みたいな文面。
正直『ほんまかいな』です。要するにボランティアの自己満足ではないかと思えたのです。

その病院には、昼間ちゃんと起きていて、意識レベルもしっかりとした高齢の入院患者はいないのかというと、そういう患者さんももちろんいました。
ただ、そういう患者さんは夜間に問題行動を起こすこともないので、看護師さんはボランティアの働きかけの対象には選ばないみたいなのです。
実は最初のレクチャーの時にもらった冊子によれば、ボランティアの介入は早ければ早いほど良いとも書いてあったのですが、実際には状態が悪化してからでないと介入はされないようでした。
理由として、介入できるボランティアの数の問題もあったのでしょう。

私は寝ている患者さんにどう働きかけするのが良いのか、本当に悩んでしまいました。
先輩ボランティアのやり方には疑問がありましたし、私自身新参者で、あれこれ言える立場でもありませんでした。
考え続けて、その結果、私自身が夜眠れなくなりました。
ボランティアで眠れなくなるほど悩むなんて、私の本意ではありませんでした。
そこまで無理して続けるべきではないと思い、結局、そのボランティアをやめることにしたのです。
現金なもので、やめると決めると途端によく眠れるようになりました。

ではそこでは、自分がレクチャーを受けて、納得して思い描いていたような活動はできなかったのかというと、一度だけ当初のイメージ通りの活動ができたことがありました。
それはホスピス病棟の患者さんへの働きかけを頼まれた時です。
(ホスピス病棟の患者さんを相手にすることが稀にあることは最初に聞かされていました。)

ホスピス病棟の気持ちの良い応接室で、私が「若い頃、どんなお仕事をなさっておられたんですか」とお聞きすると、その方は生き生きとした様子で若い頃の仕事の話をされました。
私は時折相槌をうって聞くだけでした。
その方のお話や様子は今でも私の脳裏に残っています。

後にこの話を友人にしたところ、「みどりさんは〝傾聴〟のボランティアの方が向いていたんじゃない?」と言われました。
そうだったのか、たまたまの偶然だったのか分かりません。
その病院でのボランティアは、私には荷の重すぎたボランティアだったとしか言いようがありません。

入院中の高齢者への働きかけ自体は、とても重要なことだと思います。
このボランティアの後に兄が難病で入院しました。(私がボランティアに行った病院ではありません。)
その時につくづく働きかけの重要性を感じました。
働きかけをするのが家族では、患者がわがままになったり遠慮なしに感情を出してしまったりであまり良くはないのです。
ボランティアでなくても患者の友人や知人のお見舞いでも良いのです。
普通に気を遣うくらいの関係の人とのやり取りが、社会性を目覚めさせ、患者の意識レベルの低下を防ぐ助けになります。

兄の時は、同じ病室の入院患者全員がカーテンを締めきっていたこともあって、半数くらいの見舞客が来た事をメモ書きで残すこともなしに帰っていたことを後に知って閉口しました。
寝ている患者に話しかけることは本当に難しいらしいのです。