伝えたい・残したい古典の宝庫~『井手百首』~
井手は古来から蛙(かはず)と山吹の名所として世に知られているところで、多くの歌枕に詠まれてきました。井手は、平城旧都と平安京とを結ぶ街道のほぼ中ほどにあって『蜻蛉日記』『更級日記』の作者たちも、長谷寺へ参詣するおりに、この地を通ったことが、それらの文献からも伺えます。~中略~山吹が咲き、蛙が鳴く詩情豊かな玉川の風景は多くの古人を引き寄せ、古典文学には、なくてはならない題材の場面になっています。玉川堤の山吹・玉川の水辺を題材に、今に通ずる歌枕・井手を詠う多くの和歌の世界に親しんでいただければ幸いです。編著:小川榮太郎
『井手百首』に見える小野小町、和泉式部和歌の特色と歌風を通してっという講座があり、聴いてまいりました。
小野小町:おののこまち
小町集・新後拾遺集巻第二・春歌下
色も香もなつかしきかな蛙なく井手のわたりの山吹の花
【現代語訳】
色も香りも慕わしいなあ。蛙が鳴く井手のあたりの山吹の花よ(新日本古典文学体系)
小野小町:おののこまち って?
生没年不詳・出自不詳
小野小町は平安時代前期の歌人で、六歌仙、三十六歌仙の一人として知られています。しかし仁明天皇(在位833年~850年)の時代に宮廷に仕えた歌人であることは確かですが、その生涯は謎に包まれ、終焉の地は、ここ井手町以外に京都市他、秋田県、山口県など全国各地に散在しています。「冷泉家記」によると、「小町六十九歳井手寺に於いて死す」とあり、また「百人一首抄」にも「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」と記されており、古来「大妹塚」と称されてきた井手の小町塚は、なかでも信憑性のあるものとされています。
世に伝えられる小町の晩年の零落の姿は、絶世の美人であったが故に語られた伝説で、歌枕として数多くの歌に詠まれるここ井手の里で、山吹の咲きこぼれる玉川堤を散策しながら、穏やかな余生を過ごしたことと思われます。
小野小町でよく知られた歌で
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
これを一般的に訳すと
桜の花の色は、むなしく色あせてしまった、私が長雨を見ているうちに。ちょうど私の美貌が衰えたように、花や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに
っとなり、諸行無常を訴える歌と言われています。しかし、単なる見た目の美しさとその衰えだけを歌にしたという、文法的な訳ではなく、小野小町の恋心が表れた歌という見方こそが正しいと感じます。
いくら美人でも、外見が美しいだけなら後世までは語り継がれません。小野小町は美貌と共に非常に純粋な心を持ち、その心の美しさが外見にも表れていたのでしょう。遺された作品を見ると、小野小町は常に恋をしていたことがわかります。
現代のように医学が発達していない平安時代に92歳まで生きたとされていますが、それは常に恋をすることで、アンチェイジング⇒加齢による身体の機能的な衰え(老化)を可能な限り小さくすること、言い換えると、「いつまでも若々しく」ありたいとの願いを叶えることです。
を行なっていたのでしょう。小野小町が隠しきれない恋心を詠んだ歌は数多く、語り継がれている。
撮影:わんちゃん
井手町の山手の方に「小町塚」があります。民家の玄関先に・・・
和泉式部:いずみしきぶ
和泉式部集三・一八〇 後拾遺集巻一六・九六五
あぢきなく思ひこそやれつれづれと一人や井手の山吹の花
【現代語訳】
面白くなく思っております。あなた、私のように、たった一人で井手の山吹をご覧になっていらっしゃって「どうして私のところにきてくださらないのです。薄情な方ね、ンン憎らしい。」
(朝日古典全集)
和泉式部:いずみしきぶ って?
天元元年(978年、没年不詳)
越前守大江雅到(まさむね)の娘で、清少納言・紫式部ともに平安時代中期を代表する女流歌人である。
情熱的な人ではげしい恋愛に身をゆだね、波乱にとむ生涯を送った。
長保元年(999年ごろ)和泉守・橘道貞の妻となり、彼との間にもうけた娘・小式部内侍は後に母譲りの歌才を示し最高の歌人の一人と言われるまでになる。道貞との婚姻は後に破綻する。
冷泉天皇の第三皇子、為尊親王(ためたかしんのう)、冷泉天皇の第四皇子、敦道親王(あつみちしんのう)と恋愛する。敦道親王との恋物語を綴ったのが『和泉式部日記』である。これらの恋愛は身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。両親王と死別した後、藤原保昌と結婚。任地の丹後まで赴いたりした。
和泉式部が生きた世情は一夫多妻制、男性が同時に何人かの女性と恋愛関係を持とうが、誰からも非難されることはなかった・・・が、女性の立場から見ればキモチ複雑、特に正室の女性にはショック。『和泉式部日記』には、親王の北の方は出家することで物語は終わっている。
紫式部は和泉式部のことを「和泉式部という人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と『紫式部日記』に記されている。
お墓が木津川市木津町にあります。
撮影:わんちゃん
墓は高さ1.3mの五輪塔で中世に建立されたものであろう。伝承によれば式部は木津の生まれであり宮仕えの後、再び木津に戻り余生を過ごしたといわれているが、この伝承を裏付ける資料がなくて残念である。
いづみがわ 水のみわたの 松のうへに 山かげ涼し 秋のはつかぜ :歌集
和泉式部の墓と称するものは全国各地にあり、なかでも京都市中京区誠心院のものが有名であるが、いずれも極め手を欠いている。昭和61年3月 木津川市教育委員会
参考資料①伝えたい残したい古典の宝庫『井手百首』
参考資料②井手町歴史愛好ロマン会研修会【「井手百首」に見える小野小町・和泉式部の和歌の特色と歌風を通して】レジュメ
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