緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

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離人症について 覚え書

2021年09月07日 | 思い出
前回のエントリー記事を書いていて、思い出したことがあります。
天体写真が死の光景に見えて気持ち悪いという感覚ですが、若い頃に一度なりかけた離人症が影響しているのではないかということです。

離人症は一度なりかけただけで終わってしまったのですが、あの経験はその後の私の生き方に大きな影響を与えました。
もう45年くらい前のことなので、その経験とそれについての私の考察を書いてみたいと思います。
長いし少し専門的になるので興味のない人は読み飛ばしてください。

まず、それがどんなものだったか書いてみます。
当時、22歳だった私は働きながら一人暮らしをしていました。
仕事で大阪の環状線のガード下沿いの道を歩いていた時のことです。
ふと『物は物にすぎない。そう思う私の意識は絶対である』という認識のようなものが脳裏に降りてきて、ストンと納得しました。

その3日後くらいだったと思います。
一人でアパートの部屋にいると、突然、視界の両端から見えていた物が死に始めたのです。
窓、壁、天井等々が、まるでカーテンを閉めるように両端から死んでいきました。
視界の全部がそうなる前に、私は何とかしてそれを押し戻しました。
驚愕と恐怖のひとときでした。

死に始めたというのは私の主観的な見方で、正確には、完全に生気を無くしていったということです。
当時の私は離人症という言葉も知りませんでしたので、何が起こったのかも分かりません。
ただ思ったのは3日前の私の認識が現実になったのではないかということです。
実際、後に離人症について調べている際、離人症になったある男性が同様の事態に遭遇して『自分は今、物を物自体として見ているなと思った』という記述を読みました。

いずれにしても、自分が見ている世界が一切の生気を無くし、死の相貌を帯び始めるというのは耐え難いことです。
当時の私が考えたことは、私というフィルターを通して物を見る以上、見ている私自身に問題があるということ。
私の心のフィルターに問題がある、要は生き生きと楽しんで生きていないのではないか、だから物が生気を無くして見えるのではないかということです。

その時以降、私は、たとえ顰蹙を買っても、馬鹿にされたり皮肉を言われても、自分を楽しませることを主眼に生きてきたように思います。(今でも緊急事態宣言下に県境をまたいで旅行に行くように)
自分で書くのも何ですが、私は根が真面目だから、少々ハメをはずしても十分にバランスが取れているのです。
根が遊び人の人が同じことをやったら問題かも😜

その後、別の理由で30代から心理学の勉強を始めて、20代の頃の経験が離人症であったと知りました。
それで離人症について色々と調べてみて、事例集を読んで共通する背景があるように思いました。
(今はどうか知りませんが、当時はカウンセリングの事例が書籍として市販されていたのです。)
以下、私の考察です。

記憶に残っている参考になった事例を示すと、ある男子高校生の事例。(記憶だけで書いているので違っている部分もあるかもしれません。)

カウンセラーによると洒脱な雰囲気の高校生だった由。
彼は子供の頃から野球が好きでずっと野球をやってきたのですが、高校生になって父親から大学受験に専念するために野球を止めるように言われ、止めました。
そして言われた通り、勉強に専念していたのですが、ある時、疑問を持ち「こんなに勉強して何になるのか」と父親に聞きました。
すると父親は、勉強して良い大学に入って良い会社に就職し、良い生活を送るためだというようなことを言ったようです。

それを聞いて彼は離人症を発症します。
つまり見える世界が一切の生気をなくしてしまったのでした。
この高校生はカウンセリングを続けて治ったようです。

もう一つの事例は、離人症という疾患を考える上で象徴的なある青年の事例です。
この青年の父親は、青年の母親が彼を身ごもると姿を消しています。
母親は未婚のまま彼を産み、同じく未婚の叔母と共に彼を愛情深く育てたようです。
大人になって彼は就職し、働いている時のこと、その会社の社員旅行の夜、同じ会社の女性と関係を持ってしまいます。

青年はその同僚の女性と付き合っていたわけでも、好きだったわけでもなく、酒を飲んだ上での成り行きだったようです。
結果、その女性は妊娠します。
彼は中絶するように女性に言い、女性は中絶します。
その後、彼は離人症を発症するのです。
この青年の場合、離人症だけでなく、はっきり覚えていないのですが抑うつ症状もあったようです。

この青年の発症に至る心のメカニズムは分かりやす過ぎるものだと私には思えました。
彼がやったことは自分殺しです。
彼の父親は身ごもった母親を捨てて消えています。
彼は父親と同じこと以上のことをやってしまっています。
相手の女性に中絶するように言い、相手は中絶していますので。
闇に消えた子供はかつての彼自身に他ならなかった。
自分の中の子供を彼は父親として殺してしまった。
かくして世界は死の相貌を帯び・・・。

事例集の読んだ限り、青年の行為の意味合いとその結果は明白なように思えます。
ですが青年自身は象徴的な“自分殺し”を自覚していたようには書かれていません。

このような場合、カウンセリングは彼自身に行為の意味合いを自覚するよう持っていくことなのではないかと思うのですが、事例集を読む限り、カウンセラーもまた彼の行為の隠れた意味合いに気がついていなかったみたいです。
カウンセラーだけでなく、その事例を論評するコメンテーターがいるのですが、その人物もまた気が付いたように見えません。

そこでカウンセラーがやったことは、青年の問題を男女関係として捉え、青年と相手の女性を結婚させて男としての責任を取らせるよう仕向けることでした。
コメンテーターもまたこの事例のテーマを“自分殺し”とは捉えず、“結婚”だと論評しています。
結局青年は好きでもない女性と結婚することになるのですが精神的な不調はダラダラと続いていたようです。
ですがカウンセラーは結婚したことでカウンセリングを終了しています。

これは余談ですが、私が過去において心理学を学ぶ過程で知りえた限り、当時(40年位前)のカウンセリングの価値観は、当時の一般社会以上に保守的でした。(今はどうかは知りません。)
だからクライアント(相談者)の社会化ともいうべき社会への常識的な適応が、ともすればカウンセリングの目的になってしまっているのです。
結果、この事例の場合でも、結婚させて男としての責任を取らせて終了したのかもしれません。

それはさておき、離人症です。
先の男子高校生の場合もそうなのですが、離人症は内面化した父親が自分の中の子供を殺してしまうと発症しているように思います。
男子高校生の場合、父親の言うことを聞いて、大好きだった野球を止め、彼の内なる子供にとっては何の意味もない良い大学とか良い会社とか良い生活が彼の生きる意味になった時、彼の目に見える世界の一切が生気を失ったのです。

男子高校生と青年は、家庭的な背景も、性格も、抱えている問題も、立場も、まるで異なります。
でも内面化した父親による内なる子供の死という意味だけは共通しているのです。

事例集から離れて有名なフロイトの例からみてみます。
精神分析学の創始者であるジグムント・フロイトもまた、離人症を経験しています。
それはイタリア旅行でのことでした。
ローマ時代の遺跡を見て、その光景が生気を失ったのです。

そしてフロイトの場合も父親との関係に原因があったようです。
というのもフロイトの父親はイタリアに観光に行くことが生涯の夢だったのですが、それを果たせずに亡くなっています。
フロイトはもちろんそのことを知っています。
遺跡を見た時、フロイトは父親の夢を自分が果たしたと思ったことでしょう。
果たすことができたのは彼が作り上げた精神分析学の社会的な成功の結果でしょう。

フロイトだけではないのですが、何か困難な仕事を達成した人は、達成したその時、離人症を経験することが多いのだそうです。(大抵は一過性で病気とはいえない。)
もっとも先の男子高校生は達成する前に、父親の予言のような言葉をきっかけに離人症を発症していますが。

困難な仕事を達成したのなら世界が輝いて見えてもいい筈ですが逆なのはなぜか。
たぶん、達成に支払った犠牲の大きさが原因でしょう。
おそらく内なる子供の息の根を止めるくらいのことはやってしまっているのではないかと推測します。
そして達成した仕事の内実もまた、父性的・父権的な意味合いを持つものであるのかもしれません。
少なくともフロイトの精神分析学はかなり父権的です。

以上で私の離人症についての考察は終わりです。
考察自体は随分昔に行ったのですが、文章にすることはありませんでした。
ここで覚え書とします。

付記
ここで書いた離人症は古典的なタイプと言えるものかもしれないです。
現在、離人症は私が定義を読んでもピンと来るものがないくらい雑多な症状を呈しています。
人によっては、それこそ前に書いた「脳の霧」ではないかと思えるようなものまで離人症と称しています。
正確なことはそれこそ専門家の判断を待たねばならないでしょう。
離人症について知りたい人、調べている人は、このエントリーは離人症についての、あくまで素人の考察として参考にしてください。


車内販売

2021年03月01日 | 思い出
新聞を読んでいたら、鉄道での車内販売の廃止が続いているという記事。
なにも車内で販売しなくても駅で買えるし、その上コロナもあるしということらしいです。
ただ新幹線ではやってるみたい。

実は私、学生時代に新幹線で車内販売のアルバイトしていました。
もう何十年も前の話、私が“鬼も十八”だった頃のことです。
当時、新幹線は東京と岡山の間を走っていました。
色んなことがありましたが、もう時効なので書いてみます。

友達に夏休みのバイトを誘われ、それが新幹線の車内販売だったのです。
ところが友達は二日で辞めました。
理由は仕事がハードだったから。
一日ではなく二日で辞めたのはシフトの都合上、必ず二日は働かなくてはならなかったから。

私の友達だけではなく、学生アルバイトはどんどん辞めていきました。
たいていの学生は、友達と誘い合って一緒に働き始めるのですが、夏休みが終わる頃まで残っていた学生はほとんど一人で働いていました。
最後の方になると、数の減った知らないバイト同士で顔見知りになって、それなりに楽しかったのです。

体力のない私が続けられたのは、二日働いたら一日休むようにシフトを組んだから。
それだとあまり疲れなかったのです。
働いている二日の内の一日は必ず会社の宿舎で泊りました。
翌朝、早くの新幹線に乗るためです。

そんなにしんどい職場だったのかと言われると、確かにハードでしたが、今時のブラックな職場に比べたら楽だったように思います。
重労働ではあったけれど、どこか緩かったのです。
何より、バイト代が良かった。

アルバイトの場合、車内販売といってもワゴンでの販売は任せられていませんでした。
手にお弁当やらお土産を持って「お弁当はいかがですか、〇〇弁当に××弁当はいかがですか」と言いつつ、車内を端から端まで売り歩いていたのです。

淹れたコーヒーも売るワゴン販売は必ず社員の人でした。
だもんで、よくお客さんから「コーヒー持ってきてくれる?」と言われましたが、もちろん持っていくことはなく、内心『ここは喫茶店じゃない』と毒づきつつ、丁寧にお断りしてました。
お客さんは、販売員が一杯のコーヒーの為に、どこにいるか分からないワゴンを探して長い車内を往復するサービスが現実に可能か、分かっていなかったみたいです。

最近は新幹線に乗っても車内販売はあまり来ないような気がします。
だから、一度買いそびれるとそのまま買えなかったり。
でも私が働いていた頃はそうじゃなかったのです。
次から次へ、色んな商品を持って何往復も売りに歩きました。
当然、疲れるのです。

それと計算。
当時は電卓がなかった時代でした。
だからすべて暗算でした。

「〇×弁当3個と△△弁当1個、それとジュース2本とビール、あっ、ジュース1本やめてお茶ね」などと言われて、その都度、掛けたり足したり引いたり、頭の中で暗算しなくてはなりませんでした。
今同じことやれと言われてもできないような気がします。

恥もいっぱいかきました。
お土産に草加せんべいがあったのですが、私は「クサカせんべい」だと思って大声で「クサカせんべいいかがですか」と売り歩いてました。

グリーン車で、買ってもらったお弁当を座席脇の引き出し式のテーブルに乗せるのに、間違えて吸い殻入れを引っぱってしまって、力余って吸い殻入れごと床にぶちまけてしまったり・・・(◎_◎;)

ちょっと悪いことも。
ある時、アイスクリームを売り歩いている男の子のバイトに「アイスクリーム食べよう」と言われ、デッキで二人で食しました。
仕事中にそれはないし、男の子はアイス代を払った様子もなく・・・。
でも可愛いもんだったとも言えます。

今から考えるとそれはちょっとヤバかったのでは?と思うことも。
私がアイスクリームを売り歩いている時、車掌さんに呼ばれてなぜか運転室の中へ。
運転士さんは私の分のアイスクリームも買ってくれて二人でお話しながら食べました。
販売員の女の子を運転室に入れるのは職務規定違反じゃないかと思いますが、運転士さんは販売員の女の子がどういう子なのか知りたかったみたいです。

運転士さん、私がバイトだと知るとちょっとびっくりしてました。
販売会社の社員だと思っていたみたいです。
運転士さんは自分がなぜ新幹線の運転士になったかみたいな話をし、私の父の職業を聞いたり。
運転室を出ると外にいた車掌さんが「どうだった?」と声をかけると、運転士さんは「うちの娘とまったくおんなじ」って言ってましたっけ。

その他、ごきぶり事件やらバイトの下痢ピー事件など、書くに書けないことも。
当時は日本の高度経済成長期、車内販売も当然のように売って売って売りまくれでしたが、一方でユルユルだったのです。

私にも若い頃があったというお話でした。


誘拐

2018年02月12日 | 思い出
今回はちょっとシリアスなテーマです。

野田聖子総務相が、2月2日の衆議院予算委員会で立憲民主党の阿部知子氏が性犯罪被害者への対応を尋ねたのに対し、性犯罪被害ではないが、自らも小学1年の時に誘拐されそうになったことを語ったとのことです。
「50年たった今でもいろんなことを覚えている。嫌な気持ちになることがある」と述べたとか。

私は政治的に野田聖子総務相に与しているわけではありません。そういう思想信条とは全く無関係に彼女の発言に注目しました。
というのも、私も小学3年生の時に誘拐されかけたことがあったからです。
50年以上たった今でも、色んなことを鮮明に覚えています。

私の場合は巻き添え誘拐で、誘拐そのものより、未遂に終わったその事件を周囲の大人たち(特に母!)に訴えた時の反応の酷さが後々まで私に影響を与えていました。

巻き添え誘拐とはどういうことかというと、その事件は私がM子ちゃん(と仮にしておきます)という友達と2人で遊んでいた時に起こり、犯人の目的は私ではなくM子ちゃんだったのです。

簡単に書くと、M子ちゃんと外で遊んでいると、若い男が近づいてきて小学校はどこにあるか私達に聞きました。
当時、道を尋ねられたら親切に答えなくてはいけないと学校でも言われていたので学校の場所を教えると、男は分からないから一緒についてきて欲しいと言いました。
で、M子ちゃんと私は男と一緒に歩いたのですが、当時は広い人気のない原っぱのような場所が残っていた時代で、男はこっちに来てと言ってそんな中に私達を誘いこみました。

そしてセイタカアワダチソウで周囲からは見えない場所まで来ると「目を閉じて座ってほしい」と言いました。
大人の男にそんなふうに言われると言うことを聞かざるをえない感じになり、言う通りにしたのですが、まずM子ちゃんがキャーと言って逃げ出し、私も直ぐM子ちゃんの後を追って逃げました。

この異様な出来事を、私とM子ちゃんは家に帰って当然のことながらお互いの母親に訴えたのですが、私の母は「嘘つきの友達と遊んだら、あんたまで嘘つきになるんやな」と言ったきり全く無視。
実はM子ちゃんは虚言癖や盗癖のある所謂問題児でした。
その時も、色々と脚色して大人たちに訴えていて、私は『それは違うと思う』と内心思っていて、ちょっと困っていました。
でも私はM子ちゃんとは違って嘘なんか滅多につかないのに、私の言うことまで信用しないのかという感じでした。

その後、M子ちゃんは引っ越して転校し、私はM子ちゃんにはそれまで振り回されていた部分もあったので、別の子達と遊ぶようになって楽しくやっていました。
ある日母が私に「M子ちゃんが新聞に載っている」と言いました。
見ると大きな見出しで「M子ちゃん無事!」みたいなことが書かれていました。

事件はこういうことでした。
M子ちゃんのお父さんには愛人がいて、お父さんはその愛人と別れたものの、そのことを恨んだ愛人が暴力団の男を雇ってM子ちゃんを誘拐したと。犯人は逮捕され、事件は解決したのです。
頭の良くない私でもすぐに気が付きました。かつて経験した異様な出来事は誘拐されかけたんだと。
その時は成功しなかったけれど、その後にM子ちゃんは本当に誘拐されたのだと。

私の母がそのことに気がついたかどうかは分かりません。
母は基本、君臨すれども統治せずを貫く子供には無関心な人でしたので。
私も母とその件について話すことはその後も一度もありませんでした。
母の態度は『母に言っても無駄』という思いを強く私に持たせました。

この事件には更なる後日談があります。
何かあっても母が頼りにならないことがよく分かった以上、私は自衛しなくてはなりませんでした。
私が何より反省したのは、犯人の男に原っぱの中に連れ込まれた時、相手のいいなりになって逃げようと考えなかったことです。M子ちゃんの方がよほどしっかりしていました。

その後、私もまた引っ越しし、転校しました。新しい場所で小学5年生の時でした。
大通りから一筋置いた人気のない道を一人で歩いていると男が一人近づいてきて学校はどこか私に聞きました。
学校はすぐ近くでしたのでその事を教えると分からないから一緒についてきて欲しいとのこと。
その言いぐさ、全く同じパターンでした。周囲に人はおらず私はどのようにしてこの状況から抜け出すか考えました。
男は有無を言わせず私の手を掴んで酒屋の倉庫の中に入りました。

倉庫の中ほどで、男は私にそこにいるよう言って、倉庫の出口に行って(たぶん)人の気配を確認したり、また戻ってくるともう一度出口に行ったりを何度か繰り返していました。
その間、私は逃げるスキを必死で探っていました。
そして男が倉庫の出口ではなく、倉庫の奥に行った時、私は『今だ!』とばかりに走って逃げたのでした。
その時、男が私に掛けた言葉はあまりにも人を馬鹿にしていて今でも忘れられない。
「気をつけて帰りなさいよ」と言ったのです。

この出来事も私は長い間、誰にも話したことはありませんでした。
ただ2回も誘拐されかけたことに猛反省しました。
ボーッとした顔をしてるから狙われるのだ思い、意識してキツイ表情をするようにしました。
ですから叔母(母の妹)が家に来た時、母に向かって「みどりちゃん、何かあったの。優しい顔した子だったのに今日見たら恐い顔して」と言っているのを、ふすま越しに隣の部屋で聞いた時は、思わず『やったー!』って思いました。

ここまで読まれた方は察しがつくと思いますが、2度目の出来事は誘拐ではなく性犯罪目的だったと思われます。
それに気づいたのは20歳くらいの頃で、子供の頃の私は以前と同じ誘拐だと思いこんでいました。
私の家は身代金目当てに誘拐するほど金持ちではないし、父親から捨てられた愛人もたぶんいなかったので誘拐は考えられないのです。

皮肉なことかもしれませんが、二度目に上手く逃げられたのは一度目の経験があったからです。
もし、小学3年の時に誘拐未遂に巻き込まれていなかったら、小学5年生の時に逃げられず、性被害を受けていた可能性があります。
子供の頃に性被害を受けていたら、私という人間はまともな大人になれなかったかもしれないです。

さらに、30代40代になって、私自身色々考えたり、色んな話を聞いて、当時問題児だと言われていたM子ちゃんの問題行動とは、実は両親の欺瞞と葛藤に満ちた家庭環境に原因があったと考えるようになりました。
M子ちゃんは私と同じ年だから今60代。どんな人生を送ったか、そして自身の経験した誘拐事件をどう心の中で咀嚼したのか、もし会うことがあれば聞いてみたいものです。
でも、たぶん、思い出すことも、話すことも嫌なことだと思います。

さて、冒頭に話を戻すと、阿部知子氏の質問に対し野田聖子総務相は次のように答えています。
「私自身は性暴力ではなかったが、そういうときはどうしていいか分からない。ワンストップの支援センターを全国各地に整備して、性犯罪、性暴力の被害者を支援する体制を構築することが重要だ」

私の例からも分かるように誘拐と性犯罪は微妙に重なり合っています。
子供の被害者の場合、そもそも被害にあわないようにするにはどうするか、あった時にはどう未遂に終わらせるか、周囲の大人たちへの啓発と実効的な教育とが必要でしょう。
いずれにしても小学生の女の子を、過酷な現実に一人で立ち向かわせるようなことだけはしないで欲しいのです。



介護はチームワーク、介護は生前供養(7)

2017年08月24日 | 思い出
久しぶりの介護シリーズです。
母の介護の経験の中で、当初このシリーズで書こうと思いながら止めていたことを書いておこうと思います。
とても長いし、重い話だと思います。興味のない人はスルーしてください。

このシリーズを書こうと思った理由は、介護について、介護保険制度が始まっているにもかかわらず、介護保険以前の、30年くらい前の介護のイメージのままの人が多いことに気づいたからです。
それで私が経験した介護の実際を書いてみようと思ったのです。
介護を自分だけで抱え込まず、専門家である他人の力を借りれば乗り切れることを書きたかったのです。

そうすると逆に、介護保険を利用しても途方に暮れた経験は書きづらいものがありました。
なにより、あまりにも大変だったことは記憶も曖昧になっていました。
今回はその書かなかったことを書いてみます。
たぶん、今、介護をしている人にとってはレアケースであり、そんなことがあるのかと思われるようなことですし、役に立つ話でもないです。

それは、介護保険を利用しての母の介護が始まって5年目のことでした。
母の回復は、視力が元に戻らないことを除けば元気で、デイサービスにも一番楽しんで通っていた頃の出来事です。

ただ、世の中や私自身の状況は順調とは言えませんでした。
リーマンショックで20年以上働いた会社は破産し、再就職も年齢を理由に履歴書を送ることさへ断られる始末。
1年以上失業して、やっと公的な機関の契約職員になりフルタイムで働き始めました。
ところが背中を事故で傷め(労災ではない)、それをかばっている内に椎間板ヘルニアになりました。
ヘルニアは少し良くなってもまた発作を繰り返し、だんだん悪化して、結局、その職場も止めざるをえませんでした。

数か月休養して、椎間板ヘルニアがすっかり良くなってから、次に、やはり公的な機関(役所)で、年度替わりの4月から働くことにしました。
ただ、この時はフルタイムではなく、役所なので土日祝日は確実に休み、ウィークディに月に15日の出勤という契約でした。

私が新しい職場で働き始めて1週間くらい経った頃、母が左耳の下が何だか痛くて食事もしづらいと言い出しました。
見ると少し腫れていました。
私は耳下腺炎だなと思いました。私も同じ経験をしたことがあり、まったく同じ症状だったからです。
私はすぐに駅近くの耳鼻咽喉科に連れて行きました。

医師の診断は私の予想通り、耳下腺炎でした。
抗生物質が処方され、1週間経ちましたが良くならず、別の抗生物質が処方されました。
でも1週間たっても良くならずまた別の抗生物質が処方されました。
でもその抗生物質でも良くならず、医師は大きな病院に行ってほしいといいました。
幸か不幸か、私の居住地には比較的大きな総合病院が複数あり、今後のことも考えて一番近くの総合病院(仮にK病院とします)宛に紹介状を書いてもらいました。

もうゴールデンウイーク直前のころでした。私は仕事で病院に付き添うことができなかったので、兄に付き添いで行ってもらいました。
その日、仕事から帰ると母は耳の下を腫らしたまま寝ていました。
兄に聞いてみると、K病院の医師いわく「下咽頭がんです。入院しても治療の方法もないので入院はさせられません。連れて帰ってください」とのことで、そのまま連れて帰ったのだそうです。
K病院の医師は組織を生検に出しているとかで、それ以外は何もせず、薬の処方もありませんでした。
兄と私は生検の結果を待って、とりあえず家で養生することにしました。

その翌日からはゴールデンウイークに入っていましたが、母の症状はあっという間に悪い方に急展開しました。
耳の下が化膿で首も顔も変形するほど急激に腫れ上がり、パンパンになって首も曲がらない状態。
動かすと激痛で、当然、食べ物を食べることはできなくなり、なんとか吸い飲みでジュースだけは飲ませることはできました。
たぶん、いきなり抗生物質を止めたため、今まであまり効かないとはいえ薬で抑えられていた化膿が爆発的に進んだものと思えました。

この頃のことは、私は切羽詰まっていましたので記憶も不確かなのですが、だいたい起こった事を記します。
母の状態は、若い人でも絶望するような、耐えられるかどうか分からない酷いものでした。
しかも母はその時86歳、耐えられるかどうか私には疑問でした。
私はK病院に電話し事情を話しました。
でも答えは、今は病院は休みで、ゴールデンウイークが終わった診療日に受診してくださいというもの。
私が何を言っても「診療日に来てください」で終わり。

あの頃ほど私がゴールデンウィークが終わることを待ちわびたことはないです。
やっと終わって、診療日、私はシフト上、勤め先を休むことができないので、兄に母をK病院に連れて行ってもらいました。
ところが家に帰ると、母は何の治療も受けないまま、ベッドで寝ていました。
ゴールデンウィークで生検の結果は出ておらず、そのまま帰されたというのです。

私にとっては、生検の結果なんてどうでもよかったのです。
早く腫れあがった耳の下を切開して大量の膿を出さねば、母の苦痛は終わらないし、食事もできないのです。
黙って医者の言うがまま母を連れ帰った兄にも腹が立ちましたが、兄にしてみれば医者の指示に従っただけなのです。
医者は入院はさせられないの一点張りだったそうですが、入院より治療をしてほしかったのです。

兄は危機的な状況というものが全く理解できない病気音痴みたいな人ですし、自分が介護にも看護にも当たらないので「どうしようもないやろ」と投げやりなものでした。
母の担当のNケアマネにはメールで連絡を入れていましたが、ゴールデンウィーク中だったからかどうか音沙汰なし。
これも奇妙なことでした。いつもは真面目で熱心な人なのです。
私は途方に暮れました。

その時、ふと思い出したことがありました。
まだ母が介護とも縁がなく、元気だった頃、母の甲状腺に良性の腫瘍ができたことがありました。
良性でも切除しなくてはならず、その手術を受けた時のことです。
病院は甲状腺の専門病院である神戸にある隈病院でした。

隈病院は日本全国から患者が来るほど甲状腺専門の高度な医療を受けられることで有名でしたが、それだけではなく心身両面に立ち、徹底した患者本位の医療をすることでも知られていました。(今もそうなのかは知りません。ずっと昔、今の皇后陛下が妃殿下だった頃、甲状腺の病気に罹られた時、甲状腺の治療とともに当時の院長先生によるカウンセリングも受けておられたのは知る人ぞ知る話。)
隈病院では、患者や患者家族の誰もが目につくところに「相談室」の掲示がありました。
治療に関することでも、退院後のことでも、分からないことや心配なことがあれば何でも相談に来てくださいと書いてありました。

患者やその家族のための「相談室」は総合病院ならどの病院にも設置されています。
ただ、どの病院でも患者やその家族の誰もにもその存在が周知されているかというと疑問です。
それは病院の姿勢の問題で、多くの病院は面倒なことで相談はされたくはないからだと思います。
隈病院では病院に来た人が嫌でも目に入る場所に掲示がしてあったので、当時『さすが、隈病院』と思ったものでした。

私は隈病院の相談室のことを思い出して、K病院は総合病院なので、必ず相談室はある筈だと考え、そこに相談してみようと思いました。
その時は勤め先を休むことなど気にしていられなくて、翌日くらいにはK病院の相談室に行って母の窮状を相談していました。
時を置かずK病院から電話があり、母の診察をするので来院してほしいとのことでした。
翌日、しんどいから行きたくないという母を説得して車に乗せ病院に行きました。
その頃になると母の耳の下の腫れは、自壊して皮膚が破れ膿が流れ出ていましたが、皮膚の奥に大量に溜まっている膿を出すにはやはり医療の専門家やそれなりの医療器具が必要と思われる状態でした。

病院で診察を待っていると、Nケアマネがやってきました。
母が病気になってからNケアマネはずっと顔も見ていなかったのです。
様子がおかしかったので今でもその時の記憶は鮮明です。
いつもはキビキビした人が、足取りも躊躇いがちにフラフラと、表情も『これでいいのか』と考えているような感じで来たのです。

担当の医師は50がらみの女医で、ベラベラとしゃべりながら、皮膚の割れた場所から膿を吸い出していったのですが、麻酔とか痛み止めとか一切なし。
最初は吸引器のようなもので吸い出していましたが上手くいかず、結局、針を外した大きな注射器を突っ込んで吸い出していきました。
母は我慢強い人なので何も言わず耐えていましたが、とても痛そうで見ている方が辛いぐらい。
しかも話しながら吸い出すのですが、目が患部ではなく、娘の私とNケアマネの顔を見ながらで、口には出しませんでしたが内心『患部を見て、痛くないようにやってくれないか』と思いました。
後に母は、その時の処置ほど生涯で痛い思いをしたことはなかったと会う人毎に話してました。

処置しながら医師が話したことは、膿を出さなかったのは、切開すると癌がキノコのように耳の下から生えてくることがあり、見栄えがよくなく、そうなったら気の毒だから、というようなこと。
大量の膿はすべて癌の死骸だということ。「これ、みんな癌の死骸ですよ」と言ってました。
膿が多すぎて生検に出しても結果が出ない(つまり陰性だという)こと。
そうして、実際にはどれくらいの時間だったか分かりませんが、私にはとても長く感じられた、痛みに対する配慮がまるで感じられない乱暴な処置が終わりました。

同じ日ではなかったと思いますが、病院の相談室のソーシャルワーカーとも話し合いを持ちました。
その時のソーシャルワーカーの態度も不自然でした。
最初に話した時と異なり、防衛的というか、感情抜きのロボットのような応対だったのです。
Nケアマネといい、ソーシャルワーカーといい、普段は普通の人ですので、私のやったことは余程の横紙破りだったようです。

ソーシャルワーカーによれば、担当の医師は、家族が可哀そうなので入院させてあげても良いと言っているということでした。
家族より患者である母が可哀そうだと思わないのかと私は思いましたが、結局、入院はこちらから断りました。
その代わり、在宅で看護するために、在宅の末期癌患者を専門に診る訪問医を確保してもらいました。
看護師の方はNケアマネが手配してくれました。
その二つは最速でやってもらいました。そして、やっとまともな看護体制が整ったのです。

来てくれたのは緩和ケアの専門医でしたので、母は相当に楽になったようです。
もちろん、訪問看護師や専門の医師が来てくれるといっても、在宅の看護は大変でした。
腫れはある程度治まったとはいえ、母の耳の下からは相変わらず大量の膿が流れ続けていました。
看護師さんは色んな種類のガーゼ類を用意しましたが、どれも役に立たず、私は看護師さんに一番大きな夜用の生理用ナプキンを購入するように言われました。
看護師さんは私が買ってきたそれを半分に切り、膿が流れる傷口に当てるようにしたのですが、1日に2度替えてもパシャマや下着が流れ落ちた血膿でグチョグチョになりました。

ただ、そういう状態はいつまでも続くことはありませんでした。
膿の流出は徐々に治まりました。3ヵ月ほどで傷口もふさがり、その後は傷跡さへ目立たなくなって、要するに完治したのです。
皮膚の割れ目から「癌がキノコのように生えてくる」こともありませんでした。

K病院の医師の癌という診断には確定的なものは何もなく、もともと私は懐疑的だったのですが、末期癌専門の訪問医に本当に癌であったか聞くと、「膿と一緒に流れ出てしまったのかもしれませんね」ということでした。
翌年、たまたま最初にかかった町の耳鼻咽喉科に私自身がかかることがあり、その時についでに母の話をすると、そこの先生は「そんなもんが癌であるわけないやろ」と激怒しました。
その先生にすれば、自分が紹介状を書いた患者が総合病院で酷い扱いを受けたことに怒り心頭だったようです。

その前に、もう一人激怒した人がいました。Nケアマネです。
在宅で診ることになって、介護認定のし直しをする際に、Nケアマネは一応主治医ということになっていたK病院の医師に、必要書類の一つである医師の所見の記入を依頼したらしいのですが、返ってきたきた書類のほとんどすべての項目に「不明」と記されていたらしいのです。
上から下まで不明・不明・不明・不明・不明の羅列だったそうで、それにキレたらしいのです。
もちろん、そんな書類は提出できず、書き直しを依頼するかどうかという時、事情を知った訪問医が「僕が書きます」と言ってくれて事なきをえたようです。

一連の出来事はK病院の医師が最初にきちんと診療してくれていたら、母も私も、そんなに苦労しなかったと思います。
これは介護保険制度に問題があるというような問題でもないと思います。
医師の言葉、指示というのはとても権威があり、医療のシロウトの家族である私の言葉や思いよりはるかに重んじられるのです。
客観的にみて医師の指示がどれほどおかしくても、です。
Nケアマネが動かなかったこと、躊躇いの理由はそこにあったと思います。

当時の私は新しい職場に就職したばかりで、仕事は覚えねばならず、シフトの都合上、そうそう休むこともできず、一時は私は勤め先を辞めることも考えていました。
ただ当時の就職状況はとても厳しく、一度退職してしまうと再就職は難しかったと思います。
でも、介護がうまく回り始めると特に仕事を辞める必要もなくなりました。

K病院の医師が母の診療を実質的に拒否していた理由は、色々と推測は可能ですが、不明というしかありません。



怖い話

2017年08月10日 | 思い出
昨日、NHKのBSで、京都異界中継というのをやってました。
京都に関わる怖い話ばかり百の物語を、京都の各地からライブで語るという趣向。

4時間もの長時間番組で、ほかの番組を見たり、途中でお風呂に入ったりで真剣に見ていたわけではありません。
面白かったのは生番組だったので、進行役のアナウンサーや話の話者が、結構ポカするのが分かったことです。

それとは別に、学生編で、京都の一人の大学生の話を聞いて、私自身、思い出したことがありました。
京都は大学が多く、全国から学生が大学生活を送るべく集まってくるのですが、そんな彼らは、ごちゃごちゃした街中の安い賃貸みたいなところに住むみたいです。

正確には覚えていませんが、そんな賃貸に住んでいたある女子大生、隣から話し声や笑い声など所謂生活音がよく聞こえてきたそうです。
ある日、窓からベランダに出て、隣を見ると、隣に部屋などなかったということです。
この話は京都の街中のごちゃごちゃ具合を知っていないと怖さが理解できないかもしれません。

以下はこの話を聞いて思い出した私の話です。

小学6年生の夏休み、6年生全員で学校から1泊2日の林間学校に行くことになりました。
行った場所は、市外にある、市が所有している「青少年山の家」みたいな場所です。
昼間は川遊びやらなんやら楽しみ、夜は定番のキャンプファイヤーをしました。

どこでもそうでしょうが、キャンプファイヤーでは、火の点火役はその場の最年長の人がなり、火の神とか営火長とか称して、それっぽい凝った衣装を身に着けて現れ、火をつけます。
その時の火の神は教頭先生だったと思います。やはり、凝った衣装で現れ火をつけました。

キャンプファイヤーの火が燃え盛っている時です。
私は何かが気になって後ろを振り返りました。すると遠くに白っぽい人影が見えました。
まるでシーツを頭から被っているかのような人影でした。
でも私は、ついさっき、凝った衣装の教頭先生を見たばかりだったので、その人影を教頭先生だと思いました。
まだあんな格好して、何をウロウロしているんだろうと不思議に思いました。

後になって落ち着いて考えれば、それは火の神の衣装ではなかったのですが、遠くだったこともあり、深くは考えなかったのです。
ただ、その人影の移動の仕方が、地面に対して水平に、スーと動いていったことに変な感じがしました。

キャンプファイヤーも終わり、就寝時間になりました。
子供達は2階建ての大きな建物で寝る子と、テントサイトのテントで寝る子に分かれていました。
私は建物で、2階の一番端の部屋で寝ることになっていました。
1階は男子にあてがわれていました。

部屋には2段ベッドが両側にあり、私のベッドは隣が外壁になっている側の下でした。
別の側の子達は、トントンと壁を叩いたり叩き返したりして隣室の子達と遊び始めて、私は隣が外で何もないので詰まらないなと思いました。

やがてそんな遊びにも飽きて、私は眠れずにいましたが、みんなは静かになって寝てしまいました。
すると私の真横の壁から、トントン、トントンと何者かが叩く音がしました。

隣は外の筈。しかもここは2階だし。
私はゾーーーとしました。
違う、違う。これは上のベッドの子がふざけて叩いているんだと私は思いこもうとしました。
音も止んで、私はいつの間にか寝ていました。

翌朝は大騒ぎになっていました。
かなりの数の子供達が幽霊を見たからです。
特にテントで寝た子供達が見ていました。
少なくとも私がキャンプファイヤーの時に見た白い人影は教頭先生ではなかったようです。

私も、夜のトントンと壁を叩く音の話をしました。
私の上のベッドで寝ていた子は、当然のように自分は何もしていないと言いました。
「誰かが外から叩いていたのじゃない?」という子がいて、試しに外から叩いてみましたがコンクリートの壁で、叩いてもトントンという音はしませんでした。
そもそも、私の寝ている真横を叩くには梯子が必要で、そんなことをする人がいるとは思えませんでした。

しかも、その音は私だけが聞いていたのではなく、1階の一番端の部屋の男子は全員が聞いていて、あまりに怖くて外壁側のベッドの子は内側のベッドの子と一緒に寝ていたということでした。

子供達は幽霊の話でもちきりになりましたが、何も見ず、何も聞かなかった子供達もたくさんいました。

一体あれが何であったかは今でも分かりません。
夏の夜の、私が経験した怖い話です。

お口直しにミーちゃんの可愛い写真です。
通販生活で買った私の腰痛用座椅子を占拠したミーちゃんです。