≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
毎年1月のシルバー(相楽)健康ウォーキングは2週目の金曜日、初詣ウォーキングです
今年は京都市内で『新選組』を訪ねるウォーキングです。
午前10時、JR京都駅からスタート。
京都駅のすぐ近くの「リーガロイヤルホテル京都」の入り口前に
”事あらば われも都の 村人と なりてやすめん 皇御心(すめらみこころ)”
新選組局長 近藤勇
「近藤勇と和歌」というとちょっとピンときませんでしたが武士は武道だけでなく・・・っというところでしょうか。
慶応3(1867)年の6月から12月の間 新選組の屯所がこの近くにあったということです。新選組の屯所というと壬生の八木邸が有名ですが組織の拡充にしたがって 転々としたためのようです
伊藤甲子太郎(いとうかしたろう)外数名殉難の碑 油小路七条下る
伊東甲子太郎は常睦(茨城県)の出身で、元治元年(1864)に新選組に入隊し、参謀として重視されました。しかし、尊王派であった伊東は、近藤勇と対立するようになり、慶応三年(1867)に新撰組を脱退して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所としました。
新選組との対立は深まり、近藤勇らは伊東を招いて酒をふるまい、酔った伊東をこの地で刺殺しました。
この知らせを聞いた伊東一派は、直ちに駆け付けましたが、待ち伏せしていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られました。世にこれを『油小路七条の変』といいます。
石碑は、伊藤甲子太郎が絶命した地点といわれる本光寺門前に建つものです。
天満屋事件の石碑
海援隊は、坂本龍馬の暗殺は「いろは丸事件」による紀州藩の仕業と思い込み、三浦休太郎(紀州藩御用人)を襲撃しようとしていた。
仇討ちには中井庄五郎(十津川藩士)が実行し、三浦休太郎の護衛にあたっていた新撰組とのあいだで、このあたりの旅籠、天満屋で斬り合いになった。
この事件で三浦休太郎は負傷するも、襲撃した中井庄五郎は闘死し、殉職石碑が建っている。
西本願寺
壬生の屯所も隊士が増えてくると手狭になったため、慶応元年(1865年)3月10日に第2の屯所に移転することになります。その第2の屯所が、現在、世界遺産に登録されている西本願寺だったのです。
新撰組が屯所として使用したのは、西本願寺の北東にあった北集会所と太鼓楼でした。北集会所は明治6年(1873)、姫路の本徳寺に移設されました。
太鼓楼です。
クリックで拡大します
島原
輪違い屋
島原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街の名称。「嶋原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。島原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが茶屋営業を行っている ⇒wikipedia
壬生寺(みぶでら)
新選組は文久3年(1863) 3月に、ここ壬生の地において結成された。東門前の坊城通りには、その当時、八木邸、前川邸、南部邸の3箇所が屯所と定められ、今も八木邸と前川邸が残っている。
かつては壬生寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行こなわれたという。
珍しいお花が活けてありました。
ブッシュカン(仏手柑)
二条城の南にある 神泉苑(しんせんえん)に寄りました
平安京造営と同時に造られた御苑の跡で歴代天皇が遊園・観花・遊猟などを楽しんだ場所です。
また、義経と静御前が出逢った場所とも言われています。
ここで自由解散となりました。近くの喫茶店で数名の方たちとお茶してJR二条駅からJR京都駅を経て帰路につきました。
参加されてた中には『新選組』ファンの方がおられて『新選組』の人脈など結構詳しくお話しされてました。わんちゃん的にはさっぱり解らず、局長の近藤勇、美男俳優が演じた沖田総司、武骨なカンジな土方歳三ぐらいしか知らなかったんです、『新選組』と『幕末の薩長の志士たち』との葛藤がテレビドラマとか映画でしか知りません、去年の大河ドラマ『花燃ゆ』での久坂玄瑞(東出昌大さん)が印象的でゆかりの建物などそこだけ「ふんふんなるほど」っと言うカンジでした。
石碑など調べていくうちに新選組のこと、少しは解ってきたようなカンジ・・・
途中、お弁当した光徳公園で桜が咲いてました
毎年1月のシルバー(相楽)健康ウォーキングは2週目の金曜日、初詣ウォーキングです
今年は京都市内で『新選組』を訪ねるウォーキングです。
午前10時、JR京都駅からスタート。
京都駅のすぐ近くの「リーガロイヤルホテル京都」の入り口前に
”事あらば われも都の 村人と なりてやすめん 皇御心(すめらみこころ)”
新選組局長 近藤勇
「近藤勇と和歌」というとちょっとピンときませんでしたが武士は武道だけでなく・・・っというところでしょうか。
慶応3(1867)年の6月から12月の間 新選組の屯所がこの近くにあったということです。新選組の屯所というと壬生の八木邸が有名ですが組織の拡充にしたがって 転々としたためのようです
伊藤甲子太郎(いとうかしたろう)外数名殉難の碑 油小路七条下る
伊東甲子太郎は常睦(茨城県)の出身で、元治元年(1864)に新選組に入隊し、参謀として重視されました。しかし、尊王派であった伊東は、近藤勇と対立するようになり、慶応三年(1867)に新撰組を脱退して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所としました。
新選組との対立は深まり、近藤勇らは伊東を招いて酒をふるまい、酔った伊東をこの地で刺殺しました。
この知らせを聞いた伊東一派は、直ちに駆け付けましたが、待ち伏せしていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られました。世にこれを『油小路七条の変』といいます。
石碑は、伊藤甲子太郎が絶命した地点といわれる本光寺門前に建つものです。
天満屋事件の石碑
海援隊は、坂本龍馬の暗殺は「いろは丸事件」による紀州藩の仕業と思い込み、三浦休太郎(紀州藩御用人)を襲撃しようとしていた。
仇討ちには中井庄五郎(十津川藩士)が実行し、三浦休太郎の護衛にあたっていた新撰組とのあいだで、このあたりの旅籠、天満屋で斬り合いになった。
この事件で三浦休太郎は負傷するも、襲撃した中井庄五郎は闘死し、殉職石碑が建っている。
西本願寺
壬生の屯所も隊士が増えてくると手狭になったため、慶応元年(1865年)3月10日に第2の屯所に移転することになります。その第2の屯所が、現在、世界遺産に登録されている西本願寺だったのです。
新撰組が屯所として使用したのは、西本願寺の北東にあった北集会所と太鼓楼でした。北集会所は明治6年(1873)、姫路の本徳寺に移設されました。
太鼓楼です。
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島原
輪違い屋
島原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街の名称。「嶋原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。島原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが茶屋営業を行っている ⇒wikipedia
壬生寺(みぶでら)
新選組は文久3年(1863) 3月に、ここ壬生の地において結成された。東門前の坊城通りには、その当時、八木邸、前川邸、南部邸の3箇所が屯所と定められ、今も八木邸と前川邸が残っている。
かつては壬生寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行こなわれたという。
珍しいお花が活けてありました。
ブッシュカン(仏手柑)
二条城の南にある 神泉苑(しんせんえん)に寄りました
平安京造営と同時に造られた御苑の跡で歴代天皇が遊園・観花・遊猟などを楽しんだ場所です。
また、義経と静御前が出逢った場所とも言われています。
ここで自由解散となりました。近くの喫茶店で数名の方たちとお茶してJR二条駅からJR京都駅を経て帰路につきました。
参加されてた中には『新選組』ファンの方がおられて『新選組』の人脈など結構詳しくお話しされてました。わんちゃん的にはさっぱり解らず、局長の近藤勇、美男俳優が演じた沖田総司、武骨なカンジな土方歳三ぐらいしか知らなかったんです、『新選組』と『幕末の薩長の志士たち』との葛藤がテレビドラマとか映画でしか知りません、去年の大河ドラマ『花燃ゆ』での久坂玄瑞(東出昌大さん)が印象的でゆかりの建物などそこだけ「ふんふんなるほど」っと言うカンジでした。
石碑など調べていくうちに新選組のこと、少しは解ってきたようなカンジ・・・
途中、お弁当した光徳公園で桜が咲いてました
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