≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
ふるさと案内人と行く『せいか小さな旅』は『22日の9時』集合です!!
「どこ行かはるのですか?」「ハイ、ちょっとそこまで・・・」
第25回 せいか小さな旅
里巡り江戸時代の「南山城三十三所巡礼の道in井手」
「南山城三十三所」は精華町、京田辺市、井手町、木津川市にわたり存在します。
江戸時代には こちら
江戸時代に存在した南山城の観音霊場です。明治の廃仏毀釈で半分ほどの寺院が失われましたが、観音像は他の寺院に移った場合が多いです。
二十五番:東福寺跡 二十六番:栄福寺 二十七番:観音寺と巡る予定。
実はこの3ヶ寺ともお寺がないです、無くなってます(廃寺)が近くのお寺で仏様は引き継がれている、ということで・・・
JR祝園駅集合、受付。JR玉水駅前でストレッチ体操後出発です。
井手町ふるさと案内人さんにも参加していただきました。詳しいお話が伺えそうです。
蛙塚にちょっと寄り道
(クリックで拡大します)
大字井手水無地区の玉川保育園の裏側に小さな石碑があります。
鴨長明の「無名抄」には、「井手の蛙は大きさが普通の蛙と同じくらいであるが、色は黒くさほど飛び歩かずいつも水の中にいて、夜がふけるとその泣き声は清らかで、人の心をしみじみとさせる」と記されています
★色も香もなつかしきかな蛙なく井手のわたりの山吹の花:小野 小町
現代語訳:色の香りも慕わしいなあ。蛙が鳴く井手のあたりの山吹の花よ
★音にきく井手の山吹見つれども蛙の声は変わらざりけり:紀 貫之
現代語訳:うわさに聞いている井手の山吹を素晴らしいと見たけれど、ここの蛙は井手の花に応じた声ではなかった。蛙の声はどこも変わらぬものだなあ
★声高み蛙なくなり井手の川岸の山吹今は散るらむ:源 実朝
現代語訳:声高なので蛙の鳴くのがよく聞こえてくる。井手の川岸では山吹が今散っているのだろうか。
わんちゃんの手元に「伝えたい残したい古典の宝庫『井手百首』」:小川栄太郎/編著 があります。
その中に井手の蛙を歌ったのが23首ありました。
多くの都人が詠んでいるのですが、わんちゃん的に印象に残ってる井手の蛙を詠んだ↑の3首をチョイスしました。
ちなみに山吹を詠んだのは76首あります。
水無 二十五番 東福寺跡
かつての水無村東福寺が、明治5年廃寺となり西福寺と合併し、什宝類が引き継がれている。
明治期の記録によると、東福寺跡は玉井寺跡等と合地して井手小学校となった。その後小学校は室戸台風の被害を受けて石垣へ移転し、現在は玉川保育園となっている。継承寺院の西福寺本堂は宝暦年間の建築、本堂内東脇の仏たちが安置されている中に、東福寺の「一尺三寸」の聖観音と思われる仏像がある
井堤寺(いででら)故跡
奈良(天平)時代、聖武天皇の勅願によって、上井手の地に橘諸兄(たちばなのもろえ)が氏寺として建立した寺で、四方200m以上の寺域であったと推定されている。西方浄土を形づけようと境内はじめ借景となる玉川ほか一帯に、「黄金の花」ヤマブキを彩ったという。橘諸兄は井手左大臣と呼ばれ、この地を根拠地として天平の国政を担った要人である。
井堤寺は応仁の乱の頃失われたと考えられ、現在発掘調査が行われていて、寺跡からは当時の瓦や石敷等が出土されている。
井手山 二十六番 永福寺
かつての永福寺は、上井手の地蔵院付近(現在の駐車場)にあった。地蔵院の記録によると、当院は白鳳の頃橘諸兄の草創で、寛永の頃復興、江戸中期には末寺一八ヶ所もあり、門前永福寺もその一つ。
玉津岡神社にあった千手観音は、明治初期の神仏分離政策で、地蔵院へ移った。その後明治14年5名の発起人が観音修繕の寄付を呼びかけ、修復を終えた。地蔵院境内に「文永十二年建立之 永福寺」銘の石灯篭がある。
地蔵院の境内から井手町を臨む
石垣 二十七番 観音寺
廃寺跡は未だ確定できていない。
石垣村の観音寺は、二十六番井手山永福寺より「十丁」の場所といわれていることから、現在の石垣地区でもかなり東よりの地かと思われる。江戸時代、椿井平群廣雄の模写した古絵図の、石垣里には八幡宮の東に「観世音寺観音堂」が描かれている。
明治六年十一月に廃寺となったため什宝物は西福寺に引き継がれた。
「十一面観音 厨子入り 本観音寺分壱体」という記録の通り、「三尺五寸」の観音さんは、廃寺となった玉井寺や東福寺の仏像群とともに、安置されている。
西福寺
せいか小さな旅でいただいたパンフレットを参考にしました、そのパンフレットには
★山城町 古文書サークル 如月会『江戸時代の南山城三十三所を訪ねて』より引用とありました。
明治維新、この国は神の国っと・・・
それからは明治の廃仏毀釈で多くの寺院が失われました。大切な什宝類は近くの寺院に移されたりしました。太平洋戦争後、この国が神の国ではないとなり・・・
考えると「なんと・・・」としか言いようがありません
民家の塀越しや道端に咲いていたお花たち
ヤマブキ ヤナギハナガサ
ヒガンバナ
ハギ シュウメイギク
カキドオシ アメリカセンダングサ
アレチヌスビトハギ
この実の名前は?その葉
井手町:汚水管マンホールの蓋
・町の花ヤマブキと井手の井がデザインされている。
京田辺市:汚水管マンホールの蓋
市の花ヒラドツツジと、中央に市章がデザインされています。
下部に「ひらどつつじ」「おすい」と書いてあります。
市章は、京田辺の田の文字をかたどり、丸い円は市民の融和を意味し、
横に突き出た部分は無限にのびゆく京田辺市を表現したものである。
木津川に架かる玉水橋を渡ると京田辺市です。まっすぐ歩いて近鉄線三山木駅から帰路につきました
【おまけ】
お寺参りをしていて境内に神社をお祀りしてるのが不思議に思ったことがありました。そして多くのお寺が廃寺になったという事実を知ってビックリした記憶があります。今回南山城三十三所のお話を伺って「そうなんですか」っと。
そのワケは明治維新の頃、明治5年、南山城三十三所の半分が廃寺となっている。そのため巡礼もだんだんと廃れていったものと思われる。精華町の数箇所の寺院もこの時期廃寺となっている。このように多くの寺院が廃寺となったのは明治維新政府が神仏分離令の公布により「神と仏を分けなさい」それまでは神社にお寺が有り、寺に神社があり・・・住職さんが神社の面倒をみていた、地方にある神社は神主さんが不在状態でした。神仏分離令というのは王政復古(天皇制)で祭政一致(さいせいいっち)「祭」は祭祀,「政」は政治で,宗教的権威に基づき,司祭者が政治権力を保持する神政政治をさす。
全国的に廃仏毀釈運動が起こった。仏教の排斥、寺院、仏像、仏具などの破壊などにより多くのお寺が廃寺となった。この時代より日本の国は神の国となっていった。第二次大戦への突入により、第二次大戦後この国は神の国ではなくなった。
ふるさと案内人と行く『せいか小さな旅』は『22日の9時』集合です!!
「どこ行かはるのですか?」「ハイ、ちょっとそこまで・・・」
第25回 せいか小さな旅
里巡り江戸時代の「南山城三十三所巡礼の道in井手」
「南山城三十三所」は精華町、京田辺市、井手町、木津川市にわたり存在します。
江戸時代には こちら
江戸時代に存在した南山城の観音霊場です。明治の廃仏毀釈で半分ほどの寺院が失われましたが、観音像は他の寺院に移った場合が多いです。
二十五番:東福寺跡 二十六番:栄福寺 二十七番:観音寺と巡る予定。
実はこの3ヶ寺ともお寺がないです、無くなってます(廃寺)が近くのお寺で仏様は引き継がれている、ということで・・・
JR祝園駅集合、受付。JR玉水駅前でストレッチ体操後出発です。
井手町ふるさと案内人さんにも参加していただきました。詳しいお話が伺えそうです。
蛙塚にちょっと寄り道
(クリックで拡大します)
大字井手水無地区の玉川保育園の裏側に小さな石碑があります。
鴨長明の「無名抄」には、「井手の蛙は大きさが普通の蛙と同じくらいであるが、色は黒くさほど飛び歩かずいつも水の中にいて、夜がふけるとその泣き声は清らかで、人の心をしみじみとさせる」と記されています
★色も香もなつかしきかな蛙なく井手のわたりの山吹の花:小野 小町
現代語訳:色の香りも慕わしいなあ。蛙が鳴く井手のあたりの山吹の花よ
★音にきく井手の山吹見つれども蛙の声は変わらざりけり:紀 貫之
現代語訳:うわさに聞いている井手の山吹を素晴らしいと見たけれど、ここの蛙は井手の花に応じた声ではなかった。蛙の声はどこも変わらぬものだなあ
★声高み蛙なくなり井手の川岸の山吹今は散るらむ:源 実朝
現代語訳:声高なので蛙の鳴くのがよく聞こえてくる。井手の川岸では山吹が今散っているのだろうか。
わんちゃんの手元に「伝えたい残したい古典の宝庫『井手百首』」:小川栄太郎/編著 があります。
その中に井手の蛙を歌ったのが23首ありました。
多くの都人が詠んでいるのですが、わんちゃん的に印象に残ってる井手の蛙を詠んだ↑の3首をチョイスしました。
ちなみに山吹を詠んだのは76首あります。
水無 二十五番 東福寺跡
かつての水無村東福寺が、明治5年廃寺となり西福寺と合併し、什宝類が引き継がれている。
明治期の記録によると、東福寺跡は玉井寺跡等と合地して井手小学校となった。その後小学校は室戸台風の被害を受けて石垣へ移転し、現在は玉川保育園となっている。継承寺院の西福寺本堂は宝暦年間の建築、本堂内東脇の仏たちが安置されている中に、東福寺の「一尺三寸」の聖観音と思われる仏像がある
井堤寺(いででら)故跡
奈良(天平)時代、聖武天皇の勅願によって、上井手の地に橘諸兄(たちばなのもろえ)が氏寺として建立した寺で、四方200m以上の寺域であったと推定されている。西方浄土を形づけようと境内はじめ借景となる玉川ほか一帯に、「黄金の花」ヤマブキを彩ったという。橘諸兄は井手左大臣と呼ばれ、この地を根拠地として天平の国政を担った要人である。
井堤寺は応仁の乱の頃失われたと考えられ、現在発掘調査が行われていて、寺跡からは当時の瓦や石敷等が出土されている。
井手山 二十六番 永福寺
かつての永福寺は、上井手の地蔵院付近(現在の駐車場)にあった。地蔵院の記録によると、当院は白鳳の頃橘諸兄の草創で、寛永の頃復興、江戸中期には末寺一八ヶ所もあり、門前永福寺もその一つ。
玉津岡神社にあった千手観音は、明治初期の神仏分離政策で、地蔵院へ移った。その後明治14年5名の発起人が観音修繕の寄付を呼びかけ、修復を終えた。地蔵院境内に「文永十二年建立之 永福寺」銘の石灯篭がある。
地蔵院の境内から井手町を臨む
石垣 二十七番 観音寺
廃寺跡は未だ確定できていない。
石垣村の観音寺は、二十六番井手山永福寺より「十丁」の場所といわれていることから、現在の石垣地区でもかなり東よりの地かと思われる。江戸時代、椿井平群廣雄の模写した古絵図の、石垣里には八幡宮の東に「観世音寺観音堂」が描かれている。
明治六年十一月に廃寺となったため什宝物は西福寺に引き継がれた。
「十一面観音 厨子入り 本観音寺分壱体」という記録の通り、「三尺五寸」の観音さんは、廃寺となった玉井寺や東福寺の仏像群とともに、安置されている。
西福寺
せいか小さな旅でいただいたパンフレットを参考にしました、そのパンフレットには
★山城町 古文書サークル 如月会『江戸時代の南山城三十三所を訪ねて』より引用とありました。
明治維新、この国は神の国っと・・・
それからは明治の廃仏毀釈で多くの寺院が失われました。大切な什宝類は近くの寺院に移されたりしました。太平洋戦争後、この国が神の国ではないとなり・・・
考えると「なんと・・・」としか言いようがありません
民家の塀越しや道端に咲いていたお花たち
ヤマブキ ヤナギハナガサ
ヒガンバナ
ハギ シュウメイギク
カキドオシ アメリカセンダングサ
アレチヌスビトハギ
この実の名前は?その葉
井手町:汚水管マンホールの蓋
・町の花ヤマブキと井手の井がデザインされている。
京田辺市:汚水管マンホールの蓋
市の花ヒラドツツジと、中央に市章がデザインされています。
下部に「ひらどつつじ」「おすい」と書いてあります。
市章は、京田辺の田の文字をかたどり、丸い円は市民の融和を意味し、
横に突き出た部分は無限にのびゆく京田辺市を表現したものである。
木津川に架かる玉水橋を渡ると京田辺市です。まっすぐ歩いて近鉄線三山木駅から帰路につきました
【おまけ】
お寺参りをしていて境内に神社をお祀りしてるのが不思議に思ったことがありました。そして多くのお寺が廃寺になったという事実を知ってビックリした記憶があります。今回南山城三十三所のお話を伺って「そうなんですか」っと。
そのワケは明治維新の頃、明治5年、南山城三十三所の半分が廃寺となっている。そのため巡礼もだんだんと廃れていったものと思われる。精華町の数箇所の寺院もこの時期廃寺となっている。このように多くの寺院が廃寺となったのは明治維新政府が神仏分離令の公布により「神と仏を分けなさい」それまでは神社にお寺が有り、寺に神社があり・・・住職さんが神社の面倒をみていた、地方にある神社は神主さんが不在状態でした。神仏分離令というのは王政復古(天皇制)で祭政一致(さいせいいっち)「祭」は祭祀,「政」は政治で,宗教的権威に基づき,司祭者が政治権力を保持する神政政治をさす。
全国的に廃仏毀釈運動が起こった。仏教の排斥、寺院、仏像、仏具などの破壊などにより多くのお寺が廃寺となった。この時代より日本の国は神の国となっていった。第二次大戦への突入により、第二次大戦後この国は神の国ではなくなった。
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