「庭のしだれ梅が咲いたので見に来て」と友人に誘われ、川西市にある友人の家まで行きました。
川西市は兵庫県ですが、同じ兵庫県の私の家から行くには阪急電車で大阪府の十三まで行き、そこで宝塚線に乗り換えて川西能勢口駅まで行き、そこから能勢電鉄に乗って行かなくてはなりません。
つまり一旦は県境をまたいで、もう一度戻ることになります。
能勢電鉄はローカルな電鉄会社ですから関西人しか知らないかもしれません。
絹延橋、滝山、鶯の森、鼓滝(つづみがたき)と、床しい駅名が続きます。
正直、今私が住んでいる所より住みたい地域です。
友人は認知症になった母親を介護するために実家で二人で暮らしていましたが、結局母親は施設に入所しました。
その後、コロナ禍で夫のいる家に帰りそびれ、そのまま一人で川西市の実家に住んでいるのです。
駅で待っていてくれた友人と、まずは近くの料亭の個室でランチ。
その後、友人の家に行きました。
庭のしだれ梅です。家の中から撮りました。

近くから撮った写真。

この日、私は着物で行きました。
友人は着物が好きなのです。

コートを脱ぐとこんな感じの着物。安くで手に入れたカジュアルな紬です。
朝、自宅で撮りました。

友人の家の庭は手ごろな大きさで、樹木を数本植えているだけ。
我が家の庭も、あのくらいの広さなら随分楽だろうなと思いました。
茶道の先生の庭もこじんまりとしていて、隣の家の芝生は青いというか、他所の家の庭は狭くて羨ましいです。
この日会った友人は、最近キリスト教に入信しています。
私より一つ年上なのですが、なぜ60代も半ばを過ぎて受洗しようと思ったのか、分かりません。
ただ以前、彼女が感激した様子でキリスト教の教えについて語るのを聞いていて、ふと『その教え、浄土真宗と近いのではないの』と思ったことがあります。
その時に思い出したのですが、ある著名なクリスチャンの医師が、やはりキリスト教の教えについて話していると、その人の友人から「浄土真宗でも同じことを言っている」と言われたらしいのです。
でもその医師は、確かにそうかもしれないが、自分には救い主が阿弥陀仏という漠とした存在ではなく、イエスキリストという生身の人間だったことに意味がある、と思ったのだそうです。
正直、私はキリスト教も、浄土真宗も、よく知りません。
それこそ漠とした、知識ともいえない知識があるだけで、言葉で詳しく説明せよと言われても口をモゴモゴさせるだけしかできません。
でもまあ一応、家は浄土真宗で、仕事をやめた時点で帰敬式(おかみそり)という、以後は念仏者として自覚を持って生きる儀式を東本願寺で受け、法名をいただいています。
それが、現役生活を終えた私にとっての終活の第一歩だったわけです。
友人の受洗も、新たな一歩であり、一つのけじめだったのかもしれません。
この日は友人はキリスト教の話はせず、実家で自分がやった断捨離がどれほど凄かったか熱弁していました。
私達の世代は、親が溜め込んだ物を片づけるのに、異様にエネルギーを使う世代みたいです。
私も母の死後、大量の物を処分しています。
話を聞いていて、高価な物をゴミとして処分したことに、もったいないという思いもあるのですが、そうまで物に執着せざるを得なかった親達の心の在り様に何とも言えない思いを持ちました。
以前行っていた同じ年代の美容院の美容師さんも同じような話をしていて、母親が亡くなって片づけをしていたら、フライパンだけでも新品の物が10個ほど出てきたと言っていました。
友人も、母親が買った未使用の食器類が山ほどあったそうです。
親のそういうのを見てしまうと、何やら自分は物に執着したくないという宗教的境地(!?)への憧憬も、少なくとも私は生まれてしまいます。
てなことを言いながら私の物欲も相当なものなんですが(笑)
この日はとても寒い日で、家に帰って着物を脱ぐと静電気でバチバチでした。
着物は絹の筈なのですが、静電気対策を考えねばと思ってしまいました。
川西市は兵庫県ですが、同じ兵庫県の私の家から行くには阪急電車で大阪府の十三まで行き、そこで宝塚線に乗り換えて川西能勢口駅まで行き、そこから能勢電鉄に乗って行かなくてはなりません。
つまり一旦は県境をまたいで、もう一度戻ることになります。
能勢電鉄はローカルな電鉄会社ですから関西人しか知らないかもしれません。
絹延橋、滝山、鶯の森、鼓滝(つづみがたき)と、床しい駅名が続きます。
正直、今私が住んでいる所より住みたい地域です。
友人は認知症になった母親を介護するために実家で二人で暮らしていましたが、結局母親は施設に入所しました。
その後、コロナ禍で夫のいる家に帰りそびれ、そのまま一人で川西市の実家に住んでいるのです。
駅で待っていてくれた友人と、まずは近くの料亭の個室でランチ。
その後、友人の家に行きました。
庭のしだれ梅です。家の中から撮りました。

近くから撮った写真。

この日、私は着物で行きました。
友人は着物が好きなのです。

コートを脱ぐとこんな感じの着物。安くで手に入れたカジュアルな紬です。
朝、自宅で撮りました。

友人の家の庭は手ごろな大きさで、樹木を数本植えているだけ。
我が家の庭も、あのくらいの広さなら随分楽だろうなと思いました。
茶道の先生の庭もこじんまりとしていて、隣の家の芝生は青いというか、他所の家の庭は狭くて羨ましいです。
この日会った友人は、最近キリスト教に入信しています。
私より一つ年上なのですが、なぜ60代も半ばを過ぎて受洗しようと思ったのか、分かりません。
ただ以前、彼女が感激した様子でキリスト教の教えについて語るのを聞いていて、ふと『その教え、浄土真宗と近いのではないの』と思ったことがあります。
その時に思い出したのですが、ある著名なクリスチャンの医師が、やはりキリスト教の教えについて話していると、その人の友人から「浄土真宗でも同じことを言っている」と言われたらしいのです。
でもその医師は、確かにそうかもしれないが、自分には救い主が阿弥陀仏という漠とした存在ではなく、イエスキリストという生身の人間だったことに意味がある、と思ったのだそうです。
正直、私はキリスト教も、浄土真宗も、よく知りません。
それこそ漠とした、知識ともいえない知識があるだけで、言葉で詳しく説明せよと言われても口をモゴモゴさせるだけしかできません。
でもまあ一応、家は浄土真宗で、仕事をやめた時点で帰敬式(おかみそり)という、以後は念仏者として自覚を持って生きる儀式を東本願寺で受け、法名をいただいています。
それが、現役生活を終えた私にとっての終活の第一歩だったわけです。
友人の受洗も、新たな一歩であり、一つのけじめだったのかもしれません。
この日は友人はキリスト教の話はせず、実家で自分がやった断捨離がどれほど凄かったか熱弁していました。
私達の世代は、親が溜め込んだ物を片づけるのに、異様にエネルギーを使う世代みたいです。
私も母の死後、大量の物を処分しています。
話を聞いていて、高価な物をゴミとして処分したことに、もったいないという思いもあるのですが、そうまで物に執着せざるを得なかった親達の心の在り様に何とも言えない思いを持ちました。
以前行っていた同じ年代の美容院の美容師さんも同じような話をしていて、母親が亡くなって片づけをしていたら、フライパンだけでも新品の物が10個ほど出てきたと言っていました。
友人も、母親が買った未使用の食器類が山ほどあったそうです。
親のそういうのを見てしまうと、何やら自分は物に執着したくないという宗教的境地(!?)への憧憬も、少なくとも私は生まれてしまいます。
てなことを言いながら私の物欲も相当なものなんですが(笑)
この日はとても寒い日で、家に帰って着物を脱ぐと静電気でバチバチでした。
着物は絹の筈なのですが、静電気対策を考えねばと思ってしまいました。