緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

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「一度きりの大泉の話」を読む 後編

2021年05月08日 | マンガ
萩尾さんは本の中で、本を書くに当たって「封印していた冷凍庫の鍵を探し出して、開けて、記憶を解氷いたしましたが、その間は睡眠がうまく取れず、体調が思わしくありませんでした。
なので、執筆が終わりましたら、もう一度この記憶を永久凍土に封じ込めるつもりです。」と書いています。

この言葉の意味は正確に受け取らなくてはなりません。
というのも、封じ込めていた20代前半の昔の事を書いているのに、読者のレビューではまるで今現在のことのように「萩尾さんは自己評価が低い人だ」と書いている人もいるからです。
(解氷したがゆえに時間による風化がないので、とにかく生々しいという事情もあります。)

と同様に「24年組」のことや大泉サロンについても、萩尾さんは本の中で、強い口調で自分とは無関係、そんなものと自分を関連付けて語って欲しくないと書いているのですが、それを読んだ複数の読者が「もう24年組や大泉サロンという言葉は使えない」と書いているのです。

実際には大泉サロンには多くの人が集まり、その場を経て少女マンガ作家になった作家が何人もおり、萩尾さんを含め24年組と称するしかない作家達がいるにもかかわらず。
それもまた、読者が解氷された50年前の萩尾さん痛みに満ちた感情に引きずられた結果だと思います。

萩尾さんにとってその出来事は、凍り付いたまま保存され、少しも動いていないのです。
まともに向き合い克服することができなかった、それほどまでの出来事だったということです。
読者は、24年組や大泉サロンという言葉を使う時、今後はそこまでのことがあった人達であり場所だったのだと認識して使うしかないのです。

同様のことは少年愛の表現を巡っても起こっています。
本の中で萩尾さんは自分の作品は少年愛なんか描いていないと書いています。
そこで多くの読者は「萩尾さんの作品は今のBL(ボーイズラブ)とは異質だと感じていたが腑に落ちた」とレビューで書いています。

読者はここでも時の流れというものを見ないで物事を見ています。
現在のBLは、かつての少女マンガの少年愛ものが、エンターテイメントとして究極まで商業化した作品群だということを認識していないのです。
萩尾さんの作品がBLと異質であるのは当たり前です。

(BLって何? と思う人のために簡単に説明しておくと「オッサンズラブ」のようなテレビドラマで、今ではすっかりメジャーになりましたが、主に女性作者による女性を読者とした男性同士の恋愛ものの作品のことです。
こうした作品は今ではエンタメの一ジャンルを獲得してますし、日本以外のアジア諸国でももてはやされています。
さらにいうならアンダーグラウンドの文化としてアメリカでも長く存在していたようです。)

では今から50年前、1970年代初頭の日本において少年愛ものの表現とはどういうものであったか。
「一度きりの大泉の話」を読むと、まさにそこに竹宮さんの一方的な決別宣言の理由があったことが伺えます。

事情はこのようです。
萩尾さんを介して竹宮さんと増山さんは出会いますが、二人はすぐに少年愛への嗜好において意気投合しています。
まるで魂の双子のようにその趣味がピッタリと一致し、離れがたい双子のようになったようです。

当時、竹宮さんは、頭の中に突然、少年愛をテーマとしたストーリーが考えることなく流れてきて一晩かけてそのストーリーを増山さんに電話で話しています。
それが元祖BLと言われる竹宮さんの「風と木の詩」です。

「少年の名はジルベール」によると、竹宮さんは「風と木の詩」を雑誌連載という形で描くことを強く望みました。
ですが当時、そんな作品が少女マンガ雑誌に掲載される筈がないものでした。
登場人物が男の子ばかりで同性愛が描かれていて、しかも裸で絡み合うシーンまであるわけですから。
それでも竹宮さんは出版社の編集者に幾度となく交渉し、説得し、懇願していますが、その度却下されています。

「少年の名はジルベール」によると、当時の竹宮さんは、少女マンガ作家として一番乗りでその種の作品を描いてみたかったようです。
にもかかわらず、竹宮さんは発表の機会が与えられなかったのです。

一方で萩尾さんの方は、好きなように作品を描いても、それが無条件で雑誌に掲載されるという形で編集者にも可愛がられていたようです。
中でも「ポーの一族」はヒット作となり、普段なら少女マンガなど読まないし論評もしない文芸評論家や文化人も取り上げ、高く評価されるという状況にありました。

そこで少年愛です。
本人が言う様に萩尾さんには少年愛への嗜好がなかったのか。
作品を読むかぎりあったと思います。
ただ同じ事柄を取り上げても萩尾さんの場合、作品の位相が常に異なっていました。
(これについて私がここで論証しようとすると論文書くみたいになるので止めときます)

たとえば増山さんは自分の好きな作品だとすべて少年愛に関係づけてはしゃぐという癖があったようです。
どう読んでもそんな小説ではないヘッセの「デミアン」も最後にキスシーンがあることで少年愛が描かれた物語だというふうに。

実は増山さんという人だけでなくて、そういう女性は珍しくなく、冗談や遊びで言っているのではなくヘッセの「車輪の下」を少年愛の話だ思い込んでいる人や、映画の「戦場のメリークリスマス」をホモの話だと言う人も私自身、見てきました。
今風な言葉で言うと“腐女子”です。
こと少年愛=男性同性愛の話になるとタガが外れたようになって浮かれ騒ぐ女性達のことです。
萩尾さんはそういうタイプではなかったのです。

竹宮さんも「少年の名はジルベール」で、当時は気が付いていなかったこととして、少年愛を描くにしても一部の腐女子的な人が喜ぶ作品を描くのではなく、作品の普遍化を図らなければならなかったという意味のことを書いています。

いずれにしても「ポーの一族」は濃厚な少年愛の雰囲気を漂わせていても、直接的には描いていなかったのです。
「ポーの一族」は幾つかの短編と長編で成り立った連作で、その中で「小鳥の巣」というドイツのギムナジウムを舞台にしたものを連載し始めた時、萩尾さんにとっての悲劇は起こったようです。

竹宮さんの「風と木の詩」もフランスを舞台にした男子寄宿舎もので、設定が被っていました。
竹宮さんは「風と木の詩」のクロッキーを多く描いていて、大泉サロンでも萩尾さんを始め、そこに集った人に見せていたのです。
当時、萩尾さんを前にして竹宮さんが恐れていたことは、自分より先に少年愛ものの作品を萩尾さんが描くのではないかということだったのではないでしょうか。

雑誌に掲載された「小鳥の巣」を読んで、竹宮さんは疑心暗鬼にかられたのでしょう。
その頃は既に大泉から離れ、竹宮さんは増山さんと二人でマンションに住んでいましたが、ある夜、竹宮さんは萩尾さんをマンションに呼び出し、増山さんと共に「小鳥の巣」が自分の「風と木の詩」の盗作ではないかと問い質したのです。

実はこの辺りの事は竹宮さんの「少年の名はジルベール」には詳しく書かれておらず、萩尾さんの「一度きりの大泉の話」に詳しく書かれています。

萩尾さんはショックのあまり抗弁しようにも頭が真っ白になって何も言えなかったそうです。
竹宮さんも自分の疑心暗鬼にすぐに気づいたのでしょう。
三日後、萩尾さんが住むアパートに訪れ、三日前に言ったことは自分の勘違いだった、すべて忘れてほしいと言い、一通の手紙を萩尾さんに渡して帰ったそうです。
手紙の内容は、平たく言えば絶縁したいということでした。

そもそも萩尾さんにとって竹宮さんも増山さんも、自分を抑圧的な親の家から救いだし、好きなマンガを自由に描く機会を与えてくれた恩義ある人達であり、その知見を尊敬もしていた親友でした。
晴天の霹靂のような盗作疑惑が誤解で、それが解けたのなら、また仲良くしましょうになる筈なのに絶縁したいと言ってきた。

自分の何が悪かったのか分からない。
自分がマンガを描くことが悪いのか。
結局、盗作を疑われた夜に言われたことが原因ではないかと思うに至ったようです。
「一度きりの大泉の話」による、そこで二人に言われたこと。

「私たちは少年愛についてよく知っている。でも、あなたは知らない。なのに、男子寄宿舎ものを描いている。でも、あれは偽物だ。ああいう偽物を見せられると私たちは気分が悪くてザワザワするのよ。だから、描かないでほしい」

もう一度確認すると「一度きりの大泉の話」では萩尾さんの感情は50年前に戻っています。
当時、竹宮さんと激しくシンクロしている増山さんには普段から「あなたは少年愛が分かっていない」的なこと言われ続けていることもあいまって、その夜の言葉は少年愛ものから自分を排撃する言葉として響いたと思います。

結局その経験が「一度きりの大泉の話」の中で、しつこいほど自分は少年愛を描いたことはない、自分には少年愛は分からないという言葉になって出てきたのではないかと推測されます。
(そこには二人から身を守る自己防衛的な態度も感じます)

と同時に大泉サロンなんてものも知らない、24年組などという言葉でくくられたくない、なぜなら自分はそこから二人に放逐された人間なんだからと言わんばかりの書きようになったのではないかと思います。
すべてはあの夜と手紙で終わってしまったのだと記しているのです。

「一度きりの大泉の話」の読者が、安易に50年前の萩尾さんの自己防衛的な感情に同調するのは、私は正しいことではないと思い、これを書きました。
第一それでは萩尾さんの作品そのものも読み間違えてしまいます。

竹宮さんもお気の毒です。
50年前の竹宮さんにとって、萩尾さんから離れることは自分が自分でいられるギリギリの選択だったと思います。

私は覚えています。
本によると萩尾さんは当時、ストレスからくる心身症で眼が悪くなり、イギリスに5か月ほど行っています。
たぶんその時のことでしょう、イギリス便りのような形でイギリスでの出来事をイラストエッセー風に雑誌で掲載していました。

ある夜、ホームステイ先の家族とともに萩尾さんは歌手のクリフ・リチャードの公演に行きます。
そのステージに感動した萩尾さんは、歌い踊るクリフ・リチャードのイラストと共に、その夜のクリフ・リチャードについて
「あれは少年 まさに少年 爬虫類のよう 男色家のよう」
と讃えていたのです。

少年愛が分からないなんて、どの口が言うのって感じです。
おそらく増山さん流のそれではなく、そこに爬虫類という言葉が併記されていることからも、もっと深い、人の普遍的・神話的なイメージとしてそれを理解していたのだと思います。
たぶん、そういう感性を竹宮さんは何より恐れたのだと思うし、萩尾さんの少女マンガが文学を超えたと言われる所以でしょう。

でも、そういう感性を持った人間がどんな犠牲を払うかも、未だ癒えない50年前の傷を見ることで読者は知らされたのです。


「一度きりの大泉の話」を読む 前編

2021年05月01日 | マンガ
久しぶりに重い読書体験でした。

「一度きりの大泉の話」は少女マンガ家の萩尾望都さんが漫画家として活動し始めた最初のころの話を中心に書かれた本です。
そんなもんに興味のない人は読まずにスルーしてください。

少女マンガについて、ある程度詳しい人は、それまでの少女マンガとはまるで異なる画期的な表現を始めた「24年組」と呼ばれる一群の少女漫画作家達のことや、その人達が集った大泉サロンと呼ばれた場所のことはご存知だと思います。

24年組と呼ばれたのは、昭和24年前後に生まれた作家達だからであり、大泉サロンというのは、その中の中心的な二人、萩尾望都さんと竹宮惠子さんが共同生活を送っていた長屋が東京の大泉にあったからです。(以下、煩瑣になりますので人名については一回目はフルネームで書き、2回目以降は苗字のみとさせていただきます。)

この本が書かれた理由は、萩尾さんによると、竹宮さんが自伝「少年の名はジルベール」(2016年刊)を出版されて以降、自分に対して当時のことを執拗に尋ねる人が多くなったこと、何度断ってもその本を読むように言われたり、果てはテレビ局から大泉時代のドラマ化の企画までもちこまれたりして、落ち着いて仕事が出来なくなったこと。
それで仕方なく、(心の中の)永久凍土の下に封じ込めていたその当時の話を最初で最後のこととして書くことにしたとのことです。

私はというと、竹宮さんの自伝「少年の名はジルベール」を1年くらい前に読んでいました。
理由は、偶然読んだあるブログのコメント欄に書かれていたことを確認したかったからです。
そのブログでは、萩尾さんも竹宮さんも文化のない地方から東京に来た。
そこで東京人である増山法恵さんに出会い、彼女から本や映画などの知識を授けられて優れた作品を書くに至った。
東京ってすごーい、みたいな論調で盛り上がっていました。

私はそれを読んで、今時「地方には文化がない」などと平気で地方差別的なことを言う人がいるのかと驚きました。
しかも、そういう事で嬉々として盛り上がる東京人達って何なんだとも思いました。
第一、そういう言い方は萩尾さんや竹宮さんに対して失礼ではないかとも。
ただ、そんな風に自信を持って言われる背景を知りたくて「少年の名はジルベール」を古本で買って読んだのです。

「少年の名はジルベール」を読んで分かったことは、ブログに出ていた増山さんという人は当時、無償のプロデューサー的な役割をしていた人だったらしいということ。
雑誌で萩尾さんの最初期の作品を読んで手紙を書き、友達になって萩尾さんが東京に出てくる手伝いをしたのは彼女でした。

当時、増山さんは表面的には音大を目指す浪人生だったようですが、音大を目指していたのは親だけで、当の本人は受験をなげうっており、少女マンガに新風を吹き込むことを熱心だったようです。

といっても本人はマンガを描かず、自分の目から見て有能な作家達を集めて新しい少女マンガの潮流を作ることを目指していたようです。
萩尾さんと竹宮さんが住むことになる大泉の長屋は彼女の家の向かいにあり、その場所を決めたのも増山さんでした。

増山さんは、いわゆる良家の子女で、ピエール・ブルデューの言う、生まれの良さによる“文化資産”を持った人であり、それなりに高い教養や美意識があったようです。
そして自分の芸術上の価値観や美意識に自信があり、読むべき本や見るべき映画などを萩尾さんと竹宮さんに薦めていたようです。
さらにその彼女が実質的に大泉に来る人達も選んでいたとのことです。

たとえば萩尾さんや竹宮さんに送られた漫画家志望の人達のファンレターを読んで、マンガに対し意欲的で見込みのありそうな人だと「この人は招待しよう」というふうに。

そうやって意欲的な人が集まると、既存の少女マンガに飽き足らない既にデビューしていた作家達も出入りし始め、マンガ作家や作家の卵の溜まり場のような大泉サロンは出来たみたいです。

ですが大泉での二人の共同生活は1970年から1972年までの2年で終わっています。
理由は「少年の名はジルベール」によると、竹宮さんによる萩尾さんの才能に対する嫉妬でした。
竹宮さんは萩尾さんの傍にいることが耐えられなくなって大泉から逃れ、その後はっきりと別れを告げたとのことです。

自らの若き日の嫉妬を明らかにし、その後の少女マンガ家としての自己確立と成功を記した「少年の名はジルベール」は概ね好感をもって読まれました。
それが結果的に世間の大泉サロンや24年組についての興味を引き出し、萩尾さんに対するメディアからのアプローチが増えた原因になったようです。

萩尾さんが書いた「一度きりの大泉の話」は、彼女が永久凍土に封印していた大泉の記憶を溶かして掘り出したものであり、読者は彼女が50年前に竹宮さんから受けた生々しい傷を見せられることになります。

たぶん竹宮さんにとっても予測できなかったのは、若き日の竹宮さんが萩尾さんの才能への嫉妬でのたうち回りながらもそれを克服したのに反し、萩尾さんがいまだ受けた傷が癒されないまま永久凍土に封印することで前に進んだ事実でしょう。

ネットで読める本のレビューを読むと、その傷はあまりにも生々しいので、一部の読者は短絡的に怒りにかられ「今後、竹宮惠子の本は読まない」と書いていたり、逆に、50年も前の二十歳そこそこの頃のことをいまだに根に持っているとして萩尾さんの人格を批判したりもしています。

もちろん私はこのブログで萩尾さんや竹宮さんの人格批判はするつもりはないです。
私としては、この本やこの本のレビューを読んで思ったことを、コアな話で少々分かり辛いかもしれませんが幾つか書いてみたいと思います。

長くなりそうなので、後は後編へと続きます。


「ポーの一族」のことなど

2019年12月23日 | マンガ

もう終わったのですが、大阪梅田の阪急百貨店で、ポーの一族展が開かれていました。

「ポーの一族」は知る人ぞ知る萩尾望都さんの少女漫画で、去年だったか、私は観ませんでしたが宝塚歌劇で舞台化もされました。

友人と梅田でランチすることになったので、友人に会う前にポーの一族展を見に行きました。
主に「ポーの一族」の原画が展示されていたのですが、人が多くて見づらかったです。

原画は写真撮影は禁止でした。
宝塚歌劇で使用された衣装の方は撮影スポットになっていてOKでした。

原画の方は、どれも皆、見覚えのあるものばかりでした。
若い頃、何度となく繰り返し読んだのですから当たり前です。

私は萩尾望都さんの作品のファンで、きっかけとなったのが「ポーの一族」だったのです。
私くらいの年代では、そういう女性は多いと思います。
雑誌で連載されていた頃(1972年~)は、読み返す度に切なくて胸が締め付けられる思いでした。

当時、萩尾さんはもう一方で「トーマの心臓」という、大人になる事=子供時代の死をテーマにした作品も描いていたのですが、もう一方の「ポーの一族」は14歳の少年のまま永遠に死なない吸血鬼が主人公で、全くの別作品ながら、まるで表と裏のような作品世界でした。(「トーマの心臓」では主人公の少年は神父になる決心をし、「ポーの一族」では吸血鬼のまま・・・。)

2017年に40年ぶりに「ポーの一族」の続きが刊行され、私も読んでみたのですが、かつての「ポーの一族」とは別の作品のようでした。
なんていうか、かつての作品には作者自身意識していない深い意味があったように思います。

ここで、萩尾望都さんの作品について、私がかつてなるほどと思ったことを書いてみます。
興味のない方はスルーしてください。
芸術や思想系の雑誌で萩尾望都さんの作品の特集が組まれることはよくあるのですが、その内の4、5年前に刊行された一冊の中で書かれていたことです。(その雑誌が見当たらないので以下記憶のまま書きます)

「ポーの一族」以降、人気作家となった萩尾さんは、出版社に勧められて、自分がマンガ作家としてやっていくための会社「望都プロダクション」を1977年に設立します。
そして会社の代表にしたのが、それまで勤めていた会社を定年退職した自分の父親でした。
そんなふうに経営面を家族に任せることを勧めたのも出版社のようでした。
そこで母親もまた萩尾さんの仕事に口を出すことになりました。
その結果、両親と大喧嘩になってしまったとのことなのです。

雑誌に書かれていた萩尾さんのお姉さんの言葉によれば、母親は萩尾さんの作品のキャラクターをグッズにして、それを売りだすことを考えるようなタイプだったそうです。
要するに完全に金儲けまっしぐらです。

会社代表となった父親の方はもっと酷いものでした。
少女マンガに限らず漫画家はアシスタントを雇って作品作りのお手伝いをしてもらいます。
アシスタントになる人は自らもまた漫画家志望で、アシスタントをしながら作品作りの技術的なノウハウを学び、力をつけてデビューを待つのです。

ところが父親は、萩尾さんがアシスタントにマンガの描き方を教えているのだから、アシスタントに給料を支払う必要はない。むしろアシスタントから教授料としてお金をもらうべきだという考えだったのです。
これまた自分の金儲けだけを考え、人は搾取と収奪の対象でしかないという考えです。
仮に父親の考えを実行したら望都プロダクションにアシスタントは来ないでしょう。
同様のことを日本のマンガ界が実行したら、後進は育たず、世界に誇る日本のマンガ文化は壊滅するしかないでしょう。

萩尾さんは、自分はお絵かき教室の先生をしているのではない、漫画家なんだと父親を説得したそうですが、父親はまったく納得せず、萩尾さんは結局2年で自ら会社を壊し、両親には引き取ってもらったそうです。

どんな業界でもその業界の流儀があり、誰でも説明されれば多少は納得するものですが、父親がまったく納得しなかったこと-会社設立時から随分経ったその雑誌の発刊時でも「娘は世の中のことを何も知らないから」と語っています-は、萩尾さんにとっては大変な困難だったと思います。

母親の方も同じ雑誌のインタビューで、娘には漫画家ではなく絵本作家になってほしいみたいなことをまだ言っていて、これまた少女マンガに革新をもたらし、文学を超えた表現に変えた萩尾望都という作家の偉大さが全然分かっていない様子。
(同様の事例としてピーターラビットを描いたビアトリクス・ポターとその母親との関係が思い出されます。)

萩尾さんはそのような両親との葛藤を経て、内なる親と向き合うべく心理学を学び始めていたそうです。
一読者としての私は、萩尾さんの会社設立や両親との葛藤など、まったく知りませんでした。
ただ1980年代に入って、萩尾望都の作品には親殺し等、親との葛藤をテーマにしたものが現れ、そうした作品もまた衝撃的だったのです。
実のところ、親との関係には似たような体験をしてきていたからです。
それは私だけではなく、私の当時の友人達においても同様でした。

実は当時の私の友人知人の内3人が、母親が今でいう統合失調症や鬱を病んでいました。
そのために母親を自殺で無くしていたり、母親が服薬中で抜け殻のようだったりしたのでした。
(父親が精神を病んでいたという話は聞いたことがありません。)
これは今でも語られることのないことでしょうが、私達の親の世代の女性達は、優秀であったり繊細であったり前向きで野心的であったりすればするほど狂気スレスレで生きていたと思われます。
私の母も精神こそ病んでいませんでしたが、新興宗教のキ×ガ×信者でした。

当時、子供達が母親の在り方を原因として精神を病むことが母原病として取沙汰されたりもしていましたが、そのように見えるのは母達が自分が抱えきれない問題を子供に負わせていただけだったと思います。
萩尾さんの作品はその問題を子供の立場から根源的なところで掬い取っていたのでした。
そのような作品を衝撃的と言わずして何と言えるか。

初期の「ポーの一族」のような作品では、直接的な親との葛藤みたいなものは描かれていません。
でも作者と両親の隠れていた関係を知ってもう一度「ポーの一族」という作品を見ると、実は象徴的レベルで世の中と自分自身との関係が描かれていたことが分かります。

たとえば、どのような社会でも自分達が生きている社会は、良い時は平穏でも、危機的状況になるとその本質を剥き出しにすると私は思っています。
ちょうどリーマンショックの頃、町に失業者があふれた時、それでも儲けている会社がありました。
そのような企業の経営者は、テレビを始めとしたメディアでは寵児でした。

数年後、そうした企業がブラック企業だったことが明らかになるのですが、どうやって儲けていたかその一例。
普通なら社員に無料で貸与するユニフォームを、社員の給料をカットする形で買い取らせていたとか、普通なら会社の必要業務の一環である労務管理の費用を管理費として社員の給料から徴収していたというようなことです。
こういう発想は萩尾さんの父親のアシスタントに対してとった発想と近似しています。
いずれも弱い立場の人の生き血を吸い取って自分は肥え太る発想です。

「ポーの一族」は、自分が人の生き血を吸い取ってしか生きられない吸血鬼であることを呪う吸血鬼の少年が主人公です。その養父は人を餌としか考えない酷薄な吸血鬼です。
萩尾さんの父親が言ったように、若い頃の萩尾さんは、意識レベルでは「世の中のことを何も知らな」かったかもしれないのですが、無意識のレベルでは世の中がどんなものか、そして自分が否応も無く何者であるかも知っていたと思います。
自分がどこにも属せないその悲しみを「ポーの一族」は描いていたのでした。
だから「ポーの一族」は頭で考えて作れる作品ではなかったのです。

今の私は萩尾望都の作品の良き読者とは言えないと思います。
難しいと言われていた「銀の三角」も「マージナル」もとても好きな作品でした。
でも「残酷な神が支配する」以降、萩尾さんの作品を読んでも、それまでの作品では感じられたカタルシス=心の浄化がまったく感じられなくなったのです。

原因は何よりも齢を取って立場を同じくしなくなっているからでしょう。
今の萩尾さんは、交友関係もおじさん文化人と交流し、おじさん文化人のアイドルみたいになっています。
そういう人達から受ける発想は私とは相いれないのではないかと思います。
「ポーの一族」の再開も、そういうおじさん文化人の一人からのリクエストだったそうです。
齢が齢ですので、好きなように作品を描かれれば良いと思います。



                                             

12月も下旬となり、ようやく暇になりました。
12月になってようやく割れたミツバアケビの実。

収穫したらこれだけありました。
やっぱり不気味ですね。

毎年12月になるとサンタを飾る町内のお家です。
よくよく見ると大きいサンタの顔の向きが変です。

2019年も終わります。
後は大掃除だけです